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5 金曜日 しなくてはならないことがあった。私は戦後の児童文学史年譜をワープロに打ち込むという作業を、南向きの大きな窓のある研究室で黙々と続けていた。三四日ろくに睡眠をとっていないため、集中力と体力は極限値にまで達していた。もとより、ブラインドタッチができない私は、仮名変換と英字変換のキーを変換し忘れて「1969」と打ったつもりが、眼を上げると画面には「ぬよおよ」と出ていたりして、その度に打ち直さなくてはならなかった。一九四五年から始めた年譜が一九七〇年代に入り、『児童文学辞典』の編者「白木茂」の名を入力した私は、画面を見てうんざりした。「白木茂」と打ったはずの文字は「DOGD:@.」となっていた。カーソルの位置を戻し、もう一度打ち直すためキーボードに指を走らせた私ははっとした。仮名文字の「しらき」のキーは英文字の「DOG」と同位置にあるのだ。私は<私(白木)>の職業がワープロのインストラクターであることを思い出した。<私(白木)>には<DOG>というもう一つの<名>があったのだ。つまり、作品は<私(白木)>である<犬>の眼で語られた作品でもあるのだ。 「こんどカメラを設置しておいたらどう? (中略)あ、やっぱり駄目。だって、撮れているのが犬ばっかりかもしれないもん。でも、どの犬が無断でうんちしてるかはわかるよね」 私は笑いだす。「ねえ、それで表にその写真を張り出すの?」 大木さんもいやだあと笑いだした。 作品において<犬>は家の前に糞をするものとしてだけ登場し、一見すると、全く問題にされていないモチーフであるかのように見える。しかし、作品の冒頭で見張りをする<私(白木)>の姿は、あたかも主人の留守を守る番犬のようではないか。 一般的に<犬>とは、家族の一員であってそうではない曖昧な動物である。それは、千田家の家族ではないが、千田家の一員でもある<私(白木)>の曖昧な位置へと重なる。 また、<犬>は屋外で飼われるが、<猫>は家の内と外を行き来できる動物である。その姿は<私(白木)>一人が千田家の一階で生活しているのに対し、<ヨースケ>はいつの間にか屋根裏部屋に上がり、<鉄男くん>の部屋で眠る特権を与えられている姿に重ねることができる。別役実は<犬>について次のように述べたことがある。 ところで、我々人間は犬のことを「動物の一種」であると考えているが、他の動物たちは犬のことを、自分たちの仲間の一種であると考えていない。(中略)「犬」に犬としての独自性があるのではない。他の「動物」たちにあるそれぞれの独自性から、「犬」は常に疎隔されているのであり、従ってこそ、それらは「犬」なのである。だからもっと正確に言えば、我々は「犬」を見て、「犬」だと判断するのではない。他の動物たちによって占められたそれぞれの独立性の「空白」をそこに見るのであり、ただその「空白」こそが「犬」であることを、我々は知識として知らされているに過ぎない。 「犬」別役実『けものづくし』(平凡社、一九八二年) <犬>は人間の側でも動物の側でもない、曖昧な<空白>に位置している。この<空白>こそが、私を悩ませ続けたあの明るさの光源に他ならない(注7)。 さらに、人工的な交配によって多様化する<犬>の虚構性について、<「空白」そのものが、架空の領土を開拓しつつある>と別役実は述べている。私は『やわらかい扉』を探そうとして、児童書にも小説の場所にも見い出すことが出来なかったことを思い出す。岩瀬成子は「子どものための文学」と一般的な文学の間にある<空白>という、輪郭線が曖昧な<架空の領土を開拓しつつある>作家なのではないだろうか。 <交配技術の進歩により、今後どのような「犬」が出現するか、我々には予想もつかない。しかし、どのように奇妙な「犬」が出現しようとも、必ずや我々は、男装の女性や女装の男性に違和感を抱くように、そのうさん臭さから直ちに「犬である」ことを見抜くに違いない>と、別役は言う。岩瀬成子もまたこの先どんな形の作品を出して来るか、全く分からない。しかし、どんな作品であっても別役風に言えば<そのうさん臭さ>から、<岩瀬成子作品>であることが見抜くことができるに違いない。そして、それは読むものを脅かす何かと、風変わりな可笑しさとを密かに後ろ手に隠し持っているのだ。油断せず、かつ、楽しみに次作が待たれる。 その夜、私はこんこんと眠り続けた。そして、私はこの顛末を千田家に贈るため、ワープロを打ち続ける。とはいえ、これはあまりにも個人的な読み込みなので、もしかすると<生ゴミ>になってしまうのかもしれないと思いながら。 日曜日、私は千田家に<生ゴミ>を置きに行く。 (注1)読み始めてから作品が<あたし>の一人称によって語られていることに気がつくまで、二ページちかくもの時間差が生じている作品は他に、『イタチ帽子』(文渓堂、一九九五年二月)や、「猫の家」(『アイスクリーム・ドリーム』理論社、一九九一年二月)等がある。 (注2)この作品の輪郭線の曖昧さは、この中心が周辺にあり出入り口を持つ非ユークリッド的な図形にも関係している。また、中心となるものが<境界>に位置しているということは、内と外との境界線上にあり、外のものを入れ内のものを出す「扉」という作品のタイトルへも連動している。 (注3)一九九六年三月三〇日、第二四九回評論研究会レジュメ、奥山恵「ひとは何になるのか「縺w西の魔女が死んだ』と『ステゴザウルス』における旅立ちをめぐって」参照。 (注4)「西の魔女が死んだ」という言葉で連想されるのは、バウムの『オズの魔法使い』である。物語は悪い東の魔女を圧死させたドロシーが西の悪い魔女を殺し、東の魔女の銀の靴の魔法で帰還する枠組みを持つ。物語の中心課題は帰還すること、言い換えれば、オズの国から脱出することであり、ここでは二人の東西の魔女たちもまた、ドロシーによってオズの国を脱出することができたとみることができる。すると、東の魔女は銀の靴を脱ぎ、それをドロシーに継承させることによって、オズの国を脱出することができたということになり、それは、<まい>を自分の<場所>に据え「魔女」であることを継承させた後、古い肉体から魂を脱出させることを成功させた祖母の姿と重なってくる。 (注5)センターシンボリズムのかけらを残しながら、根元に<生ゴミ>を置かれる父の木の残像は、どこか聖なるかけらを残した別役実の<電信柱>を連想させる。<このところ私が目にするのは、ところどころの電信柱のもとに、うず高く積みあげられたゴミの山である。言うまでもなく、定期的にそれらを集めにくるゴミ回収車の、そこが決められた置場になっているのだろう。しかし、何故かその中央に電信柱があるのである。そして私には、そこをそのような場所にすることを電信柱が許可し、自らそれを引き受けているように思えてならない。> 別役実「電信柱」『思いちがい辞典』(リブロポート、一九三三年) (注6)児童文学において子どもの語りを仮装する一人称の語りの技法を、ハミルトンと岩瀬成子は意識的に虚構の装置として用いている。なお、ハミルトンと岩瀬成子の共通性については、河合麻衣子氏(東京家政大学大学院生)より示唆を与えられた。 (注7)宮澤賢治「ガドルフの百合」は、白い光と<曖昧な犬>をめぐる問答が重要なモチーフになっている。<ガドルフはあらんかぎりすねを延ばしてあるきながら並木のずうっと向こうの方のぼんやり白い水明かりを見ました。/(あすこはさっき曖昧な犬の居たとこだ。あすこが少ぅしおれのたよりになるだけだ。>岩瀬成子の作品世界は深層部で賢治の世界へとつながっているのではないか。 『路上』第75号 1996年9月20日 発行 P30〜45掲載 |
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