一九五九年の「成長物語」
−個と共同性のはざまで−(2)

芹沢 清実
(UNIT評論98・論集)

           
         
         
         
         
         
         
         
     
2・旧世代を克服する新しい可能性としての子ども−斎藤了一『荒野の魂』
 
 この時期に描かれた「成長物語」をめぐって、古田足日は、当時彼らが構想していたのは<従来の大人とは違ったものになる>存在としての子どもである、という意味のことを述べたことがある。ここには、以前とは異なった価値観を共有することでむすびつけられたまとまりとしての「世代」ということが意識されている。また、戦前・戦中を大人として生きた旧世代に対抗して、彼らよりずっと子どもたちに近い場所にいるという、童話伝統批判を行なった世代(以下、野上にならって「少国民世代」と記す)の自意識も含意されているとみることができよう。
 理論社の長編創作少年文学シリーズの一冊である『荒野の魂』でデビューした斎藤了一は、少国民世代より十年ほど早く、一九二一年に樺太で生まれている。従軍経験もあり、南方戦線から復員したのち、日本童話会に入会した。いわば旧世代と少国民世代の中間に位置する彼は、旧世代とは一線を画すけれども、少国民世代に比べるとよりニュートラルな態度で、新しい世代の「成長物語」に向きあっていると予想することができる。
 まずは『荒野の魂』を読み直してみたい。
 『荒野の魂』は、のような「アイヌの少年ムビアンが大自然の中に民族の独立のためにたたかう壮大な物語」(初版末尾の広告文)である。物語の始まりは、寛政九年(一七九八年)クマ祭りの夜。これは日付のある物語なのだ。内患外憂に悩む江戸幕府がエゾ地を手に入れようと画策する時代の史実にもとづいている。その反面、クマ祭りの夜に生まれる酋長の孫、主人公ムビアンが「アイヌの新しい魂」となるという神のお告げについての叙述がでてきて、伝奇奇的な要素もにおわせる。これは比較的史実にそった歴史小説なのか、それとも伝奇的時代小説なのか。作者自身もどちらの文体をとるのか決めかねているようだ。<散文性の獲得>という、童話伝統批判の課した主題は、斎藤のこの文体をめぐる<揺れ>からも十分うかがい知ることができる。
 『荒野の魂』はむしろ、押川春浪らによって戦前・戦中さかんに書かれた冒険小説の文体で描かれたほうが、すっきり読める作品になったのかもしれない。しかし「低俗なる娯楽性にのみよりかかり、……封建的支配勢力の忠実なる僕としての役割を果たした」(早大童話会「『少年文学』の旗の下に!」より)「少年少女読物」はすでに否定され、それにかわる新しい文体は模索の途上だった。
 作者の<揺れ>が感じとれるのは、このことにとどまらない。主人公は本当にムビアンなのか、むしろムビアンの六歳上の姉ペチカなのではないか。はたまた対立する主張が登場するとき、作者はいったいどちらに味方しているのか。じつのところ、この作品をいま読むおもしろさは、この<揺れ>の部分にこそある。<揺れ>は、作者のものであると同時に、「現代児童文学」を読み馴れた読者にも(作者のそれとは多少のズレを含みつつ)シンクロするからだ。
 <揺れ>は、まずは次のような場面にあらわれる。
 ムビアンが生まれるクマ祭りの夜、ペチカのかわいがっていた小グマが神に捧げられるが、その最期をみとどける行事に彼女は、女であるがゆえ参加することができない。そのししきたりに対し六歳のペチカは、「女であるということだけで、のけ者にされていいものだろうか?」と、納得がいかない。
 ここで現代の読者は、これは男女平等を実現しようとする少女の物語なのだろうか、と予見をいだく。しかし作者は、そこで間髪をおかず、古くからのしきたりの合理性を説く。女とは異なって男は戸外で狩りなどの危険な労働に従事する。時には命がけの危険さえもおかす。だからアイヌは、男を重くあつかってきたのである、と。
 さらにこれは、六歳のペチカには、その幼さゆえに理解できないことがらとされる。ここで幼女にわかることは、弟は大きくなったら祖父や父の跡を継いで酋長になり、自分は酋長の姉になるのだということくらいである。ここではペチカは、男性による世襲制に何の疑問もいだいていない。王権の継承者たらんとして戦う少女の物語(小野不由美『図南の翼』や田村由美のマンガ「BASARA」など)に親しむ現代の読者にとっては、なんともつつましい姿で、しょせん旧態依然のジェンダーにおちつく話なのかと予感させる。
 しかし、ここで作者は、古いジェンダーに対して直感的な不満を覚えるのと同時に、その古いジェンダーに対して深い疑問をいだかないのも、ペチカが幼いゆえの制約だとみているのだ。そのことは物語が進展しないとあきらかにならない。
 物語はすすみ、祖父である酋長が死んで、ペチカたちの父が跡を継ぐ。アイヌ民族の危急がせまるなか、父は娘に対して思い切った決断をくだす。「これからは男女の区別はしない」というのだ。世代の交代にともなって、ジェンダーに対する態度が変更されたのである。ペチカは、「和人の男に負けぬ、強い心と体を作れ」「そのかわり、男が涙を流すまでは、泣きごとをいってはならんぞ」と、父にいいわたされ、弓の稽古を始め、力仕事や魚とりを好んで行なうようになる。しかし、ここで見逃せないのは、ジェンダーをめぐる新しい態度が従来の古い態度にとって変わった原因が、「外圧」にあることだ。これまであった制約をなくして男と平等に生産や武器の使用にかかわることができるようになったのは、ペチカ自身が主体的に強く望んだからではない。そうすることで、共同体を防衛する力を高めようと、共同体の長である父が望んだからである。このいきさつは、戦中に「銃後の守り」として女性の社会進出がすすんだ歴史を想起させて興味深い。
 むろん新しいシステム(ジェンダーをめぐる「民主主義」と呼んでもよい)は、自ら望んでたたかいとったものではないにしろ、それなりのメリットはある。しかし他から与えられたものを、自らのものとするには、それにふさわしい試練も必要とされる。
 ペチカが十六歳のときに、その試練はおとずれる。初めて父から、狩猟に同行することが許されるが、その日の狩りは不首尾で、ウサギ一羽もとれない。父は、やはり娘を連れてくるのではなかった、女を山に入れたので神が怒ったのだ、と祖先のしきたりを変更した己れを後悔し自責にかられる。ペチカはペチカで「川や海では男に負けないのに」と思い、イバラの痛さに泣きそうになりながら、父との約束を思い起こして歯をくいしばる。この状況は、(ここでは獲物に出会わないという)偶然ですら「女などにやらせたせい」と責任をかぶせられながら「平等」のもとで必死にがんばる雇用均等法時代の女性を想起させる。古いシステムにとってかわる新しいものを導入したときに起きる、変動期の軋轢だ。
 結局ペチカは必死の苦闘ののちに一頭のシカをしとめる。それはこの日の獲物のうち最良のものだった。彼女はみごとに試練にうち勝ち、「女に狩りはできない」という古いジェンダーにもとづく言説をくつがえしたのだ。では、これでペチカは、ナウシカやジャンヌ・ダルクのように聖痕をおびて果敢に戦う少女として、部落のみんなにあがめられるようになるのかというと、そうではない。自分がしとめたシカの目に、かつてかわいがっていた小グマの死を思い出して泣きじゃくってしまう、ひとりの少女にすぎない。ペチカは、決然としたスーパーヒロインに変貌するわけではなく、あくまでも等身大の少女のまま、新しいシステムを自らのものとするのだ。
 この時点において、さらに卑小な存在として描かれているのは、このとき十歳、幼いがゆえにまだ狩りに連れていってもらえない弟のムビアンである。狩りに行ける姉をうらやんで「ふん! ねえさんの矢にあたるものなんかあるものか」と出発を見送る。シカの死に悄然として帰ってきた姉の姿に、獲物がなかったのだとと勘違いして、「そうらみろ、やっぱりおなごは役にたたんな」と憎まれ口をたたき、口にした肉をしとめたのは姉だと聞かされれば、いまいましい気持ちになる。ここに描かれているのは、小心者の小さな差別者の姿だ。民族の「新しい魂」となるヒーローらしい決然たるところなど、みじんも見られない。
 つまりペチカもムビアンも、生れながらの「救国の英雄」ではない。古いジェンダーによる制約、感傷や利己心などにしばられた、等身大の少年少女にすぎない。
 その「成長」のモメントとなったのは何か。ペチカについては、前述したように「外圧」がもたらした新しいシステムをわがものと
すること、つまりジェンダーをめぐる新しいモラルを引き受けるこことである。ムビアンにとっても、そのように変貌する姉と引き比べてふがいなく思える我が身との葛藤が、大きな要素をなす。それはたとえば、十八歳の青年になったムビアンがペチカとかわす会話にあらわれる。和人とたたかうには、もっと強い心にならなければと主張する姉に対してムビアンは、「いや、ねえさん。おれは、和人であろうとも、殺したくはないんだ」と反論する。

「アイヌの中で、和人を憎く思わない者もいるように、和人の中でも、アイヌを、あわれと思う者が、いるんじゃないだろうか? 早い話が、和人のひゃくしょうたちをごらんよ。おれたちとおなじようなくらししか、してない。くらしがおなじなら、気持ちもにるんじゃないのかな。…おれは、そんな人をさがして、話し合いたい。話せば、おれたちの心も、分かってくれると思うんだ。」
 武力による決戦を主張する「強い」姉と、話し合いによる解決をはかりたい「心やさしい」弟。ここには、従来のジェンダーをとりかえてしまった新しい世代の様相が見てとれる。姉弟の論理の相克は、作中ではほとんど会話と独白で描かれることもあって、すっきりとわかりやすい決着はついていない。しかし、結局はムビアンが自らの論理をつらぬいて、より犠牲を少なくするため戦闘を回避することに落ち着く。それは、先祖伝来の土地を捨てた、いわば敗走という選択であった。
 しかし、そのムビアンの選択に対して、古老もまた「神の魂をうけついだ」と承認を与える。新しい世代は、彼らゆえの新しいやり方で、民族の精神を受け継いだとされるのだ。
 『荒野の魂』に限らず、当時書かれた児童文学の多くは、作家の戦争体験を色濃く投影していると想像することができる。さらに、敗戦、そして講和をめぐる賛否両論と安保闘争といった一連の社会危機に対して、どのように対処するべきかという大問題も、多くの作家の念頭につきまとっていたことだろう。こうしたときに、新しい世代としての子どもたちには、戦後的な価値である民主主義を体現した存在として、旧世代の轍をふむことなく民族の未来をひらくことができるという期待がかけられたことは疑いない。『荒野の魂』はそうした意識を反映した作品なのだ。
 しかし、世代をめぐる斎藤の視点は、新しい世代を無垢なもの、純粋によいものととらえているわけではない。子どもは、彼らを育てる旧世代の価値観の刻印を受けもするし、幼さゆえの無知や克己心のなさをまぬがれることもできない。すでにみたペチカやムビアンの「成長物語」は、そうしたものを克服することだった。そうして、とりわけ古い世代の価値観から離脱することで、新しい世代は未来をになう存在たりえる。
 この斎藤の立場は、たとえば、いぬいとみこ『木かげの家の小人たち』が、困難に立ち向かう根拠に、ひとつの家族の世代から世代への<継承>をおいた視点とは、まったく異なっている。
 新しい世代の成長課題を、斎藤はここで、世代間の価値観の相克においている。これは、旧世代との<断絶>をいわば自明のものとする少国民世代とも、また異なるものである。
 この独自のスタンスが、『荒野の魂』ののちに書かれた短篇で戦争を扱うときの態度につながっているのだろう。それらの短篇には、加藤典洋が『敗戦後論』(講談社、97年)で論及した「ねじれ」の感覚に通じるものが感じられ、「戦争児童文学」ジャンルの大量の作品のなかで異彩を放っている。斎藤了一の作品については、児童文学における戦後性という視点で、現時点から読み直してみたい。
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