つきのふね

森絵都

講談社/1998

           
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 森絵都の巧さは『宇宙のみなしご』(講談社/1994)で証明済みだが、今年(1998)の夏に上梓された『つきのふね』および『カラフル』(理論社)もまた期待を裏切らない作品だ。具体的にどのような設定がなされているかは明らかにする余裕はないが、総じて言えば、次のようになる。現実的に考えてまずありえないような状況設定であるにもかかわらず(屋根の上が舞台であり鍵となる『宇宙〜』。一度死んだにもかかわらず抽選で再び生を与えられてしまう『カラフル』)、同時代の雰囲気だけは的確に伝わってくる。現実的ではないけれどもリアルであるということ。このズレこそがページをめくらせることは言うまでもない(『つきのふね』のカバーイラストは桜沢エリカ担当。以上蛇足)。
 『つきのふね』では、ノストラダムスの予言にシンクロするかのような状況設定がなされている。西暦2000年に高校進学をひかえたさくらの「元」親友である梨利は、ノストラダムスの予言にかこつけて、進路希望調査に「二◯◯◯年なんかこない」と記入していたし、24歳の智という青年は人類を救うべく方舟の設計に勤しんでいる。梨利のストーカーである勝田少年は、ある切実な理由から、「月の船」に関する古文書を偽造する。この、あまりにも嘘くさい古文書(「真の友 四人が集いし その時/月の船 舞い降り 人類を救う/すると人類は もう宇宙船を造らなくてよくなるであろう」)は、ノストラダムスではないが、予言として機能することになる。興味深いことに、古文書が披露されたとき、それが本物であるとは誰も信じなかった。当の勝田少年さえも信じていなかった予言が成就するところなど、いかにも森絵都らしい距離の置き方である。ラストで、さくらたちは古文書に自分たちの運命を賭けることになるが、それができたのも、古文書があまりにも嘘くさかったからに他ならない。児童文学的ご都合主義に見える、こういう場面がリアルに思えるのは書評子だけだろうか( 「古文書」を「児童書」に置き換えて考えてみるのも面白いかも知れない)。
 しかし、一方で考えなければならないのは、仮に最初からさくらたちが古文書を信じて疑わなかった場合であろう。智が直面していた困難は、信じるということに対して、さくらたちのように距離を置くことができないことから生じていた。一見、智のようなタイプは人間不信の典型のように見られがちだが、彼らは信じることができないのではなく、信じ過ぎるのである。そうでないと、次のような智の強迫観念は理解できなくなってしまう。「みんながべつべつに生きているのはいけないことだ。このままいくと人類はますますばらばらになって収拾がつかなくなる。地球には人と人とをへだてる障害物が多すぎるんだ。そこで彼らは、宇宙船のなかで人類をまたひとつにすることにした/それこそが人類を救う唯一の道なんだ」。『エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」にそれこそシンクロしているこの箇所には、風俗的であると言うだけでは済ますことができないリアルさを感じてしまう。
 『カラフル』について一言だけ。抽選で生を与えられるという設定は、考えてみればすごい。われわれが産まれることができたのは確率的な問題なはずで、まさしく抽選で当たったようなものだ。だからこそ、われわれは親子関係などといった虚構で必然性を与えようとする。その意味で、本書の設定は荒唐無稽なようでいて実に現実的な訳である。
                     (目黒強/書き下ろし/1998.11.27.)