「少数派」としての子どもたち
-同時代的芝田勝茂論-(3)


奥山 恵
(UNIT評論98・論集)

           
         
         
         
         
         
         
     
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 では、芝田の作品において、子どもはいったい何に「なる」のか。その答えをもっともはっきりと示した作品は、おそらく『進化論』(講談社 九七)だろう。 主人公は、塩瀬祐介という大学院生。ひそかに思いを寄せていた家庭教師の生徒である美紀に、処女懐胎したと告げられて、半信半疑のまま、彼は生まれてくる子どもの父親になる。その生まれてくる子どもとは、どういう存在なのか。その子どもは、まず、世界各地に突如出現し始めた《DNA異常児》のひとりとして、政府の力による抹殺の危機にさらされる。祐介は体制側のそうした強引なやり方に反対し、《DNA異常児》といわれる子どもたちを守る側に立つ。ところが、その子どもたちが、人類を超えた力を備えた《進化人類》として存在を主張してくるにつれて、祐介は、《進化人類》である《かれら》から離れ、《旧人類》側の人間として、子どもたちと戦うことになる。その底には、美紀への愛情や父親としての葛藤、あるいは環境問題や多国籍軍の参加などといった政治的葛藤もある。物語は、祐介の錯綜した思いを伝えながら行きつ戻りつしながら、展開していく。ただし、主人公のそうした複雑さの一方で、子どもが人類 にはない力をもつーーテレパシーでの交信や手かざしによる傷の治療などーー進化した存在であり、それゆえ畏怖されるとともに、異常なものとして排除されてもいるということは、はっきりと見える。これらの子どもは、もはやそれまでと同じような大人になる存在ではない。いってみれば、ここでの《進化》とは、既存の人類とは全く異質の「少数派」になるということなのだ。
 「少数派」に対立する言葉はもちろん「多数派」であるが、ここでの少数、多数とは単に数の問題ではないし、善悪の問題でもない。ドゥルーズ/ガタリの『千のプラトー』(河出書房新社 九四)での定義を借りれば、「多数派」とは《権力あるいは支配の状態の方を前提としている》存在、一方「少数派」とは《制御できない運動や、平均的なものや多数派の脱領土化をもたらすことによって価値をもつ》存在である。『進化論』における大人たちは、進化した子どもたちを抹殺しようとするにせよ、まつりあげるにせよ、いずれも権力、支配の位置を争っていることには変わりはない。その意味ではっきりと「多数派」である。対して進化した子どもたちは、大人たちの支配を避けて、自分たちだけのコロニーを作り、異質を示すことで存在価値をもっている。この作品において、子どもとは「少数派」になる−−進化する存在なのである。
 ところで、比較的近作であるこの作品から振り返ってみると、子どもをこのように「少数派」として捉える見方は、実は以前の芝田作品からあったことに気づく。 
 たとえば『星の砦』。この作品は主人公の圭が六年生になったところからはじまる。新学期、圭の学校には新しい校長が赴任し、能力別クラス編成や成績表の貼り出しといったあからさまな受験教育を実施しはじめる。私立への進学を志望していない圭は《最低のクラス》といわれる公立志望者ばかりの六年五組のひとりとなる。ところが、その五組には、かつて同じ児童合唱団で全国大会に出場したメンバーがそろっていて、その仲間を中心に、受験第一の管理的な学校の方針に唯一対抗するクラスになっていく。若い臨時教師の先生も加わり、ともに遊び、話す時間をつくり、運動会や文化祭へも積極的に参加する。《六年五組は、ほかの六年のクラスとはちがったクラスになっていたのだ。/「アネキ」というニックネームの鮎川先生と、三十二人の生徒たちは、よく学び、よく笑う仲のいいクラスだった》。
 だが、そうした五組の行動は、学校の他の教師や親たち、また、他のクラスの生徒たちから疎まれ、さまざまな迫害を受ける。あちこちに《六年五組のバカ》という落書きが書かれ、《「いちゃつきクラス!」》とののしられ、合唱コンクールの参加からははずされ、文化祭で作り上げたプラネタリウムは壊される。まさに、学校の中の「少数派」になっていくのだ。
 そうした「少数派」としての位置が極まっていったところで、物語は五組の子どもたちを、異空間へと連れ出すことになる。《星間ベース》と呼ばれるその宇宙空間では、子どもたちの遠い未来の姿と思われる者たちが、《非改善種》として、差別され、排除されている。遺伝子組み替え技術の発達した世界では、社会の支配に対する《不適応遺伝子》の除去が義務づけられている。そうした権力による遺伝子操作を拒否する者たちは、《非改善種》として、すでに抹殺の危機に瀕している。いわば、学校での五組の立場の延長上に、この異空間はあり、「少数派」としての子どもたちのありようが、《非改善種》という存在とのアナロジーとして、よりはっきりと示されているのである。
 となれば、さらに気になるのは、それら「少数派」と「多数派」が、どのような結末を迎えるのか、ということだ。言うまでもなく、《星間ベース》と呼ばれる異空間において、《非改善種》は結局は抹殺されてしまうという運命をたどる。しかし、最期に彼らが残した言葉ーー《科学という名の学問がたどりついた果てが、味もそっけもない、のっぺりとしたものだったということが、やつらはようやくわかったんじゃないだろうか。いや、本当は気がついていても、それすら口に出せないんじゃないだろうか。だから、おれたちの存在が恐怖なんだ》《その昔、あたしたちの祖先は、じゃあ、何がいちばん大切だと思って生きていたの》という問いかけは、そのまま五組の子どもたちの中に不思議な夢の体験として残る。そして、物語の最後、五組の子どもたちは、今ならまだ《立ちどまって、もどることができる。そして、手をさしのべることだって》と決意する。ここには、「多数派」への新たな働きかけ、「多数派」と「少数派」の共生しうる可能性が示されている。

 なぜ、いつも、子どもたちにむかって語りたいと思ってきたのか。わたしは子どもたちのなかの、ある、すばらしい部分にむかって語りたいと思ってきたのだと、あらためて思った。(中略)
 子どもたちはみんな、それはすばらしい美質を『ごく自然に』持っている。そして、かれらが楽しい時にその美質は最大限に発揮されるのだ。

 芝田勝茂は、「『進化論』と子どもの未来」(『ぱろる』九八・九)のなかで、こう語っている。この言葉には、芝田が子どもの美質というものに、つねに可能性を抱き続けてきたことが、素朴すぎるほどに現れている。ここで「子どもたち」という言葉を「少数派」に言い換えてみても同じことだ。芝田は、「少数派」としての子どもたちの美質に、「多数派」である大人たちをも変えていく力、共生していく可能性を見いだし、そこに賭けようとする。それが、『星の砦』の結末なのである。
 こうした「少数派」の美質に賭けようとする姿勢は、たとえば『きみに会いたい』にも見ることができる。主人公の《わたし》は、他者の心を読む能力を持ついわゆる精神感応者。その異質な力ゆえに、他人の様々な醜さを知ってしまい、はげしい孤独に陥る「少数派」である。ただ、この作品には、権力、支配の側に立つあからさまな「多数派」の存在は感じられない。むしろ、「少数派」としての葛藤、はげしい孤独とそれでも他者を理解し愛したいという思いとの対立が描かれる。はげしい孤独と《ふつう》なやつらへの嫌悪感は、《わたし》の中のもうひとりの少年人格として現れる。少年は、《わたし》に自分たちの異質の力で世界を破壊しようともちかける。それに対して《わたし》の中の美質の部分、すなわち善悪をこえて他者を愛したいと思う部分ははげしく抵抗する。《「誤解しないで。きみはわたしの一面だけしか見ていない。わたしの暗い部分だけ、わたしが捨てようと思っていることしか願おうとしないじゃない。わたしはきみのようにはならないわ!」》。そして、結局は、少年もまた自分自身の一部だと気づいた《わたし》が少年をただひたすら受け入れること、《抱きしめあう こと》で、危機を乗り越えるのだ。
 『星の砦』の六年五組の子どもたちは、徹頭徹尾《よく学び、よく笑う仲のいい》「少数派」だった。『きみに会いたい』の《わたし》も、愛情をもって自らの異質の力ゆえの孤独に打ち勝つ「少数派」である。いずれにも、子どもを「少数派」として捉える視線があると同時に、その「少数派」の美質が最大限に強調される構造の作品だったのである。
 しかしながら、「少数派」という存在の意味を考えれば、「多数派」との共生という結末には、そもそも矛盾がある。共生がかなうならば、異質であることによって価値をもつという「少数」性はもはや消失する。むしろ、真の「少数派」は、「多数派」の役には立たないもの、役に立つのかどうかさえわからないものであるはずだ。『進化論』とは、そのことに気づいた芝田が、「少数派」の意味を改めて正面から問い直した作品だったのではないだろうか。

 もちろんのことだが「進化論」であるからには『新しい人類』について描かねばならない。だが、書いているうちに『新しい人類』を描けば描くほど、旧人類からは遠くなっていくということがだんだんわかってきた。『新しい人類』にしてみれば、自分たちの種の存続、そして自分たちのありようこそが問題なのであって、旧人類つまりわたしたちのことなどどうでもいいのだった。(「『進化論』と子どもの未来」前出)

 芝田自身がこう語るように『進化論』の《進化人類』=「少数派」は、『星の砦』や『きみに会いたい』の「少数派」のような温度感のようなものがほとんどない。《皆、同じような子どもの顔をして》いて、《だれがだれなのか、見分けもつかな》い異様さ、そして《わたしたちは、あなたたちのように滅びはしない。あなたたちとの共生は、ここまでです》《たぶん、量がすべてを決めていくのだと思います》ときっぱり言い切る冷淡さ。《あなたたちの失敗を神話として語り継》いでいくと語る言葉に、わずかに《旧人類》との繋がりの意識ーーそれも負の意味でのーーが感じられるが、結局は《あなたたちとはまったく異なったものとして生きていきます》というところに、かれら《進化人類》の存在意義はある。物語は、祐介が美紀への愛を自分の意志で伝える場面、すなわち美紀が《進化人類》を処女懐胎する以前の場面に戻り、祐介も《進化人類》ももういちど生きなおしてみるというところで終わる。しかし、読んだ後に残るのは、それでも結局は《進化人類》がどこかで生まれるのだろうという不気味な予感であり、そのときただの「多数派」のひとりとして、祐介がどう生きるのかは予想 しがたいという漠とした印象だけだ。『進化論』の「少数派」は、最後まで、美質ではなく、より異質な存在として記憶に残るのである。
 子どもを「多数派」の側におかないこと。子どもは「少数派」になるのだということ。芝田勝茂の作品群はそのことをくりかえし主張する。だが、その「少数派」というものの捉え方をめぐっては、芝田の作品は揺れ続けている。「少数派」「多数派」とは、すでに述べたように、善悪二元論とは別種の思考モデルだ。「少数派」は特別な美しさと同時に、異質な存在であるがゆえの異様さ、あやしさも、また冷たさも持ち合わせている存在といえる。美質と異質。そのどのあたりにウェイトを置くかで、作品の方向性もそのつど変わってくる。
 だが、私としては、むしろ積極的に、「少数派」をめぐる芝田のこの思考の揺れに立ち会いたい思いがある。というのも、「少数派」とは、存在の多様性にかかわっていると思えるからだ。「少数派」について読むとは、存在の多様性を感じることに他ならない。他者の異質さに近づいていくことと言ってもいい。ただその場合、多様性にも、固定されたそれと、運動としてのそれがあることは忘れてはならないだろう。たとえば、宮台真司は『世紀末の作法』(リクルート ダ・ヴィンチ編集部 九七)のなかで、《「同じ若者」の中が「サーファー系」「ディスコ系」というふうに》《細分化していった》現代、その結果、《幼稚園から高校や大学まで、教室の中はせいぜい二人から四人ぐらいの小グループに分かれていて、グループ以外の人間とは話もしない》という状況が深刻化していることを指摘している。ここでの多様さとは、既にある分類に馴れ合い、固定されていくということだ。そして、どんな多様性も固定されたとき、一元化された場面以上に、苛酷な寒々とした状況として、他者を拒絶する。こうした固定されてしまう多様性ではなく、他者との様々な違いをそのつど確認していく行為 としての多様性。求めていくべき多様性とはそういうものだろう。
 重要なのは、「少数派」を確かに定義づけることではない。異質も美質も含めての、存在の多様性ーー子どもの多様性にーー書き手とともに、はるかに同行していくことなのである。
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