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6わたしは、「ビルマの竪琴」論が右に書き抜いてきたものによって言いつくされている、代表されている-ということが言いたいために長々と引用してきたのではない。それが肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、実は正面からこの作品に取り組んで検証された評価は少なく、文学史的記述の中で、あるいは他の問題に言及する過程において、一種の定型化した通念を押しつけられたままに終っていたのではないか-ということが言いたかったためである。定型化した通念-こう言えば誤解を生むかも知れないが-それは、長短の両極に「平和への意志」「戦後の収穫」あるいは「一億総懺悔」という評価を置く考え方である。 那須田稔と猪野省三は、共に、この作品が正面から取り組まれなかったこと-一種のサボタージュがあったのではないか-と推測しているが、「ビルマの竪琴」に、もしサボタージュということばが当てはまるとするならば、それは「取りあげられなかった」のではなく、「取りあげられた」が、その取りあげ方に一種の怠慢があった、右にあげた定型化した通念によりかかっていたという点こそそれであろうと考える。 しかし、ここでは「ビルマの竪琴」に関する諸評価の再検討が目的ではないから、そのことにはこれ以上触れないとして、わたし自身のネガティブな評価に移らなければならない。このことは、とりもなおさず、右に指摘した通念の掘り下げにもなるものだと考えるからである。 「水島上等兵は竹山道雄の戦争責任の自己追求の姿である」「ここに自らの手で戦後と対決した一人の作家を見る」と、わたしは第四章で記してきた。そして、これは「ビルマの竪琴」に対するポジティブな評価というだけではなく、戦後児童文学の領域で大きく問題視しなければならぬ作家主体の問題、「戦後責任」の受けとめ方への評価でもあると書いておいたわけだが、わたしのネガティブな検討もまた、ここに始まるのである。 いったい「自己追求」といい「戦後との対決」といい、それはどんな形で行なわれた追求と対決なのか。それは、まさに一人のリべラルとして十分に期するところを果たし得たものだったかどうか。焦点はそこにある。 「幾十万の若い同胞が引きだされて兵隊になって、敗けて、逃げて、死んで、その死骸がまだそのままに遺棄されています。それはじつに悲惨な目をおおうありさまです。私はそれを見てから、もうこれをそのままにしておくことはできなくなりました。これを何とかしてしまわないうちは、私の足はこの国の土を離れることはできません」 主人公・水島上等兵は、ビルマの山河に遺棄された死体を前にしてこう考える。これはそのまま、海外で、また国内で、戦争のために死んでいった同胞を見る竹山道雄の考えだったと言ってもよい。「これを何とかしてしまわないうちは」という水島の心境は「今度の戦争について何とか自分で対決しないうちは」という作者の心境であり、「私の足はこの国の土を離れることはできません」という水島の決心は、「戦後の新しい出発はできない」という作者の決心と重なるものであった-こう言っても間違いはないだろう。 作者は、水島上等兵をして語らせる。 「まことに、われわれは、われわれの同胞は、くるしみをなめました。多くの罪なき人々が無意味な犠牲者となりました。まだ若木のような、けがれを知らぬ人たちが、家をはなれ、職場を去り、学窓を出て、とおい異国にその骨をさらしました。考えれば考えるほど痛恨にたえないことです。そして、かえりみて、私は切に思います。われらはこれまであまりに無思慮だった。あまりに生きているということについての深い反省を忘れていたと」 この反省が出発点である。この反省なしに戦後の出発はなし得ないということ、これは時代を誠実に生きる者としては当然のことである。が、間題は、その反省がどう生かされたか、生かされようとしたか-ということにある。 「まちがった戦争とはいえ、それに引き出されて死んだ若い人たちに何の罪がありましょう。イギリス人も日本人も、おたがいに霊は、はやこの世をはなれた人々です」 敵、味方を問わず戦争犠牲者に対する哀悼の意。あるいは-「日本人はむかしはすべて、とけあったしずかな生活を好んでいたのですが、いまは諸国民のあいだでも、もっとも活動的な能率の上る国民の一となったのですから。つまり、こんなところにも、世界をそのままうけいれて、それにしたがうか、または、じぶんの思いのままにつくりかえていこうとするか-という、人間が世界に対する態度の根本的な差違があらわれていて、すべてはそれによってきまるのです。(中略)このような態度、世界と人生に対するこのような行き方は、どちらの方がいいのでしょう。どちらが、すすんでいるのでしょう。国民として、人間として、どちらが上なのでしょう」 という日本人全体の生き方の再検討。これは、そのまま、反省を生かしたことになっていたのであろうか-ということである。 作者は、ケサの生活か軍服の生活か-と問うことにより、戦争につながる現代人のあり方を批判し、死者に哀悼の情をのべることによって、平和への意志を示した。(示そうとした)このことは間違いない。しかし、戦後を誤まりなく生きて行こうとする者として戦争に対決し、それを反省的に把握するということは、死と破壊に責任を感じ、軍服の生活を否定することだけにつきるものだったろうか。戦争とは、死と破壊である前に国家利益の対立であり、そうした国家体制の存在であり、同時に個人的あるいは社会的価値の転換や否定、時には崩壊を伴なうものだったと言える。平和への意志、戦争への否定的決意は、それを繰り返さないこと-その繰り返しを許さないために真の問題点を摘出し、その固有の価値観を否定寸ることにつながらねばならなかった、そうも言えるだろう。すなわち、国家の問題であり、われわれの社会体制の問題である。 何があったか。このことを考えてみるとはっきりする。 「わが国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが、いまだかってないのである。この点につき『臣民の道』の著者は『日常われらが私生活と呼ぶものも、ひっきょうこれ臣民の道の実践であり、天業を翼賛し奉る臣民の営業として公の意義を有するものである。かくてわれらは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ』といっているが、こうしたイデオロギーは、なにも全体主義の流行と共に現われ来たったわけではなく、日本の国家構造そのものに内在していた。(中略)私事の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は、裏返しにすれば、国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである」(丸山真男/超国家主義の論理と心理/一九四六年 世界) まず、われわれの国家体制が、個人の心情によって左右されるものではなく、戦争にしろ、平和にしろ、個人は国家の意志(国家利益)のままに左右された問題がある。 次にたとえ、そのような国家体制が崩壊しても、国家そのものの所有している戦闘的属性がそこになお残る。たとえば、大熊信行が、 「国家は、人間による人間の支配の組織である。その支配を支えているものが、政治学者のいわゆる暴力あるいは物理カである。(中賂)あらゆる新旧兵器とそれに適応する軍隊組織、また警察組織また行刑組織。すべてそれらのものは、個人の肉体的な力からみれば、うち勝ちがたい物理力として配置されている。それは冷厳な、数量的なものだ。その数量の前に個人の肉体的な物理力は無に等しい。(中略)人間が道義または倫理において、国家に屈しないことは可能であろう。死をもって、これと抗争することも確かに可能であろう。しかし、人間が死をもって抗争するとは、死によって抗争を終るということである。(中略)絶対主義国家というものは、もはや存在しない。しかし、国家そのものの絶対主義は、世界を通じて現実には消えてはいない」(国家悪/一九五七年 中央公論社) という場合の国家である。また、「国家が人類社会における最高の政治単位をなすかぎり、二つ以上の国家の利益が妥協の余地なき対立に追いこまれたばあい、戦争という暴力的解決の道をえらぶほかはない」「そのかぎりにおいて、国家は暴力装置をそなえた潜在的 戦争勢力にほかならない」(上山春平/大東亜戦争の意味/一九六四年 中央公論社)という意味での国家である。 「ビルマの竪琴」では、作者の戦争責任の把握は、この点にまで及んでいない。繰り返すことになるが、水島を通して受けとめられているのは「死と破壊」だけである。戦争そのものを誘発する国家の問題、国家体制の責任追求は、「人間が世界に対する態度」の問題としてすり抜けられている。ケサか軍服か-この設問は、われわれの直面した問題をすりかえたものだと言わねぱならない。敵、味方の死者を悼む心情が、差別のない人間同一視の立場からなされたことは良いとして、この同一視が、国家体制や国家利益の対立にまでおしひろげられたことは、「戦争との対決」の片手落と言わねばなるまい。 「しかし、思えば、われわれの国もむかしはこんなふうだったのでしょう。それが八十年ほど前から、にわかに近代風になったのです。それがこの短かいあいだにはなかなかうまくいかないために、いまさまざまな苦しみをなめているのです。われわれが国を出たときにはもう日本人は腹をすかせて、毎日追いたてられるように忙しく働いて、おそれおののいて暮していました。勝つか負けるかの争いに血相をかえていました。それにひきかえ、ここの国の人々は、おとなしく、弱く、まずしく、しかも、それに安住して、ただしずかに楽しんで生きています」 ここには近代化を急いだ日本の命運が、われわれ個々人の手によって、どうにでもなったのではないか、なったかもしれないのに、という嘆きと批判がある。しかし、それが、どうにもならなかったことに問題があるわけである。決して自主的に「腹をすかせて」「おそれおののき」「争いに血相をかえて」いたわけではない。出来うるならば「しずかに楽しんで生きて」みたかったはずである。唯それが、近代化を急ぐ国家の意志によって、阻止されたものである以上、この願いを果すためには、「近代化」の間題、「国家構造」の批判にまで立ち入らなければならなかったと思うのである。坂口安吾は、戦後すぐに、 「すくなくとも日本の政治家たちは、自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼らは永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要をかぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑いもしなかったし、迷惑にも思ってもいなかった」(堕落論/一九四六年 新潮)と書いたが、天皇制の問題にいたっては、「ビルマの竪琴」は全く口を閉ざして語らない。「逃げて、死んで、その死骸がそのままに遺棄されて いる」というその兵士たちは、最後に何と叫んで死んでいったのであろうか。このような言い方は感心したものではないと思うが、坂口安吾ですら、天皇制について触れる時、戦後の替り身の早さを身につけた啓蒙家たちを批判できる作者が、どうしてこの核心的問題を見逃していたのであろう。 これが偶然でも無関心な結果でもなかったことは、その兵士たちを考えてみれば解る。 |
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