一九五九年の「成長物語」
−個と共同性のはざまで−(3)

芹沢 清実
(UNIT評論98・論集)

           
         
         
         
         
         
         
         
    
3・社会の核心的な問題に向き合う子ども−『山が泣いてる』

 『荒野の魂』は民族の消長という大問題に直面した子どもたちの物語だった。
 戦争体験をへたのちに、日米安保条約をめぐる大規模な社会変動に直面した六十年前後の日本社会では、民族や国家ということがらは、人々にとって、いまとは比べものにならないほど身近な問題だった。そうした大問題が、子どもたちの日常生活に直接かかわることがらとして児童文学の素材になったのも、ふしぎではない。そうした作品のひとつが、『山が泣いてる』だ。
 同人誌「もんぺの子」に一九五五年から「ヘイタイの村」の題で連載されたこの作品は、著者名として5人がかかげられる共同制作で、この創作スタイルも、時代の空気を反映している。冒頭に名前があがっている鈴木実は、一九三二年生まれの少国民世代である。
 『山が泣いてる』は、米軍基地の砲座が先祖伝来の里山におかれた山村に暮らす子どもたちの姿を描いている。この作品は、前述した新しい子ども像の二番目、<社会の核心的な問題に向き合い、それを解決する可能性をもつ存在としての子ども>を描こうとした試みとして読むことができる。
 <社会の核心的な問題>とは、ここでは安保条約下の米軍基地がおよぼす生活被害であり、それをまともにかぶった当時の農村の貧困である。それが正面から扱われていることはまちがいない。では、それに直面する子どもたちはどのように描かれたか。
 まず目につくことは、この物語の主人公はひとりの子どもではなく、同じ状況をともに体験する群像としての子どもであることだ。このことは共同制作という創作スタイルとむすびあって、ある種の集団主義を著者たちが主張しているように読める。
 いちおう全体をとおして登場する主要な人物としては、清市と喜平治というふたりの少年をあげることができる。彼ら中二のふたりを軸に、そのクラスメイトや彼らのきょうだいとして多数の子どもたちが登場する。多くは貧しい家庭の子で、新聞配達や山仕事の手伝いなどで家計を助けている。彼らをとりまく状況が、作中に次々と描きだされていく。
 米軍の砲台では夜間射撃訓練が行なわれるので、山は夜間立ち入り禁止となり、炭焼きで生計をたてていた村人は困窮して出稼ぎにでなければならない。子どもたちも、たとえば修学旅行の費用を工面するために、弾丸の破片拾いで現金収入の足しにしようとする。不発弾によってけがをする子がでたり、さらには子どもが無惨に即死する事件まで起きる。授業中も射撃の音はひびき、民家にも砲弾が落ちる。
 こうした基地被害により貧しさがきわまった結果、娘が町に出て米兵相手の売春に従事するにいたる家もある。姉が体を売った金で買ってくれた本革の赤い靴が、妹にはちっともうれしく思えない。
 ここで語られるできごとは、おそらくどれも現実に取材したことがらなのだろう。その意味ではリアルなのかもしれないが、叙述は平板でドラマとしての起伏が感じられない。それは、子どもたちの形象化が平板なことに、主として起因する。
 たとえば、主要登場人物のふたり。清市は、勉強がすきではなく、授業をよくさぼるが、いったん山に入ると生き生きする少年だと書かれている。どこにでもいそうで共感をよびそうな、いわば類型的な子どもの性格設定だ。もうひとりの喜平治については、講談ずきのひょうきんな少年で、クラスの人気者とされ、こちらも類型を出ない。ここでより問題なのは、<勉強ぎらいの野性児><ひょうきんな人気者>という設定そのものではない。こうして性格設定はされたものの、少年たちがその設定を生かした行動でドラマを動かすことがないことだ。つまり、生き生きした個性で物語を動かす子ども像にはなっていないのだ。
 <社会の核心的な問題>に向き合う文学として、この時期の児童文学に先行する例に、社会主義リアリズムの文学と理論があった。そこでは、ある状況における人間像を「典型」としてとらえることと、その人間像を血のかよった「個性」として描くことを統一することのむずかしさが論じられていたはずだ。『山が泣いてる』の作者たちが直接意識していたかどうかは別として、この作品のかかえる困難は、その問題群にきわめて近いのではないか。
 状況設定はあっても個性として描かれていない子ども像以外に、もうひとつ、この作品がかかえる困難がある。
 それは、<社会の核心的な問題>に直接子どもたちを向き合わせるときの接点、あるいは切り口をどこにおくかという問題にかかわっている。
 なるほど、前述したような村の状況を述べることによって、米軍基地が人々の生活と対立していることはわかる。しかしその上で、この状況に対する子どもに固有の対決点をどこにおくかという問題が生じる。それを提示しないかぎり、子どもの独自性は示せないし、そうなればこれが児童文学である必然性もなくなるからだ。そこで、物語の後半では、「ミテシレ会」という子どもたちの行事をめぐる確執が、ストーリーの軸として描きだされる。
 「ミテシレ会」とは、図画や習字を展示し、劇やおどりを披露する子どもたちの文化祭のような行事である。天神さまの境内で昔から行なわれていたものだが、戦後は「ミテシレ会」すなわち「見て知れ会」と呼ばれるようになったとされる。
 子どもたちは毎年楽しみにしているのだが、会場となる天神さまの境内が米軍に接収されている。そこで、ほかの場所に野外舞台を作ってでも「ミテシレ会」をやろうという話がおきる。その子どもたちの企画には、学校の若い教師や青年団が助力し、村の外からも平和運動をしている大学生が応援にやってくる。しかし、村の有力者や校長は反対する。米兵とのあいだにごたごたが起きると面倒だし、もめごとが起きたりすると補償金がこなくなるかもしれないというのだ。
 ここでは、子どもの行事である「ミテシレ会」をやるということが、応援する大人からは「アメリカ兵が村にいてくれては困るんだという気持ちをあらわすこと」だと位置づけられ、反対する大人からは「こんな労働組合みたいなことは、子どもたちのやることじゃない」とはねつけられる。
 たしかに「ミテシレ会」をやることは、子どもの要求である。しかしそれは、子ども独自の論理からでてきた、切実で強い要求なのだろうか。その独自の論理も、要求の切実さも、じゅうぶん描ききれてはいない。そもそも「ミテシレ会」という、いかにも啓蒙のにおいを漂わせた名称からして、山村の子どもたちの内側からわきあがってきた固有の要求の対象となるとは思えない、というのは、あまりに現代にかたよった見方だろうか。
 子どもに固有の論理や要求が説得的に描かれない以上、この「ミテシレ会」をめぐる顛末は、大人社会における対立が子ども集団にもちこまれたものとして読めてしまうことを避けるのは困難になる。また、この対立関係は、すでに敵味方がはっきりしている世界である。子どもにとって味方の大人の敵は、子どもにとっても敵、という大人社会をひきうつした論理は、あまりに単純なものにみえる。
 それにしても、やはり「ミテシレ会」という名称はひっかかる。もとは何と呼ばれていたのだろうか? この行事は、ほんらい、学問の神である天神さまの霊力の加護を祈願し、その成果である子どもの作品を奉じることで感謝する性質のものだったはずだ。そうした民俗社会のもつ宗教的な共同性は、「ミテシレ会」と改称することによって、戦後の科学主義にもとづく啓蒙主義におきかえられたのだ。そのことで、いわば子どもの聖性を軸にした行事で確認されてきた村落の共同性が、階級闘争という対立で引き裂かれたとみることもできる。
 『山が泣いてる』は、<社会の核心的な問題>に向き合う子どもを描こうとしたが、そのときに子どもがもつ特有の論理のありかをつかみきることができなかった。しかし、これはこの作品一作についていえる弱点ではない。その後も書かれつづける、いわゆる社会派児童文学にいたっても、克服することがむずかしい問題だったと思える。その意味で、『山は泣いてる』はまた、現在にまで引き継がれる大きな問題を提起した作品だった。
 この問題を解くうえでの手がかりもまた、『山が泣いてる』の中にありそうだ。この作品の文体は、学校教育における生活綴方や国民的歴史学運動のなかで書かれた「村の歴史・工場の歴史」を、強く連想させる。それらの手法は、書き手の日常生活の内に社会の根本的な矛盾のあらわれを発見させ、それを自覚することで変革主体形成をめざすという啓蒙主義的なものだ。
 知を民衆のものとし、それによって社会進歩をはかるという思想は、マルクス主義との相性がいいというだけでなく、敗戦からの立ち直りを民主主義によってはかろうとした戦後日本社会には、きわめてなじみやすいものだった(その最大のあらわれは子どもたちにより高度な教育をうけさせること、すなわち学歴社会化だったのだが、児童文学の普及もまた、これと歩をあわせたものだった)。
 この啓蒙という手法は、二十世紀が終わろうとしているいまではすでに「歴史の過去に去った」と、山崎正和はいう(「『教養の危機』を超えて」:「This is 読売」九九年三月号)。その理由のひとつを、山崎は、啓蒙の担い手だったインテリゲンチャという階層の消失に求める。インテリゲンチャとは、特権的知識人と「草の根」大衆のあいだに位置する中間的知識人である。何らかの知的資格を有するとともに、「草の根」と生活上の一体感をもつ、この階層と、少国民世代の児童文学作家たちは、少なからずクロスするのである。

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