4 『おれは鉄兵』のこと


 わたしははじめ、『兎の眼』から『おれは鉄兵』まで……と記した。だから、ここで、ちばてつやのその漫画にふれる必要がある。わたしがこの作品に属目したのは、「少年マンガ週刊誌」について原稿を書いてはとすすめられたことがきっかけである。机の横に山ほどの漫画単行本をつみあげ、それをくずすように読んでいった。そうして書きあげたのが、「願望の具現者としての漫画のヒーロー」である。これは「読売新聞」(一九七八年三月一七日)の「文化欄」に掲載された。その一文を抜き書きすることによって、この小論のひとつのしめくくりにしたいと思う。

 きわめてうかつなわたしは、最近になってそのことを教えられるまで、「少年マンガ週刊誌」の現状をまったく知らなかった。
 昭和三十四年に創刊された『少年マガジン』と『少年サンデー』が一〇〇〇号を超えた。この二誌に、『少年ジャンプ』、『少年チャンピオン』、『少年キング』を加えて、一回の実売部数が合計八〇〇万部に達している……というのである。なるほど、すごいものだな、と感心しながら、わたしはその「売れ行き」に驚くよりも、改めて「少年マンガ週刊誌」の現代社会で果たしている役割ということを考えてしまった。
 それは、言いかえてみると、「願望の具現者」としてのマンガのヒーローの役割ということになる。マンガの読者は、「おもしろい」から「少年マンガ週刊誌」を読むというだろうが、その「おもしろさ」の中心にあるのが、マンガのヒーローたちだということである。意識するにせよしないにせよ、マンガの読者は、ヒーローたちの中に自分の共感できる代弁者なり心情同化の可能な人間像をさぐりあてているということである。その意味で、マンガのヒーローたちは、現実の少年少女の願望を具現している存在といえる。「願望の具現者」としてのヒーローが存在するからこそ、読者は「少年マンガ週刊誌」を「おもしろい」と思うのだろう。とすると、マンガのヒーローたちが、現実の子どものどのような願望にこたえているのか、その点が問題になる。
 もちろん、願望といっても多様である。そのことは、『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)や『がきデカ』(山上たつひこ)を愛読するものがいる一方、『はいからさんが通る』(大和和紀)や『まことちゃん』(楳図かずお)を推すものがいることでわかる。しかし、そうした多様なマンガの中で、現代のヒーローたちが共有している役割というものはないのだろうか。わたしは気まぐれなマンガの読者だが、あえて独断と偏見にみちた言い方をすれば、そこにはヒーローたち共有の役割があり、それを集約しているものが、ちばてつやの快作『おれは鉄兵』(『少年マガジン』連載中)ではないかと思うのである。なぜか……という前に、その「あらすじ」に触れてみよう。
 この長篇マンガの主人公は上杉鉄兵である。彼はまず完全な「はみだし者」として登場する。本来ならば中学生なのに、その前の小学校にさえ通っていない。家出した父親といっしょに埋蔵金発掘に努力している。しかし、ひょんなことから家族のもとに連れもどされ、否応なしに私立の中学に入学させられる。自分の名前さえろくすっぽ書けないこの主人公は、授業についていくことなど不可能である。教壇の上に設けられた特別席で一日中眠り続ける。
 いわば「劣等生」であるこの主人公が、生気を取りもどして大活躍するのは剣道部においてである。我流のケンカ剣法によって、彼は頭角をあらわしていく。退学。他校への編入学。その中でますます独自の能力を発揮する鉄兵……。
「あらすじ」といえばこれだけのことだろうが、わたしはこう書きながら、ひどく味けない思いにかられている。このマンガはひどく「おもしろい」のである。しかし、「あらすじ」の紹介はその魅力を半減するどころか、抹殺さえしかねない。そう感じる。にもかかわらず、あえて右のように書き抜いたのは、この主人公がいわば「落ちこぼれ」であることを確認するためである。
 このヒーローは、既成の社会通念や価値観から完全にはみだしている。問題児として設定されている。しかし、彼は屈折することを知らない。じぶんが既成秩序からの「落ちこぼれ」であることを恥じるどころか、反対に、「落ちこぼれ」であることを起爆力にして、自己の存在価値を周辺に知らしめていく。それどころか、「落ちこぼれない」(あるいは「落ちこぼれ」をおそれる)大多数の人間の中にあって、「落ちこぼれ」こそ真の人間らしい存在ではないかということを具現していく。言いかえるなら、このヒーローは、「落ちこぼれ=だめな人間」という現代社会の通念をみごとに打ち壊しているのである。極言すれば、「落ちこぼれ」賛歌である。たぶん、こうした人間像に喝采を送らない少年少女はいないだろう。なぜなら、現代の子どもは、苛酷な「受験体制」の中で、常に「落ちこぼれ」の不安とおそれを共有しているからである。子どもだけではない。大人もまた、複雑な人間関係や管理機構の中で、おなじ不安とおそれにさいなまれているからである。
 上杉鉄兵はそれを陽転させる。「落ちこぼれ」である自己を肯定することにより、現実に存在する「落ちこぼれ」の不安とおそれの、何ものでもないことを告げる。「落ちこぼれ」の価値や才能や可能性を、みごとに紙面の上で具現していく。このさわやかな在り方こそ、子ども・大人を問わず、現代人の一つの潜在化した願望だろう。マンガのヒーローたちは、多様な形で、じつは上杉鉄兵的役割を果たしているように思えてならない。そうでなければ、どうして今日もまた、大人たちまでが「少年マンガ週刊誌」を手に取るだろう。「落ちこぼれ」を生みだす社会が存続する限り、そうした社会機構への暗黙の拒否表明として、マンガのヒーローは活躍を続けるに違いない。

 この引用は、『兎の眼』や『はせがわくんきらいや』とつながっていないだろうか。まったく唐突な感じを与えるだろうか。もしそうなら、今一度、『兎の眼』と『はせがわくんきらいや』で、わたしのふれたことを読みかえしてほしい。わたしは、一九七〇年代、ひそかにまがり角をつくった児童文学作品と絵本の中に、人間の在り方を示唆するものとして、従来「はみだしっ子」ないし「落ちこぼれ」などと否定的評価を受けた人間の、じつはまったく逆の発見と表現があることを指摘したはずである。それは、まわりの子どもたちから、一見「いたわられる」ような形で描きだされていた。しかし、ほんとうはそうではないということを語った。わたしが、『おれは鉄兵』を強く推すのは、そのことと関わっている。校庭を自由に歩きまわる伊藤みな子。はなをたらしながら野球で三振をくりかえす「はせがわくん」。それに、どのクラブに入部してやろうかとグランドを疾走する上杉鉄兵。その三人の姿は重なりあってくるのである。はじめに映画『愛と喝采の日々』のことを書いた。だから、おしまいにもう一度だけ出発点にもどっておこう。それは、シャーリー・マクレーンとアン・バンクロフト みたいに、子どもの本の turning point がはっきりしているものなら、どうしてわたしがこういうことを書く必要があろうか……ということである。(『われらの時代のピーターパン』収載 1978/12/20)
テキストファイル化 加藤浩司
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