共振というコミュニケーション問題

「少年A」に関する言説について

目黒 強

  

 『ユリイカ』の一九九七年九月号で、「イノセンスの怪物」という副題が付されて「児童文学」が特集された。同年五月に神戸市須磨区で起きた酒鬼薔薇事件が各分野に波紋を及ぼしていた最中であったので、単なる児童文学特集ではないはずだとの期待を抱いて手にした読者も少なからずいたことと思う。しかし実際には、同誌上で川島誠[1997a]が批判した通りになってしまった。川島の批判は少なくとも三点ある。@「読みもしないで、というか、毎年毎年生み出されている現代の日本の児童文学がまるで存在しないかのように無視して「児童文学」の特集を組むのは、どうしても変」[196p]。A「現実に日本語で書かれている現在の文学作品を無視して、「文学」を語ろうなんて」[197p]。B「結局、私が言いたいのは、もっと現実を見ることから始めようという単純なことなのですが、今、旬の話題は灰谷健次郎」[197p]。Aは判りにくいので補足しておけば、児童文学の制度性批判が往々にして作品不在で行われている現状に対する発言である。Bは、酒鬼薔薇事件での被疑者の写真が『FOCUS』九七年七月九日号に掲載されたことに対して、灰谷が出版元の新潮社から版権を引き上 げた経緯を指している。@で編集部の無知(イノセンス)を指摘した川島は、翻ってAとBにおいて児童文学関係者の現実との関わり方(アクチュアリティ)を批判する。甲木善久[1997]によれば、灰谷の版権引き上げ問題に言及したものは、川島を除けば、上野瞭と佐藤通雅の両名ぐらいしか見当らなかったらしい。「子どもの本関係者達の発言が極端に少なかったのは奇妙である」[甲木1997:49p]としか言いようがない状況が存在していたのである。
 たとえば、柳美里[1998a:100―105p]が『新潮45』九七年九月号(引用は単行本版『仮面の国』から)で―版権問題から議論は逸れているが―灰谷の教育観批判を行なっている。柳の批判は、灰谷が図工の授業で、画用紙の大きさでは物足りない生徒の希望に応じて、輪転機用の巻取紙を買い与えた点に向けられる。曰く、「生徒が先生に教材以外のものを買ってこいと命じ、先生が教室を飛び出して買いに走る図は滑稽かつ異様であり、とても容認できるものではない」[102p]。「異様」なのは「子どもは王様であるという灰谷氏の特殊な感性と、この先生なら何でも言うことをきくに違いないという生徒双方のエゴイズムが奇妙にも一致した愚行である」[103p]からであり、「容認」できないのは「NHKの番組〔『人間大学』での講義「子どもに教わったこと」を指す、引用者注〕を観た子どもが、この生徒のこのような行為が是認されると思い込んでしまったら教育上好ましくない」[103p]ためであるとされる。しかし、少なくとも、清水真砂子[1984]以後のわれわれにとって、灰谷批判はさして目新しいものではない。「自ら良心の帝国を築き、自分こそは正義を体現しているのだとして (略)、我に賛同する者、我を支持する者は優遇するが、少しでも疑問を抱く者、異議を唱える者は斬って捨てようとする。灰谷の世界では“反"の思想をもつ者しか生きることができない(これはすでに作家としての自殺行為であるのだが)」[清水1984:199p]といった見解は、川島[1997a]のみならず、児童文学関係者内ではある程度共有されたものである。したがって、柳が皮肉をこめて批判した次の文章は、清水以後のわれわれにとって、あまりにもナイーブに思われる。「私は文学は善悪や正邪の彼岸にあると考えているので性善説〔灰谷を指す、引用者注〕など取りようがないのだ」[100p]、「しかしその灰谷氏がなぜ新潮社に対しては、「今は悪行に血迷っているが、そのうち悔い改め、本来の良き新潮社に更正し立ち直って健全な姿を取り戻すだろう」と考えないのか不思議である。『フォーカス』誌に「悪いことをした者は厳しく罰するというのは一見、正しいようだが、そう考える人間、それを支持する人間には怠け者が多い」と書いている灰谷氏は新潮社を既に厳しく罰している」[101p]。
 さて、その柳が酒鬼薔薇事件およびナイフ事件をモチーフに、十四歳の少年を主人公とした小説『ゴールドラッシュ』[柳1998b]を上梓した。予め断っておくが、小論の関心は、『ゴールドラッシュ』を「小説」として議論する点にはない。したがって、本書が「児童文学」として読まれ得るか否かといった論点にはかかずらわない。むしろ、議論したいと考えるのは、次の対談に示されている問題である。先に引用した箇所でも、柳は「私は文学は善悪や正邪の彼岸にあると考えているので性善説など取りようがないのだ」と述べていたが、筒井康隆との対談[柳1999:180p]で次のように発言している。

 筒井 あの少年の事件〔酒鬼薔薇事件、引用者注〕が起こったときに、「心の闇」とさかんに言われた。しかし、「闇」という言葉では捉えきれないんじゃないかと思う。明るい部分もあったかも知れないし、それから何より善悪の彼岸にある事件であってさ。(略)「心の闇」で片付けられる程度の事件じゃなくて、例えばオカルトならオカルトの領域までずーっと入っていかなきゃいけない。(略)ここから先はもう文学の領域だ、てめえら何にも言えめえってね。悪なんてものであの事件を一括できないよな。
 柳 私もインタヴューなどでは解り易くするために「心の闇」という言葉を使いました が、分析したり解説したりすることには何にも意味もない。あの事件を語る場合、あの少年が抱えていたものと共振するものが自分にあるかということが問われるのではないでしょうか。それに、少年の心に入ったり、出たり、潜ったり、離れてみたりできるのは、文学の領域だと思うんです。

 二人とも「心の闇」を否定しているのは一目瞭然だが、否定すればする程に「心の闇」以上の何ものか(「善悪の彼岸」と表現されている)が強調され、「善悪の彼岸」は文学の領域に囲い込まれる。通常の了解の仕方(分析・解説)では到達不可能な「善悪の彼岸」に到達する可能性が「共振」という身体性のレヴェルに求められている。ここでは、「心の闇」はあくまで言語的分節が可能な「意味」の世界であるのに対して、「善悪の彼岸」は言語的分節(善/悪など)以上の「何ものか」として示されるだけである。到達可能性は示唆されているが、到達できたとしてもそれは「了解」の一歩手前の「共振」に留められている訳である。「善悪の彼岸」とやらを文学に囲い込むだけならば、それは単なる近代文学以来のお馴染みのポーズでしかない。そこには、柄谷行人[1980]を参照枠に、「成長物語」の軛を逃れる方途を模索している石井直人[1992]の困難は見受けられない。後述されるように、児童文学関係者の沈黙は、「善悪の彼岸」に共振を示すことが困難であることに由来するのではないか。以下、小論では、「善悪の彼岸」の位相に着目して考察を進めていくが、『善悪の彼岸』の著者 であるニーチェにまで遡った議論は意図していない。多少議論を急ぎすぎた。補助線を引いておこう。

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