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 NPO(民間非営利事業)の一つTEENSPOSTは、ティーンの悩み相談、カウンセリングを、手紙のやりとりのみで行っている。レターカウンセリングと名付けられたこの方法は、生身をさらす対面や、声音や息づかいが伝わってしまう電話とは別の関係性を成立させようとする点で、とても興味深い。
「話す・会話表現よりも、書く・記述表現のほうが、自分の内面の奥深くをありのままに表現しやす」く「自分自身の力で問題解決していくために、最適な表現方法なの」である(『手紙でしか言えなかった/レターカウンセリングの子どもたち』八巻香織著 新水社 2000円)。
 だからTEENSPOSTは、継続中の相談者から「これで死にます。さようなら」という手紙が届いた時にも、「カウンセラー自身が自分の不安な気持ちを受けとめて、いつも通りに『いつでも、待っています』と書いた返事を普通便で送る」ことにするそうだ。おそらく、こうした覚悟が、相談者の子どもたちを安心させているのだろう。
 この書物は、レターカウンセリングにおける書くことの意味について多くを語っているのやけれど、それが手紙のやりとりで成立している限り、読む/読まれるも重要な要素に違いない。読まれることを前提に書かれるもの。そして、返ってきた他者(カウンセラー)からの手紙を読むこと。その往還によって初めて悩み・相談は輪郭を浮かび上がらせる。レタッチソフトのエンボス効果のように。

 さて、読まれることを前提に書かれた児童文学もまた、読者が読むことで輪郭を浮かび上がらせる。もっともそれは、書き手の悩み・相談ではないから、輪郭とは、物語のことなのやけれど。
 ちっとも儲からない古物商。そこへ居着いたMCCと名乗る謎の男。彼は、客が興味を示した古道具の由来を語る。その話に魅せられた客は次々に品物を買っていく…(『不議を売る男』ジェラルディン・マコーリアン作 金原瑞人訳 偕成社 1500円)。店主である母親と娘のエイルサは、彼の話はでまかせであると知っている。だから彼女たちは、聞くという行為の喜びに浸っているし、読者もまたそれに寄り添ってそのおもしろいでまかせ話を聞いている。が、終盤、MCCはこの物語の中には存在しないことが明らかになり、一方彼が語ったそれぞれの古道具の由来の方は、全て真実だったことも示される。
 そのあとのオチは書かないが、ここには、「書かれ・読む」行為、つまり書物とその読書が、ときに「語られ・聞く」を偽装しながらも、あくまで紙上(現在ならモニター上も含め)という二次元表層の出来事としてしかなく、であるからこそ、現実や事実や日常やが、そこでは却って輪郭を露わにしてしまうことが、うまく描かれている。
 万引きする女子中学生、グループ、薬、来るべき救済に備えての箱船造りをする青年、ストーカーまがいの少年といった、極めてこの国の今を表象する事物を、かなり的確にかつ誠実に配置した物語、『つのふね』(森絵都 講談社 1400円)は、単に書きたかった欲望のまま放り投げられる物語たちの多い中、読まれたい欲望を隠そうとはせず、ましてや「語られ・聞く」を偽装などすることなど微塵もないことにおいて、先のレターカウンセリングに似た覚悟があり、読むに心地よい。
 が、であるにもかかわらず、ある悲劇に突っ込んで行きそうになる終盤、物語は急速に読み手に聞くことを求め始めるのはどういうことなんやろう?
「ただ、どこにでも転がっているごくありふれた現実を(略)とりもどしたいだけだった」。
「もしも生きて残れたなら、あたしはもう一度、なにかを信じていけるかもしれない」と…。(ひこ・田中)
読書人1998/07/17