4 木曜日

 何しろ明るすぎるのだ。
 冒頭からサングラスと日焼け止めが必要な光の中に<私(白木)>はいるが、作品においては至る所で<光>が溢れている。

<それから何を話したのだろう。私たちは長いあいだ、喫茶店の陽の当たるテーブルにいた。>
<私は嬉しいような気持ちで、明るい桜の木の下を通った。>
<「見てみたいな、その家」と貝原さんは言った。(中略)「そういう光あふれる感じって、憧れるな、僕は」>
<私はテラスに出てみた。玄関の街灯はまだついていた。庭に向かって「ヨースケ」と呼んだ。桜の木のあたりだけがぼうっと明るかった。>
<新聞を取りに出ると、庭には夏の陽射しがあふれていた。>

 眼を閉じて眠ろうとしても、作品が繰り返す白く曖昧な光が、瞼の裏でぼんやりと明るく広がる。それは、読者である私自身が埋めなくてはならない、作品のあの<空白>にさらに反射してしまう。例え、<空白>の全てを埋めることができないとしても、この白い光を陰らすことができないかぎり、私は眠ることができない。
私は起き上がり、<光>や<影>、または<白>をキーワードとして記憶のデータベースを作動させる。すると、<光>という少女が<かげろう>という匿名で書いた一連の虚構の手紙と、<青子>という少女が手紙の中に書いてきた猫の<シロ>がリストアップされた。<光>は『もうちょっとだけ子どもでいよう』(理論社、一九九二年七月)に登場する中学生の姉、<青子>は『ステゴザウルス』に登場する小学生の妹だ。『ステゴザウルス』は姉の<街子>による一人称の語りの中に、<青子>が原稿用紙に書いて送ってくる長い<手紙>が、ゴシック体の活字で挿入されている。これらの<手紙>は虚構性に満ち、少女たちの心情は書かれたものの表面からは読み取り難い仕掛けになっている。
 私はさらに、<一人称>と<少女の書く虚構>というキーワードで検索する。すると、画面はハミルトン『わたしはアリラ』にリンクする(注6)。「自分のことを書く」という宿題の作文に、自分の家族のことを書きたくない<アリラ>は中心をずらして書き続ける。

<こんどの旅のことも、自分のことを書く作文の中に書くだろうか? 少し手を加えて、別の話に仕立ててあげればいい。(中略)書くということは、こういうことなのかもしれない。中身を変えて、本当のことがわからないようにカムフラージュする。夢に見ることがらは、実際に起こったことや、気にかかっていることが、別の形であらわれるのだそうだ。そう、それに願望も。>

 もし、『やわらかい扉』もまた、<本当のことがわからないようにカムフラージュ>されて差し出された虚構の<手紙>だとしたら、作品において隠されている事柄が何かあるはずだ。それは、実は<私(白木)>の<鉄男くん>に対する恋愛感情ではないのか。私はそんな出任せの言葉を結論にして何としても眠ろうと努力する。金曜日はもう始まっていた。

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