再び、冒頭の西山氏の言葉に戻リます。僕が驚いたもうひとつの言葉は、「男・女観、人生観が開陳される」ですが、「述べられる」ではなく「開陳される」という言い方を用いたところに、ある種の皮肉を感じました。しかし、これを皮肉めいた表現にしたことで、逆に、作者の術策に陥ったことを感じたのです。
 確かに、『カレンダー』には「男・女観、人生観」とも呼びたくなるような言葉がかなり見られます。「女声」創刊の辞における、「娘・妻・母。女は三つの生を生きる。親に育まれ、夫に愛され、子どもを育てる。しかし、ふり返ればいつもだれかの娘、だれかの妻、だれかの母としてだけ生きてきたのではないか。もちろんそこに安らぎがなかったと私たちは思わない。けれど、そのために私たちは、別の何かを失ってきたとも言えないだろうか?」(413頁)しかり、またこれに対する海の反論「でも、あたし、三つの生なんか生きません」(419頁)「けれど、妻にも母にもならない、なれない人にとって、この言い方は……」(420頁)もしかり。しかし僕は、あれはフェイク、あるいは、当て馬だったのではないかと思っています。
 というのも、この『カレンダー』という作品、そして前作『お引越し』も、生活に関する細々としたシーンが過剰なほど描き込まれます。食事は誰が作るか、何を作るか、どうやって作るか、そして『お引越し』では、そのレシピまで。また、「観」や「論」にしても、引用するのが大変に難しい。実のところ、この稿を進めるにあたっても、引用箇所を決めるのに苦労しました。それは、さっきの海の反論にしても同じで、四一八から四二○ぺージに渡ってリアルなしゃべり言葉のように寸断されつつ進みます。もし『カレンダー』が、西山氏の言うように「男・女観、人生観」を「開陳」することも目的とした作品であるなら、これは非常に不利な方法といわねばなりません。敢えて「観」として語られる内容も、もちろん、作者自身の思想の産物であるには違いないと思います。が、しかし、己の筆が作品内部で「観」を「開陳」することに対して、作者はどれほどの価値を見出していたか、と思うのです。「観」として結実しようとする内容を、しゃべリ言葉として解体する作者には、その思いを伝えるべき言葉(の歴史性を持った体系)に対する不信感があるように思います。その不信感はおそらく、 ひこ・田中の、生活の実践者としてのあリ方に起因します。彼は、「女声」の創刊の辞にも増して、自家製味噌の作リ方を描くことに情熱を傾けたはずです。なぜなら、彼の描く「家族」観の基調をなすフェミニズムは、思想としての言葉を構築する以前に、皿を洗うことであるからです。ひこ・田中は、そんな生活の雑事(と呼ばねばならないことの悔しさ)を、細々と積み上げることによって、『カレンダー』という九○年代の新しい「家族」の物語を創りました。この作品にとって大変に特徴的な、翼を取り巻く周囲の極端な状況は、実は、一九ぺージで本人に語らせたように「『死亡に離婚』の話をすると、だいたいは『大変ネ』とか『がんばってネ』とか『えらいのネ』とかが返ってくる」という、児童文学の中では特に多い、主人公の境遇に対する既成概念を取り除くための仕掛けです。そこまでして初めて、作者は〈時国翼〉の等身大の生活それ自体をリアルに描いてみせたわけてす。
 西山氏の解説に驚いた、僕の解釈は以上です。そして、評論書きとして悔しいことを最後に告白すると……。まとめようとすればするほどその主題がこぼれていく『カレンダー』は、ホントは読まなければ分からない作品です。
(「日本児童文学」1993/11)

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