『ゴールドラッシュ』の少年が象徴的なのは、父親を殺すことでしか「父」に出会うことができなかった点にある(「父」とは、もはや実在する父親ではなく、猥褻な超自我の位置を占めている)。したがって、少年にとって父親が最初から不在であったものと理解されてはならない。少年にとっての困難は、「父の不在」という欠如を―父親殺しという転倒された方法であれ―生み出すことにあった。たとえば、少年は父親を殺害した後で、ある人物に「ぼくのパパになってください」[270p]と口を滑らせる。最後の場面では、離散していない頃の家族写真を想起する。「この写真は何回も見たことがあるのに父親の眼差しに宿っている哀しみに気がついたのははじめてだった」[323p]。これらに「父親探し」という主題を看取するのは容易い。しかし、以上の解釈は結果と原因を混同している。そう、少年は「父」を求めていたが故に父親を殺してしまったのではない。「父親探し」という欲望は、父親殺害の結果であって、原因ではない。既に指摘したように、少年にとって「父親殺し」はアクシデントであって、彼の目的は(父親の生前から既に見られた)「猥褻な超自我の声」を抑圧することに こそあったからである。ゆえに、「父の不在」とは「猥褻な超自我の声」が噴出する「穴」を意味する訳だが、父親を殺してしまった結果、これらの問題が「父親探し」に横滑りすることになる。「父親探し」はもはや、少年の本来の目的を忘却させるに足る格好の言い訳(誤認された原因)になることだろう。かくして、少年は「父」を欲望するために必要とされる手続きとして、まずは「父の不在」を自ら生み出し、そうすることで獲得された喪失感を梃子にして「父親探し」という誤認された欲望を生きていく、というシナリオに書きかえられることになる。
 しかし、前節で明らかにしたように、「猥褻な超自我の声」が響いてくる「穴」とは、コミュニケーションの問題であって、実際的な父―息子関係に収斂するものではない。告白後の最後の場面に「耳鳴りはしだいにはっきりとした声に変わり、うるさいと頭をふったがしゃべっているのは少年自身だった」[317p]とあるが、もはや明らかなように、自分自身にさえ了解不可能な「声」こそが「猥褻な超自我の声」に他ならない。彼は未だ言語的秩序に噴出する「声」を塞ぐことができないでいるのである。したがって、その直後に続く「少年が抵抗し降伏しようとしているのは、ほんのわずかにこころのなかに芽生えた罪の意識だった」[317p]という一文を信用することはできない。「罪の意識」は直接的には殺してしまった父親に向けられているのであって、彼が直面していたコミュニケーションの不可能性に言及できていないからである。ゆえに小論は、「父の不在」を「父親探し」によって充足させてしまう解釈を、@「父の不在」という欠如は事後的に形成されたものである、A「父親探し」という欲望は「猥褻な超自我の声」が噴出する「穴」を埋めることができない、という以上の二点の理 由から退ける。「意味」以前に「響き」に共振してしまうが故のコミュニケーションの不可能性。これこそが「善悪の彼岸」が示していた事態なのだから。言葉の「意味」が欠如しているだけならば、「意味」を回復することで問題は解決される。しかし、「しんしるよ」と発語することで少年が得たものは、自分には「意味」が欠如さえしていないという恐怖に他ならない。『ゴールドラッシュ』は、欠如が欠如しているという「欠如の欠如」を主題化しているのである。
 以上のような「欠如の欠如」型の言説は、酒鬼薔薇事件と関連付けられた『新世紀エヴァンゲリオン』においても見受けられる(九五年一〇月から九六年三月にかけてテレビ東京系にて放映され、九七年三月に『シト新生 DEATH & REBIRTH』、七月には『THE END OF EVANGERION Air /まごころを、君に』が公開)。川島は言及していないが、『ユリイカ』の九六年八月号では「ジャパニメーション」が特集に組まれ、多くが『エヴァ』を議論していた。各方面で取り上げられていた最中にあって、「児童文学特集」で議論されていなかったのは、児童文学関係者が『エヴァ』をどのように評価するのか関心があった私にとって、意外であった。
 『ゴールドラッシュ』との類似点のみ確認する。汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオンは、「使徒」(シトはヒトの可能性の一つだと劇場版で明らかにされた)撃退を想定された生体兵器である。使徒は、ATフィールドと呼ばれる特殊なバリアー(「誰もが持っている心の壁」と表現される)を張り巡らす。エヴァだけがATフィールドを裂くことができる訳だが、その際に用いられるのが「プログレッシブナイフ」である。エヴァに搭乗できるのは、エヴァにシンクロする十四歳の子どもに限られる。主人公の少年碇シンジもまた、父親の管轄下、エヴァに搭乗して使徒を撃退していく。『エヴァ』の隠喩の系列を明らかにする余裕はないが、オイディプス的主題がコミュニケーションの不可能性として立ち現れてくるところなど、内容上の相似が指摘できよう(ラカン派的な洗練された言い回しでは、「『エヴァンゲリオン』においてシンジはまさに去勢された、斜線つきの主体である」[上野俊哉1996:190p]となる)。
 しかし、内容的な関わり以上に小論が関心を寄せるのは、受容回路である。たとえば、時評関係に目を転じれば、『エヴァ』に関する限り、『日本児童文学』等に見られた時差は認められない。ひこ・田中[1997]は「そこに作者(庵野秀明)から子どもたちへのメッセージを読み取れるのやけれど、少々説教臭すぎると思った。もっとも、説教が息子たち〔庵野を父親とした場合のコミュニケーションの受け手を指す、引用者注〕を惹き付けている可能性はある」(『読書人』四月一八日付)と指摘し、石井直人[1997]は「ファンとおぼしき女の子男の子が、(略)「エヴァ」の登場人物(略)の生き方にたくして、私的な悩み事をのべ、私探しをしようとしているのは、ちょっと気にかかる。かつて、人生論に場を提供するのは、文学の仕事だったように思うからだ」(『図書新聞』五月三十一日付)と言う。さらに、香山リカ[1998:188p]の発言―「エヴァンゲリオン、それをめぐるインターネットの中のメッセージ、閉じこもりの男の子からのメールや手紙などには、何度も何度も「僕って何?」とか、「僕は何のために生きているの」というメッセージが判で押したように書かれています」―を 並べてみよう。ここにあるのは、補完されるべき内面が欠如していることに対する苛立ちである。喪われた自我を取り戻す以前に、毀損されることができる喪失感(内面性)こそが欲望されている(そうすることで、はじめて「私探し」に参加できる)。彼らが最も怖れているのは、自我が毀損されることではなく、毀損されるべき自我さえも見出だすことができない寄る辺なさであった。
 以上のように、『ゴールドラッシュ』あるいは『エヴァンゲリオン』に「欠如の欠如」を指摘することは容易い(「欠如ということが、あるいは欠如感が欠如しているわけです」[大澤真幸1998:54p])。あるいは、酒鬼薔薇。曰く、「透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである」。「透明な存在」(「僕であっても僕でなくてもいい存在」[宮台1997:35p])とは、内面という埋められるべき欠如が欠如している様態を指す。そこで立ち現れてきたのが「バモイドオキ神」という「猥褻な超自我の声」であった。小論もまた、そのような方向で議論を進めてきた訳であるが、このようなスタンスには次に示す決定的な問題点がある。
 たしかに、『ゴールドラッシュ』の少年は「欠如の欠如」(残響)に共振していた。しかし、少年は「それEs」を怖れていたのであって、一般的な意味においては決して欲望してはいなかった。にもかかわらず、われわれの多くは「欠如の欠如」(善悪の彼岸)を語ろうとする。両者の間の懸隔は、一方的な(後者の前者に対する)「共振」によって短絡されて埋められることになる。小論が「善悪の彼岸」に共振を示す言説一般に批判的なのは、その多くが「共振させられてしまうこと」と「共振を欲望すること」の決定的な差異を無視してしまっているからである。共振とは、何ものにも媒介されない短絡されたコミュニケーションである。「善悪の彼岸」が「心の闇」の剰余として位置付けられていたことを想起しよう。「善/悪」といった言語的分節が可能な意味で了解可能な「心の闇」(オブジェクト・レヴェル)と、そのような言語的分節を超えた(了解の仕方では)到達不可能な「善悪の彼岸」(メタ・レヴェル)。共振は、「善悪の彼岸」というメタ・レヴェルに短絡された一点から、メタ・レヴェルをオブジェクト・レヴェルに畳み込む。しかし、このように短絡されたコミュニケーション は、短絡されているが故に、オヴジェクト・レヴェルでの了解/誤解可能性を排除してしまう(共振は絶対的な了解不可能性から出発するのだから)。他者についての誤解可能性を排除したコミュニケーションは独我論と呼ばれるが、だとすれば共振という言説ほど独我論的なものはない。われわれは、共振という言説が他者の了解不可能性を与件としていることに騙されてはならない。他者の了解不可能性が共振として他者への絶対的な到達可能性を帰結するだけならば、他者に到達できないかも知れない誤解可能性(オブジェクト・レヴェル)にこそ留まるべきではないのか。それこそが了解可能性を拓くのである。以上のような理由から、児童文学関係者は、「善悪の彼岸」に共振を示すことに禁欲的でなければならないのである。

(補遺1)たとえば、森絵都『つきのふね』[1998:169p]は、二四歳の智青年に「みんながべつべつに生きてるのはいけないことだ。このままいくと人類はますますばらばらになって収拾がつかなくなる。地球には人と人とをへだてる障害物が多すぎるんだ。そこで彼らは、宇宙船のなかで人類をまたひとつにすることにした」という台詞を口にさせた。それこそ『エヴァ』の「人類補完計画」にシンクロしたこの言説は、「補完されるべき内面」を欲望していると言える。このような欲望が「欠如の欠如」に対する反動であることは指摘した通りだ。彼がコミュニケーションできないのは、「彼ら」(方舟を建造するように囁く声=猥褻な超自我)にシンクロした結果である。智もまた、『ゴールドラッシュ』の少年の問題に直面していたのだ。しかし、『つきのふね』は「猥褻な超自我」の相関物である「月の船」を降臨させることはしなかった(予言は成就しない)。それまで強迫観念のように固着していた「月の船」のイメージは、水面に映える「金具の壊れた銀のバレッタ」に代理表象されることで、「些細なもの」に置換されることに成功したからである。もはや、智は「月の船」を欲望すること はないだろう。『ゴールドラッシュ』の少年もまた家族写真の父親を再発見する訳だが、少年は父親を欲望して止まない。少年が家族写真を反復するのは、そのためである。智とは違って、少年は父親を欲望し続ける。智が「バレッタ」を見て「月の船だよ」[224p]と名付けることができたのに対して、少年は「しんしるよ」と発語することしかできない。『つきのふね』に『ゴールドラッシュ』の閉塞感が見られないのは、『つきのふね』が「猥褻な超自我の声」に共振するに止まらないからである。すなわち、猥褻な超自我の声を聞いていないこと(想像力の欠如)ではなくて、そのような声に共振するに止まる姿勢(想像力の剰余)こそが問題なのである。
(補遺2)5節で俎上に載せられているのは、ラカン派的な枠組そのものである。小論で は、理論的前提を確認する余裕がなかったので割愛した(東浩紀[1998]に詳しい)。たとえば、香山リカと大澤真幸の対談は[香山1998]、頻繁にラカンに言及している。両者のスタンスは、精神科医と社会学者という立場に応じて相違を見せているが、ラカン派的な枠組自体の問題がもう少し議論されてよかったように思う。なお、東が示唆したように、フロイトとラカンの差異は重要で、結果的にフロイト=ラカンという同一性を強調したかの印象を与える小論には問題がある。いずれ、このような系列の理論的前提は議論される予定だが、これまで論じたものとして目黒[1998a,1998b,1999]を参照していただければ幸いである。

[文 献]
東浩紀 1998『存在論的、郵便的』新潮社
石井直人 1992「《主人公》のいない文学」『飛ぶ教室』四三号、楡出版、所収
     1997「児童文学クロニクル」『図書新聞』五月三一日付
石澤誠一 1996『翻訳としての人間』平凡社
上野俊哉 1996「ジャパノイド・オートマン」『ユリイカ』八月号、青土社、所収
大塚英志 1998「少年とナイフ」『中央公論』四月号、中央公論社、所収
     1999「マス・プロダクツの欲望」『中央公論』二月号、中央公論社、所収
大澤真幸 1998「自我を守る殻を持たない「甲羅のない亀」たちの病理」(町澤静夫との対
 談)『心はどこへ行こうとしているか』マガジンハウス、所収
甲木善久 1997「子どもの本ギョーカイの怪」『ぱろる』八号、パロル舎、所収
香山リカ 1998「酒鬼薔薇聖斗の「聖なる実験」と、透明を実在に変える視線」(大澤真幸
 との対談)『心はどこへ行こうとしているか』マガジンハウス、所収
柄谷行人 1980『日本近代文学の起源』講談社
川島誠 1997a「「罠」としての児童文学」『ユリイカ』九月号、青土社、所収
    1997b「平成九年のフットボール」『日本児童文学』九―十月号、所収
川村湊 1998「文芸時評」『毎日新聞』十月二七日付夕刊
小森陽一 1998「文芸時評」『朝日新聞』十月二七日付夕刊
重松清 1999『エイジ』朝日新聞社
芝田勝茂 1997「ティラノザウルスのいいがかり」『ぱろる』八号、パロル舎、所収
清水真砂子 1984『子どもの本の現在』大和書房
立花隆 1998「正常と異常の間」『文藝春秋』三月号、文藝春秋社、所収
ひこ・田中 1997「児童文学時評」『読書人』四月一八日付
フロイト、ジグムント 1920=1996(中山元訳)「快感原則の彼岸」『自我論集』ちくま学芸
 文庫、所収
           1923=1996(中山元訳)「自我とエス」『自我論集』ちくま学芸文庫、
 所収
宮台真司 1997『透明な存在の不透明な悪意』春秋社
村瀬学 1998「「らしい」と「である」の物語」『日本児童文学』一―二月号、所収
目黒強 1998a「独話不可能性に関する一考察」両輪の会『両輪』二七号、所収
    1998b「イデオロギーと主体」第三七回日本児童文学学会口頭発表
    1999「主体化という問題設定」両輪の会『両輪』二八号、所収予定
森絵都 1998『つきのふね』講談社
柳美里 1998a『仮面の国』新潮社
    1998b『ゴールドラッシュ』新潮社
    1998c「少年Aが持つ心の闇」(インタヴュー)『読書人』一二月四日付
    1999「魂を襲った大地震」(筒井康隆との対談)『新潮』二月号、所収

※小論は、日本児童文学者協会主催の「関英雄記念 評論研究論文」に佳作入賞したものです。選考経過等については、機関誌「日本児童文学」9・10月号に掲載予定だそうです。拙文は、佳作ということで掲載されないため、こういう形で公表することにいたしました。ご感想等がございましたら、よろしくお願いします。t-meguro@kh.rim.or.jp

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