さて、話をもう一度、西山氏の文章に戻したいと思います。先に指摘した(1)(2)の作品認知、描いたもの-見せたいものという発想の出所について、類推してみたいと思うわけです。念の為に断わっておきますと、ここから先はあくまで「類推」ですから、西山氏個人に対する物言いではありません。
 この、作品が描いたもの-作品が見せたい(伝えたい)もの、という発想は、子どもの本の評価、解釈の中に比較的ひろく見られるように思います。たまたま手元にある「月刊子ども」(クレヨンハウス発行、現在は「月刊子ども論」と改称)の一九九三年三月号を見ても、田島征三の絵本『やまから逃げてきた+ゴミをぽいぽい』(童心社)について、「人間のごみで自然の中の命がどうなるか、全国の親子に伝えようと試みた作品だ」(無記名、朝日夕刊、九三年一月三六日付)なるコメントが載っておりますが、「人間のごみで自然の中の命がどうなるか、全国の親子に伝え」たところでゴミ問題をなんとかできるわけはなく、たぶんこの絵本の作者もこのへんのところを考えた上で「じゃあ、なんで人間が生きていく上でゴミが出るんだろう。どうしたら減らせるんだろう」くらいのことまで踏み込んで、作品を製作しているはずです。まあ、こんなのは一例で、他にも同じような見解があることは、そこらに出回る節操のない子どもの本の書評を見れば分かるでしょう。
 では、この〈発想〉はどこから出てくるか。それは、ひとつには、いわゆる「戦後児童文学」の中にイデオロギーをダイレクトに子どもたちにメッセージしようとする作品が少なからずあったこと、そして、子どもたちに本を手渡す役割にいた大人たちの中にそれに対してシンパシーを持った人たちが少なくなかったこと、と関係があるように思います。また、今現在を軸にとって見れば、もうひとつ、今度は受け手の問題として、作品に描かれたメッセージをそのままテーマ(作者が見せたかったこと)として捉えるよう飼育されてしまったということでもあります。これは一九七○年代に小学校、中学校の教育(特に、国語の授業)を受け、課題図書によって読書感想文を書かされた僕自身にとって、痛い実感としてあります。このような教育の中で優等生であった者たちが、すでに、作る側や、評価する側に回っている現在、これらの〈発想〉によって児童文学、ないしは子どもの本が閉じた循環を始め、縮小再生産の過程に入ったのではないかとの危倶がその痛い実感から導かれたりもしますが、とりあえず関係なさそうなので、ここでは論を置きます。
 まあ、このような〈発想〉を「児童文学における教育意識」などという言葉で括ることは、もちろん簡単ではあります。しかし、今回のテーマ「家族」という問題に引きつけた時、それは親からの目線と、子どもからの目線のズレになぞらえることができる気がします。
 とうひろし、という作家の作品に『ごきげんなすてご』(福武書店/一九九一年)というのがあリます。これがじつに面白い絵童話で、本当はあら筋などにしたくはないのですが、四〜五歳くらいの女の子が主人公兼語リ手で、この子に弟がてきて、おかあさんがかまってくれないので家出して、あれこれあって、最後はおとうさんとおかあさんがむかえにきて、おしまい、という話です。で、ホントはこれもやりたくないんだけれど、ひとつの見方によってこの作品を切り取って見ると、なかなか含蓄がある。それはどういうことかというと、これがさっき言った「親子の目線のズレ」なわけてす。二場面目でおかあさんが女の子に赤ちゃんを見せているのですが、ここでおかあさんが「だいちゃんよ」と言っているのに対し、女の子は「おさる おさるだ」と言っています。そして、家出のシーンでは、おかあさんはリュックに荷物を詰めて出かける娘に向かって「ばんごはんまでには かえってきなさいね」なんて、べランダから声をかけている。また、ラストシーンでは、女の子の語りである地の文には「おかあさん、おとうさん」という 記述は一切見られず、あくまでも絵からの判断によってのみ、それが母父であることが分かり、彼女の語りは「あたしはすてごを やめて、おさるの おねえさんに なってあげた」という言葉で結ばれます。これはある見かたでいけば、女の子にとっての家族の再構築の物語です。おかあさんにとっては、晩ご飯までには帰ってくるはずの娘の遊びが、実は、女の子にとって、日常を離れて「むこう側」にまで行ってしまう重大な家出だったのです。それは、彼女にとって「おかあさん+おとうさん+わたし」という世界(親にとって見れば、家族)がゆらぎ、新しく「おかあさん+おとうさん+わたし(=おさるのおねえさん)+おさるのだいちゃん」という世界(家族)を作るための過程です。
 親にとってみれば、妊娠を知り、出産を経て、日々子どもが大きくなっていく過程を見ることのできる、明白な「家族」の変化も、子どもにとってみれば、自分を自分として認知した段階には既に厳然と「家族」の中にあり、それが世界のすべてである、という違いは非常に大きいものがあります。この違いの中に、先程述べた「目線のズレ」が生じるわけです。この「目線のズレ」を埋め、親(大人) の目線に自分の目線を重ねていくことが、文字どおリ「大人になる」ことで、それに寄リ添えるのが優等生の優等生たるゆえんといえますか、しかしながらその本質において、子どもにとっての「家族」とは大変に理不尽なものといわねばなりません。この「目線のズレ」に気づかず、親(大人)からの目線を一歩も出ることなく創作活動を行う作家か多い中で、『カレンダー』の作者、ひこ・田中はズレを認識して「家族」を描く貴重な作家です。

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