3 水曜日

 もし仮に、「中学生の不登校の少女が家を離れ、木々に囲まれた家の屋根裏部屋に泊まりながら癒されてゆく物語」と『やわらかい扉』を定義したとする。すると、その全く同じカテゴリーに属するのが、一九九四年に発表された梨木香歩の『西の魔女が死んだ』(楡出版)だ。この物語は登校拒否の少女<まい>が、カントリーライフを頑に守るイギリス人の祖母の家で、「魔女修行」という心身の修練を習慣化づけながら癒されてゆく物語である。

 車は長い長い峠の坂道を登り、山の中に入った。
 やがて薄暗い孟宗竹の竹藪が右手に出てきて、それから荒れ果てた人家が見えた。(中略)車はくの字に大きく曲がると、まいの身長より少し高そうな、古びた遺跡のような門柱を通って止まった。
 そこはもうおばあちゃんのうちの前庭だった。庭の中心には大きな樫の木が一本立っており、その回りを囲むように小道や草花、庭木があった。(『西の魔女が死んだ』)


 坂道を上がってきて、楠の巨木を目印に角を曲がると、そこだけがしんと静かな、取り残されたような古い住宅地だった。道の両側に十五、六件の家が並んでいるだろうか。どの家も敷地は広く、どっしりとした構えだった。煉瓦塀に閉ざされた洋館もあれば、門構えも古めかしく板塀で囲まれた家もあった。ほとんどの家が塀と庭木に包まれている中にあって、千田さんの家だけは低い垣根にかぶさるようにレンギョウが茂っていた。三月に来たときには、ちょうど黄色い花を一杯つけていた。その内側にも庭木が茂っていた。木々は密集し、枝は絡みあっていた。
驚いたのは、玄関の前に桜の木が立っていたことだった。しかも、ほぼ満開だった。 (『やわらかい扉』)


 上は、二つの作品の舞台となる家のある<場所>を並べてみたものだ。どちらも坂道をのぼり、角を曲がった先にあるが、『西の魔女が死んだ』の舞台は山奥の鬱蒼とした木立の中にあるのに対し、『やわらかい扉』は閑静な住宅街にある。また、前者は山奥にあっても<古びた遺跡のような門柱>を立てているのに対し、後者は<ほとんどの家が塀と庭木に包まれている中にあって>垣根が低く、その垣根にさえ<かぶさるようにレンギョウが茂って>いる。つまり、前者にとって<門柱>は敷地内に立っているのに対し、後者の<レンギョウ>は敷地からはみ出ていることになる。
 しかし、ここで注視すべきなのは庭の樹木の位置だ。前者は<庭の中心には大きな樫の木が>立っているのに対し、後者では住宅街の境界に<楠の巨木>が、そして、<玄関の前に桜の木が>立っている。<庭の中心>に立つ一本の<樫の木>は、そのまま宇宙樹のイメージにつながる。聖なる中心軸が祖母の領地である<庭>にあることは、祖母の宇宙観が作品の基軸となるということだ。しかし、千田家の庭においては、宇宙樹となるべき<木>が出入口である<玄関>の前や住宅地の中心に位置していない(注2)。次に、この二つの作品の家の内部において、共通する重要な<場所>は<台所>だ。

 台所ドアはガラスの入ったドアで、開けると一畳ほどのサンルームになっている。台所に入るには、更にもう一枚ドアを開けないといけない。台所といっても、タイルを敷き詰めた土間の様な感じで、靴ばきで出入りできる。 (『西の魔女が死んだ』)

 『西の魔女が死んだ』の裏庭には、<料理の最中に台所から出てきてすぐ採れるよう>香辛料や薬味となる草木が植えられており、外からも内からも出入りできるような造りにっている。作品の言葉で言えば、この空間は<完全に外でもなく、完全に内でもない>。奥山恵氏はこの<台所>に注目する。奥山氏はこの外と内を兼ね備えた<融合的な場所>である<台所>と、心の内部の妄想にも外部の刺激にも脅かされない「魔女修行」を重ね合わせ、<…まいは、「おばあちゃんの台所」に旅立つのだ>と指摘する(注3)。
 しかし、<完全に外でもなく、完全に内でもない>といわれるその<外部>とは見せかけの外部であり、中心に<大きな樫の木>のある祖母の領土の<内部>にあるのだ。既に作品には<まい>の名に、二重の意味が与えられてしまっている。作品の中でイギリス人の祖母だけが英語を話しているが、祖母にとって<まい>は<MY>、つまり、<私のもの>なのだ。<まい>は祖母の死後、この土地と家屋を相続することになるが、それは、祖母の<場所>へと<まい>が据えられ、「おばあちゃんの台所」に<まい>が閉じ込められることではないのだろうか(注4)。
  一方、『やわらかい扉』における<台所>は、その<場所>を相続する主婦を失っている。かつて、代々の主婦が立つ<場所>であったろう千田家の<台所>は、家主であり主婦といえる<千田さん>よりも、同居人の<私(白木)>が立つ時間が増えてさえきている。かつて女の城などと呼ばれた主婦の居る<場所>の神話は崩壊し、弟の<鉄男くん>はもちろん、千田家に遊びにくる少女たちは時に<千田さん>のエプロンをまとい、ギリシャ料理を作って住人たちにふるまったり、持参してきたチーズケーキを自分で切って食べている。作品の後半に至っては、<千田さん>はスペイン旅行で不在となり、<台所>の相続権をすっかり放棄してしまっている。
 しかし、千田家の<台所>に通じる庭の中央に、元より中心となる基軸がなかった訳ではない。その一枚の証拠写真が、千田家の<台所>から発見されている。

 家族の写真だった。お祖母さんも両親も写っている。この家の庭だった。庭の木々は今ほど茂っていなくて、花壇にはチューリップの花が咲いている。
 千田さんのお父さんは背が高く、痩せた人だった。お父さんの両側にお母さんとお祖母さんが立っている。真正面を向いて微笑んでいる父親の足元に、うずくまるように鉄男くんが写っていた。(中略)千田さんは髪にピンクのヘアバンドをして、鉄男くんの横できちんと両手を伸ばして立っていた。


 写真は<千田さんのお父さん>を中心に家族が庭に立っている。庭のなかで、家族の中心に立つ<背が高く、痩せた>父親の姿は一本の<木>にも似て、千田家の家族の基軸となる宇宙樹がどこにあったのかを物語っている。『西の魔女が死んだ』の庭の中心には祖母の死後も、祖母の宇宙観の象徴とも言うべき樫の大木が根を張り、枝を広げて成長を続けてるが、千田家の庭には中心であった父という<木>は今は亡く、<千田さん>は既に中心に立つ権限を放棄している。
しかし、根を張ることのなかった父の木は、千田家が中学生たちを出入りを許し続け、<生ゴミ>を引き寄せる磁場を持った残像として、千田家の庭に未だ立ち続けている(注5)。その残像の持つ磁力が<生ゴミ>を引き寄せているとしたら、作品の結末の<私(白木)>の庭木の剪定とは、父の木の残した磁力の枝を絶つ<剪定>でもあるのではないだろうか。

 まいはその瞬間、おばあちゃんのあふれんばかりの愛を、降り注ぐ光のように身体じゅうで実感した。(中略)「おばあちゃん、大好き」涙が後から後から流れた。
そして、そのとき、まいは確かに聞いたのだった。まいが今こそ心の底から聞きたいと願うその声が、まいの心と台所いっぱいにあの温かい微笑みのように響くのを。
「アイ・ノウ」
と。                        (『西の魔女が死んだ』)

 上は『西の魔女が死んだ』の最後の場面である。死んだ祖母に向けてようやく発することの出来た<まい>の感謝と愛情の叫びは、既に祖母によって了解され受け入れられている感動的に描いて作品は終わっている。ここでは、生者の側に立つ<まい>に死者の言葉が聞こえる<場所>として、<融合的な場所>である<台所>は選ばれている。一方、『やわらかい扉』においても、少女が感謝の言葉を告白するのは<台所>だ。しかし、「一生、もう会うこともないかもしれない。そうならないうちに言っておくけど、白木さん、ありがとう」と、微笑んで述べる少女に<私(白木)>は言い放つ。

  「やめてよ」と私は言った。私はそんなことは言われたくなかった。私はガラス戸のところに行って戸をがらがらとあけた。(中略)胸のあたりがむかむかしていた。「あのねぇ」と私は振り返った。
「私は鉄男くんに合わせてるだけ。それだけ。それに、そんな言い方、嫌だな。河野さんは本気かもしれないけど嘘っぽい。それに、まだまだ人生はつづくんだよ。それで終わりにはならないの」
河野さんは口を尖らせ、むっとした顔で私を見た。     (『やわらかい扉』)


 <私(白木)>の言葉は少女を失望させる。千田家の<台所>は少女の願望を満足させる<場所>ではないのだ。『西の魔女が死んだ』において語られた「アイ・ノウ」という祖母の言葉は、自分が理解され受け入れられているという根源的信頼関係に基づく安心感と、自己と他者が完全に理解し合えるという願望を満たす心地よいものだった。しかし、『やわらかい扉』においては、理解し合うことの根源的な不可能性へと作品は開かれ、他者とのざらざらとした摩擦や、話者によって語られる言葉や記憶の不確実性や曖昧さが露呈されている。もちろん、理解されることへの願望が満たされなかった結果、少女は千田家を出て行くことができたとも言えるだろう。しかし、『西の魔女が死んだ』は<まい>が自己規律を身につけることによって、学校社会に適応する活路を見い出しているのに対し、『やわらかい扉』の場合、千田家を出て行った<河野さん>がその後、学校や社会に適応していったかどうかは語られず、少女が家に帰ったのかどうかさえ分からない。もし、『やわらかい扉』結末が読者に委ねられているとしたら、その埋めなくてはならない空白が多すぎる。<河野さん>の感謝の気持ち は本心か、<千田さん>はいつ帰ってくるつもりなのか、<ヨースケ>は本当はどこに行っていたのか、作品の謎は未だどれ一つとして解けることがなく、埋めなくてはならない<空白>は広がるばかりだった。その間、作品の中で流れつづけているバッハのCDが、私の中で一晩中リプレイされ続けていた。

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