四、純



 これまでに述べてきたことからすでに明らかなように、純はこのドラマの語り手であるようでいて、その実真正の語り手ではない。語り手であるにしては、彼は物語を決定づける重要な事実についてあまりにも無知でありすぎる。本稿でこれまでに取り上げたエピソードだけを見ても、彼は自分の名前の由来を知らない。五郎と螢が令子の不倫の現場を目撃したことを知らない。正月に麓郷を訪れた令子が五郎とどういう会話を交わしたかを知らない。令子が螢と「極め付けの子別れ」をしたことを知らない・・。「知らない」とは、一人称の語りによくある回想形式ではなく、あくまでも同時進行形を貫こうとするこのドラマにおける語りの形式において、その語り手たる純がドラマが完結する最後の瞬間まで「知らない」という意味である。
 従って、この純による語りは明らかに偽装である。多くの場合「拝啓、恵子ちゃん」という言葉で始まるその語りは、そもそもその語り口自体、彼が東京のガールフレンドに書いた(実際には書いた形跡のない)手紙を模しているという形式面での偽装の上に成り立っており、そうすることで「もうひとりの聞き手を別に想定して読む者を安心させる」(注12)効果を生んでいる。とすれば、右に述べた偽装は、夫婦の離別にまつわる物語があたかも子どもの視点から語られているという印象を視聴者に与えるためのものであり、その偽装をほどこすことで男女の生々しい愛憎劇から毒を抜き、見る者を「安心させる」効果を生んでいるのだ、と言えようか。
 と言うのも、実際のところ、このドラマには純の視点による両親の離別の物語というものはほとんど存在しないのである。「純の視点による」物語とは、彼が両親の離別というショッキングな出来事をどう納得し、母のいない日常にどう自分を適応させていくかを綴る物語、というほどの意味だが、このドラマのどこを見ても、彼がそのような問題に頭を悩ませている場面を見いだすことはできない。その代わりに、特に前半部において、もっぱら彼の胸中を占めているのは、東京から麓郷への転居をどう自分に納得させるか、東京ではない麓郷での暮らしにどのように適応して行くか、ということであり、母はあくまでもその東京に付随するものとして、ようやく彼の脳裏に浮上するを得るのである。
 より具体的に言えば、このドラマ全体を通じて純が母を思い出す場面は数えるほどしかない。例えば、純が令子の過去のエピソードを回想するシーンはたった二回しかなく、それもこれから詳しく述べるように、どちらも令子と五郎のエピソードであって、令子と純のそれではない。また、母の顔が見たい、声が聞きたいといった恋慕の気持も純にはほとんど見受けられない。確かに彼は、母が弁護士を寄こせば素直に会いに行き、病気と聞けばすぐに駆けつけ、帰らないでくれと言われれば動揺もするし、行きがかりで母の電話に出ることを拒んでしまった後には、長い間思い悩んでもいる。だが、それらはすべて令子が起こした行動への反応にすぎず、彼女が沈黙を守っている限り、純が母を思うことはめったにない。そしてそうである限り、これまでここに述べてきた五郎と令子の離別の物語に呑みこまれない形の、子どもの視点からなる物語がこのドラマの中に成立する可能性は極めて薄い、ということになる。
 ところで、右に見たようなある種冷淡とも思える純の態度は、彼のような境遇に置かれた子どものそれとしては非常に奇妙なものである。もともと肉親の情に淡白な子なのだと言えばそれまでだが、実際のところ、画面に登場する彼からそのような印象を受ける視聴者はだれもいないだろう。そこで、このようにとらえ直してみたい。子どもというものは離れて暮らす親を恋しく思うものである−−それは、あくまでも日常世界の住人である私たちの常識であって、その常識はこのドラマの世界では通用しないのだと。
 例えば、一般に、螢のような幼い子どもが母親の不倫の現場を目撃したといった場合、私たちはその子どもの体験を特異なものと考えがちである。すなわち、それは本来子どもが知ってはいけないことであり、現実にもめったに知りえないことであり、たまたまそれを知ってしまった子どもは、不幸にして非常に特異な体験をしたのだと。だが、その不倫からすべてが始まったとも言えるこのドラマは、そういう日常世界の論理とはまた別の論理によって統治されているのではないか。すなわち、それを目撃した螢の体験が特異なのではなく、目撃しなかった純の体験こそが特異なのであり、彼はそういう母の子として当然承知しているべき知識を欠いているために、母に対してしかるべき態度が取れないのであると。
 そのことをよく示しているものに、令子に関する純の最初の回想シーンがある。第四回目の放映において、令子が自分の代わりに友達の弁護士を麓郷に送ったときのことである。その女性弁護士は純を自分の泊まっているホテルに招き、令子がどんなに子どもたちに会いたがっているかを彼に話そうとする。だが純はその話よりも、彼女が吸っている煙草の方に気を取られてしまう。その煙草の火によって、「生まれてはじめて、母さんが煙草を吸ってるのを見た」(前104)夜のことを思い出したからである。そのとき部屋にハイファイセットの曲を流しながら誰かと電話をしていた令子は、自分が煙草の灰を床に落としてしまったことに全く気づかず、後日じゅうたんに焼けこげの跡を見つけると、それをただちに五郎のせいにして彼を責めた。五郎も自分の失敗であると思い込み、そのこげ跡を一生懸命こすって消そうとした−−というただそれだけのことだが、この回想はその直後の純と弁護士の話し合いを決定的に左右する。しきりに五郎の悪口を言う弁護士の声によって現実に引き戻された純は、彼女に強い反発を感じ(「母さんならいいけど、関係ない人が父さんの悪口をいうのはたえられず」 前106)、その場で東京の令子に電話をかけ、純に出るように促す彼女の手を振りきって、部屋の外に飛び出してしまうのである。「自分の気持が、ぼくはわからない。母さんごめんなさい! 電話に出なくてごめんなさい! だけども−−だけども−−ぼくは−−ぼくは−−」(前106-107)。
 ここには一見、別れた両親の間で板ばさみになって苦しむ、子どもの視点からなる離別の物語があるかに思える。けれども、その前後のストーリー展開から判断するなら、これは両親の間で引き裂かれる純を描いた場面というより、むしろ彼が初めて母でなく父の方に歩み寄った重要な場面としてとらえるべきであとう。それまでの純は、五郎に対して恨みがましい気持しか持っていなかった。その彼がここでは父に同情を示し、それとの対比において母を退けた。もちろん、彼が直接に退けたのは弁護士の手であって、母のそれではない。だがここでの純は、同じ煙草を吸うという行為を通して、そして、同じく五郎をなじるという行為を通して、明らかに母と弁護士を同一視していもる。そういう意味で、やはり純はここで五郎に一歩近づいたと同時に、その分だけ令子から遠ざかったのである。
 しかも、それだけではない。このエピソードは、その直前の五郎による回想シーンと併せて考えるとき、さらに大きな意味を持ってくる。純が弁護士に会いに出かける前日、五郎はこのドラマが始まって初めて、自分と螢が令子の不倫の現場を目撃した夜のことを思い出す。つまり、視聴者は五郎と螢にそういう共通の体験があったことを初めて知らされるわけだが、画面はある日の夕方、父と娘が仕事場にいる母をびっくりさせるつもりで、そっと美容院の裏口の戸を開ける様を映し出す。ハイファイセットの曲が流れる薄暗い室内。いかにも情事の直後を思わせる下着姿の令子がベッドから起き上がり、卓上の煙草を一本取ったところで、戸口の二人に気づいて立ちすくむ。五郎の回想はそこで終わっているが、そのすぐ後に純の回想を見せられる視聴者は、特にハイファイセットと煙草からの連想によって(注13)、当然この二つの回想を結びつけて受けとめることになる。すなわち、純の回想の中で令子が電話をしていたのは不倫の相手であり、従って、じゅうたんのこげ跡を五郎のせいにした令子は、そのとき二重の意味で夫に対してひどい仕打ちをしていたのだ、と受けとめることになる。
 このようにこのドラマは、螢が目撃した令子の不倫の現場を純は見ていない、という設定に大きくよりかかって物語を展開させながら、その一方では、純にも螢と同様の目撃体験をさせてもいる。純と螢はそれぞれに、いつもとはまるで違う別人のような母の姿を目撃した。いずれも「『異類』として正体を露顕した母」(注14)であり、彼らに対する裏切りの気配を強く発散している母である。ただ純の場合は、母のその「異類」性はずっと穏やかな形で顕われ、螢に与えたほどの衝撃を彼に与えるには至らなかったという点が違っているだけである。いわば純は螢の疑似体験をしたのであり、母に対して螢が抱いている感情と純が抱いている感情とは、根本的に大きく違うものではない。確かにこのドラマは、不倫の目撃体験の有無によって純と螢を差別化しようという発想を根底に持つが、令子に対する感情に関する限り、その差別は質の差ではなく、あくまでも程度の差として提示される。すなわち、螢は母に対して抱いた反感を積極的に態度に表わそうとしているが、純の場合は自分の中にあるそれと同じ反感を彼自身はっきりと自覚できない状態にあり、そのために、螢ほどにはきっぱりと母を拒 絶できずにいるのであると。
 こう考えると、令子に対する純のある種冷淡な態度にもある程度納得がいく。そのことを頭に置きながら、彼の令子にまつわる二つ目の回想を検討してみよう。
 それは、彼が病に倒れた母の見舞いに東京に行ったときのことである。ときは、このドラマのちょうど中ほどあたり。純が麓郷に転居してほぼ半年が経過していた。病気で弱った母を目の当たりにした純は、このまま母のそばに残ることを真剣に考えた。同時に、東京への執着も彼の中で再び頭をもたげかけていた。だが、そのときすでに彼は、その東京に元のようにはすんなりと溶け込めなくなっている自分に気づき始めてもいた。第一に、彼は久しぶりに会った昔の同級生たちとの会話に入っていけなかった。第二に、その同級生の一人がまだ十分使える自転車を、流行遅れだからというだけの理由でゴミとして放置しているのを、昔のようにあたりまえとは受けとめられなかった。
 そのような経過のもとに、純はその自転車をめぐるある出来事を思い出すことになる。その頃、純は自転車を欲しがっていた。それを知った五郎は近所のゴミの山に放置されていた一台を持ち帰り、せっせと修理を始めた。令子も純も五郎のそういう行為を嫌ったが、彼は何日もかけてその自転車をきれいにし、純はとうとうそれに乗る羽目になった。ところが、数日後にその自転車の所有者から警察に訴えがあり、自転車は取り上げられてしまう。その所有者の言い分にどうしても納得がいかない五郎は、訪れた警官に激しく食ってかかるが、令子が平謝りに謝ってようやくことなきをえる。その後、令子は純に最新流行の自転車を買い与え、純は「やっぱり、母さんのほうが父さんよりずっとわかってると思」(後45)った−−というものである。
 だが、このエピソードを思い出している現時点での純は、かつては母に近かった自分が、今は父の方によほど近い位置に立っていることを感じ、「そういう父さんをすこしわかったこと」「わかるようにぼくが変ってきたこと」(後46)をしみじみと確認している。そして、翌日彼は東京に残るという前言を撤回し、当初の予定どおり麓郷に戻ってしまう。しかも、「ぼくは弱い子で母さんに会ったらきっとまた気が変る」(後47)ということを理由に、病院で彼を待っている母に別れの挨拶もせずに空港へ直行し、そうして麓郷へ帰ってからは一週間もしないうちに、「最初のうち気になった母さんのことも日がたつにつれてだんだん忘れ」(後47)てしまう。もともと彼の中では東京に付随するものでしかなかった母は、彼が東京の価値観を捨て始めるとともに、かくもあっさりと忘れさられてしまうのである。
 この自転車をめぐるエピソードは、その後形を変えてもう一度、今度は回想のシーンではなく進行中の物語の中で繰り返されることになる。場所はやはり東京。ときは令子の葬儀の当日。令子が近々再婚する予定だった彼女の愛人が、純と螢がひどく汚れた靴をはいていることに目をとめ、二人を半ば強引に近所の靴屋に連れて行く。最初は尻込みしていた二人も、「これから母さんの葬式だ。そんなきたない靴はいてたら母さん悲しむ」(後286)という彼の言葉に、結局新しい靴を買ってもらうことにする。純の目には驚くほど高価なその靴と引きかえに、古い方の靴は店員の手でくず箱に捨てられる。
 けれどもその直後の葬儀の最中に、純はだんだん気がとがめ始める。その古い靴は、彼らが麓郷に転居して間もなく父が買ってくれたものであった。いかにも父らしく、その店内で一番安い靴だったが、ほころんだり底がはがれたりする度に父が修繕してくれたその靴は、冬の一時期を除く毎日、純と螢の足を守り続けてくれた。そうして一年間使いこんだその靴を父に断らずに捨ててしまったことが、純はやがて後ろめたくてたまらなくなり、ついに彼はその翌日の夜、螢とともに靴屋の前のゴミ箱をあさりに出かける。たまたま通りかかった警官が同情して手伝ってくれるが、結局靴はみつからずに終わる。
 ここの見られるのは基本的に、自転車のときと同じ構造からなる五郎=麓郷と令子=東京の対比であり、自転車の時点ですでに五郎=麓郷の価値を選んでいた純は、当然ここでもそのときと同じ反応を示すわけだが、自転車のときから半年が経過したこの時点では、彼の五郎=麓郷への傾倒はさらにより深いものになっている。ここで捨て去られた靴は、決して「流行遅れだからというだけの理由」で捨てられたのではない。何度も修繕され、一年間はき古されたその靴は、とうてい「まだ十分使える」状態にあったとは思えない。(むしろ、成長期にある純と螢が同じ靴を一年間はき続けられるという設定自体に無理があるが、そのことはここでは措く。)だが、それでも純はそれを取り戻そうとし、その目的のために敢えてゴミの山をあさる。自転車のエピソードを回想したときに、初めて父の考えを理解するに至った純が、ここではそのエピソードの中の父と同じ行動を起こすのである。
 同時に、このときの純は自分と父との結びつきをかつてなかったほど強く感じてもいた。靴をめぐって麓郷での一年間をさまざまに思い出しながら、純はその思い出の中にいる貧乏で泥くさい父を慕わしいと思った−−このドラマの意図するところを推察するなら、恐らく、令子の愛人との対比において。純は、ひょっとしたら自分の第二の父となったかもしれないその愛人に以前に一度会ったことがあり、「意外にもぼくは内心、このおじさんをきらいではなく」(後21)という好印象を抱いていた。その好ましい相手を目の前にして、純は父のことを懐かしく思い出す。それは理屈以前の、親子の情とでも言うべきものであり、このドラマの中で純が父に対して初めて抱いた感情である。靴に対する純のこだわりは、彼が父の考えを理念的に理解したことの上に、父へのこの心情的な加担が加わった結果のものであると言よう。言い換えれば、彼はようやく父の子として、五郎の「精神」を継承できる位置に立ったのである。そして、それは令子の葬儀のさなかに起こった。
 ゴミの山との格闘が徒労に終わったその夜、彼は夢を見る。彼と螢が麓郷の川沿いを懸命に走っている夢である。

「見つからなかったあの古い靴が、川の上をどんどん下流へ流れ、ぼくらはそれを必死に追いかけた。靴は水にぬれぼろぼろだったけど−−それは−−父さんが買ってくれた靴で」(後296)

というのが第二三回の放映のラストシーンとなる。
 こうして、純と母の物語を常に五郎と令子の物語の下位に置き続けてきたこのドラマは、そのクライマックスにおいて苛酷なまでにその序列の存在をあらわにする。令子の葬儀の翌日に、純は母との別れを悲しむ夢を見るのでなく、父に与えられた靴をなくしたことを悲しむ夢を見る。言い換えれば、かつて病床にあって純の心をつなぎとめられなかった令子は、死してなお、最愛の息子から一顧だにされない存在として提示されるのである。その夢が水葬を連想させるものであるだけに、令子と靴のこの対比は強く印象に残る。
 そして、ここに再び浮上してくるのが令子と愛人の問題である。その愛人は、間接的に、令子の命を奪ったとされる人物であることは、すでに述べた。その彼がここではさらに、令子がせめて母として子どもたちに惜しまれながら昇天する機会をも、間接的に、奪ってしまう。令子にとってはまさに救われない展開であると言わねばならない。けれども、見方を変えれば、彼は令子が生きていれば当然したと思えることを代わりにやっただけにすぎない。もし生きていたなら、彼女は子どもたちがそのように汚い靴を履いていることを嫌ったに違いなく、彼らにそういう身なりをさせる五郎に不満を抱いたに違いないのだから。さらに言えば、そもそもそういう彼女であったればこそ、五郎を捨てて愛人に走ったのであり、彼女が愛人に走ったればこそ、このドラマは成立するを得たのではなかったか。
 いずれにしても、このドラマの中で令子が救われる余地はどこにもないのである。

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