「逃亡」の発想−ビアトリクス・ポター

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    

 ポターの同時代人ケネス・グレアムは、モグラとネズミをひとつの軸として『たのしい川べ』を描いている。それではポターの絵本の場合、軸として登場する動物は何かということになる。
 彼女が『ピーター・ラビット』の作者として知られているように、ポターといえば、ウサギを考える読者は多い。事実、ウサギは『ピーター』(一九〇二年)にはじまり、『ベンジャミン』(一九〇四年)、『こわいわるいウサギ』(一九〇六年)、『フロプシイの子ウサギたち』(一九〇九年)を経過して、『キツネのトッド氏』(一九一二2年)まで登場している。これを、ウサギを軸にした物語絵本群とすれば、それに並行して、ネズミを軸にした物語絵本群がある。
『グロースターの仕立屋』(一九〇三年)にはじまり、『二ひきのわるいネズミ』(一九〇四年)、『ハリネズミのおくさん』(一九〇五年)、『ひげのサムエル』(一九〇八年)、『野ネズミのおくさん』(一九一〇年)、『町ネズミのジョニー』(一九一八年)の系列である。
 こうした比較的息の長い動物に、さらにネコがいる。『グロースターの仕立屋』(前出)に顔をだし、『モペット』(一九〇六年)で主役をふりあてられ、『ひげのサムエル』(前出)にいたるネコの絵本群がそれである。一九〇六年にすでにつくられてい他のに、一九七一年まで出版されなかった『ずるいネコ』の話も、ここにはいる。
 これ以外に、登場回数はうんと落ちるが、リス、ブタ、イヌ、キツネ、アヒル、カエルなどがいる。リスの場合は『ナトキン』(一九〇三年)の話で主役を演じたのに、それが再度、ポターの絵本に顔をだすのは、『ティミィ・ティプトウ』(一九一一年)で、その間に、8年間の空白を持っている。
 ブタの場合は、『子ブタのブランド』(一九一三年)と『子ブタのロビンソン』(一九三〇年)であり、ポターの絵本づくりの後期になっての登場である。
 キツネやアナグマやフクロウが、どこで顔をだすかということを細説することは、煩雑さを増すばかりだろう。そこで、右のように系列化した絵本群の中で、故意に触れなかった一冊をあげてみる。それは、一九〇九年の『ジンジヤーとピクルス』である。この一冊を、ウサギやネズミの絵本群からはずしたのは、ここに、ポターの絵本に登場するおよそ大半の動物たちが結集しているからである。あえていえば、ブタとキツネとアナグマとカエルだけが参加を許されていない。それ以外の小動物は、「その他大勢」の形にしても顔をだしている。そして、一種の「動物共同体」をつくっている。
 この一冊を、分類系列化した絵本群からはずしたのは、じつは、その「動物共同体」的発想のせいである。
 ジンジャーは雄ネコ。ピクルスはイヌである。この系列を異にする二ひきの動物が、雑貨屋を開いている。二ひきは気のいいせいか、「掛売り」ばかりしているため、一向にもうからない。それどころか、税金を支払うこともできず倒産してしまう。そのあと、ヤマネが「ドロップとろうそくの店」を開いたり、ニワトリが「現金取引」の雑貨屋を開いたりする。物語は、そうした動物共同体のやや滑稽な移り変わりを描いているのだが、ここで気のつくことは、ポターの他の絵本にある生存のための葛藤がないということである。
 ネコもイヌも、お客のネズミに食欲をそそられながらも、それを襲うことをしない。むずむずする本能をおさえて、他の動物同様に丁重に対している。それは「一触即発」の危機をはらむどころか、おどろくばかり寛容である。これは、ポターの他の絵本と違っている。ポターは一貫して生存の危機を描いてきたからである。
 たとえば、ウサギの場合、『ピーター・ラビット』は、マグレガー氏の農園にしのびこみ、きわどいところまで追いつめられた。幸いにして、上衣や靴を置き去りにして、逃げだすことができた。マグレガー氏は、その遺留品をかがしに着せる。それを奪還にいくのが、『ベンジャミン』の話である。ここでも、二ひきのウサギは危険な体験をする。二ひきのかくれたざるの上に、ネコが長々と坐りこむからである。『こわいわるいウサギ』の話では、おなじウサギに気の弱いウサギがニンジンをうばわれ、そのうばった方が、人間に鉄砲で射たれる。危機である。(この話を「教訓的」と見る読者もいるだろうが、それは誤っているだろう。ニンジンをうばわれた気の弱いウサギが、どんなふうに意地悪い仲間の危機を見ていたか、ポターの描いたその姿を見る必要がある。彼は、決して、人間によって「しかえし」をしてもらったとは思っていない。それどころか、ニンジンをうばったウサギを襲った銃弾は、いつまた、じぶんの方へむけられるかもしれないと感じているのである)。『フロプシイの子ウサギたち』では、再びマクレガー氏が登場する。眠りこんだ子ウサギたちを、彼は家に持ち帰ろうとする。この危機は、野ネズミの助けで脱出できるが、子ウサギたちは、もう一度、危険に落ちこむ。アナグマ・トミイによって誘拐されるからである。(『キツネのトッド氏』の話)
 危機と脱出、あるいは逃亡。これは、ポターの絵本に共通したものである。ネズミの系列絵本にはあとで触れるとして、その他の動物絵本を一読すればわかる。
 ポターの世界では、唯一回の登板しか許されなかった『カエルのフィッシャー』。彼は魚釣りにでかけて、反対に、巨大な魚にのみこまれそうになる。幸いにしてレインコートが、彼の身がわりを果してくれた。また、『アヒルのジマイマ』(一九〇八年)では、彼女と彼女の卵はキツネの餌食になろうとする。オムレツにされるのを救出したのはイヌである。
『リスのナトキン』の話は、一見、危機脱出譚と見えないかもしれない。ここでは、島へ木の実ひろいにでかけるリスの集団が描かれる。リスたちは、島の主ともいえるフクロウに、捧げものをすることによって、木の実ひろいを保障される。しかし、ナトキンだけは、そうした仲間のやり方をばかにする。フクロウのじいさまを、島の主として尊敬しない。その結果、フクロウのじいさまに、尻尾を噛み切られてしまう。ポターの絵本には、いたずら者が、こうした懲罰を受ける構成のものが多い。しかし、ナトキンの行動は、ナトキンひとりが罰を受けてすむものなのかどうか。彼の行動は、じつは、仲間たちの木の実ひろいがだめになるかどうかという「生存」の危機をはらんでいるのである。ひとりが(というより、一ぴきが)、そうした自然の掟(秩序)を破壊する時、その結果は種全体に及ぶ。ここではナトキンひとりの尻尾を噛み切られることで終わったが、それはあるいは、リス全体の「木の実」との隔絶を呼びよせたのかもしれないのだ。
 食糧の危機は生存の危機に直結している。そのために木の実をめぐってリス同士が相争うことさえある。『ティミィ・ティプトウ』の物語がまさにそれである。ここでは、仲間のために、深い木のうろに投げこまれるリスが描かれる。すべて木の実のせいである。
『子ブタのブランド』、それに『ロビンソン』。ここでも危機に陥り脱出する物語が展開される。とすると、ポターの絵本は、『ピーター・ラビット』にはじまり、わたしの読んだ限りでは『ロビンソン』の物語まで、ただひたすら「逃亡譚」だったということになるのか。ネズミの系列絵本はあとで触れる……といったが、そのネズミたちにもどる必要がある。
 ポターの絵本を考える時、(ネズミの絵本を中心にしていうのだが)およそ三つの時期にわけられるように思う。「逃亡の発想」という一貫した傾向はひとまず横に置くとして、彼女の物語づくり絵本づくりにあらわれた発展過程の「違い」というものに注目してみると、つぎのようになる。
 一九〇三年の『グロースターの仕立屋』にはじまり、一九〇五年の『ハリネズミのおくさん』の話までが第一期。一九〇八年の『ひげのサムエル』を第二期とすると、第三期は一九一〇年の『野ネズミのおくさん』と一九一八年の『町ネズミのジョニー』である。こうした分類は、もちろん、そこに登場するネズミの描き方によっている。
 第一期のネズミたちは、一口でいえば、ひどく気がいいのだ。たとえば、『グロースターの仕立屋』では、病気で寝こんだじいさんのため、ネズミたちが、洋服の仕立てをやってのける。『二ひきのわるいネズミ』では、題名では「悪人」扱いされているが、ほんとうは、じぶんの壊した人形の家のため、毎朝、掃除をしたというやさしいネズミたちなのである。『ハリネズミのおくさん』は洗濯屋。ニワトリの足や、尻尾のないリスの皮も洗濯し、アイロンをかけている。
 ポターの絵本には、一貫して「危機と逃亡」が描かれているといったが、この、ネズミたちは、まるでその「反証」のように見える。危機や逃亡は妄想だったのだろうか。わたしは、これらの作品の中にも、じつは、そうしたものの潜在性を感じている。仕立屋のために洋服を完成させるネズミたちは、すでに、ネコによってコーヒー・カップの中に閉じこめられていたのだ。じいさんがそれを助けだした。ネズミは危機を脱出した。つぎに危機に落ちこむのは、仕立屋のじいさん自身である。納品期日は迫っている。それなのに、病気になって寝こんでしまう。いや、それより前に、洋服の仕立に必要な糸さえなくなってしまう。金もない。頼みにするネコは嘘をつく。このじいさんも人間という名の動物とすれば、まさしく、危機物語である。
『二ひきのわるいネズミ』もまた、人形の家をばらばらに壊すことだってやりかねなかったのだ。人形の家の中での破壊の場面は、相当に激怒したネズミたちをあらわしている。その危機は、人形たちがもどってきたために避けられた。それだは、『ハリネズミのおくさん』はどうだろう。ルーシイという少女がでてくる。その少女は、ハンカチやエプロンをなくす癖がある。ある日、柵を越えて、彼女は山の中にはいりこむ。そこで、奇妙な御婦人に出会う。これが、ハリネズミなのだが、この導入部には、微妙な不安感がある。彼女はどこへいくのだろう。そこには何が待ち受けているのだろう。幸い、気のいいハリネズミの洗濯屋があらわれたからいいようなものの、あるいは、その見知らぬ世界に、彼女に危害を加えるものだって出現したかもしれないのだ。ここにも、回避された危機がある。
 これらの作品と同時期のものが『ピーター・ラビット』や『ベンジャミン』なのだ。あるいは、『リスのナトキン』である。常に危機をはらみながら、それが回避されていく物語。
 もちろん、この時期の作品群を、別の視点で眺めることもできる。グロースターのじいさんや人形やルーシイを、ポターの心情的投影像と見る視点である。この三者は、孤独で不安で壊れやすい存在としてのポターを示している。そうしたもろさを慰め元気づけるものとして、ネズミが登場する……。洋服を仕立るネズミは「やさしい心根」の持ち主だし、人形の家の掃除をするネズミは「無邪気」で明るい。ハリネズミは「ほほ笑ましい」存在だし、清潔好きで、いかも「奉仕的」でさえある。こうした視点から、同時期のウサギやリスを眺めかえす時、その行動は、おなじく無邪気な、好ましい「いたずら」に変貌する。
 危機物語なのか、「愛すべきいたずら」譚なのか、二者択一を考えているのではない。潜在性という言葉を使ったが、ここには、そのどちらも併存しているといいたいのである。
 第二期の『ひげのサムエル』の話は残酷だ。第一期に潜在していたものが、大きく表面にでる。ここのネズミたちは(夫婦もの)、もはや、グロースターにいた献身的ネズミではない。また、人形の家に出没した陽気な壊し屋でもない。ネズミたちは、子ネコを捕えて、練り粉にまぶし、食べようとする。おそろしい存在として描きだされる。一方、ネコの方も、単なる意地悪い役柄だった第一期にくらべ、ネズミたち同様、残酷になる。じぶんたちの捕えたネズミを記念して、その尻尾を釘で板壁に打ちつける。ポターは、無数の尻尾がたれさがっている場面を描く。この絵本では、生存のための葛藤がむきだしになる。
 キツネが、アヒルを欺こうとした話。ネコがネズミを食事に招待して食べようとした話。子ウサギが、あわや人間のための食料や毛皮になろうとした話。それに、カエルが身ひとつで逃げ帰った話。これらはすべて『ひげのサムエル』と同時期に属する。
 ポターは、なぜ、こうまではっきりと生存のきびしさを描くようになったのか。理由は明確ではない。ただひとつ、絵本をはなれて考えられることは、ノーマン・ウォーンの死である。ノーマン・ウォーンは、彼女の絵本を出版していた会社の人間である。彼女は1905年、39歳にしてはじめて、ノーマン・ウォーンと婚約した。ポター家の人びとは、あげて結婚に反対した。しかし、彼女が、じぶんの選んだ道を進もうとした矢先、ノーマン・ウォーンは急死する。そうした事実のあったことが記されている(11)。
 人生の半ば近くになって、愛しうる対象を見つけたこと。それが祝福されることなく、相手の死によって終幕を迎えたこと。解釈はさしひかえるとしても、そうした事実が、ひとりの人間に与える衝撃は大きいと推測できる。これが「理由」だというのではない。こうした「事実」が、ネズミの絵本でいえば、第一期と第二期のあいだにはさまっている……ということである。
「ゴシップ」風ないい方をすれば、第二期と第三期のあいだに、ウィリアム・ヒーリスとの結婚を置くこともできる。失意の後八年目(一九一三)、四七歳の時である。この結婚のあと、ポターは農場に引きこもり、農場の女主人として新しいイキ方築きはじめた。絵本を今までのように一定のペースでつくらなくなった……そうもいわれているから、この「事実」も、彼女の絵本づくりの中に、何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。しかし、「事実」の確認よりも、絵本そのものにもどる必要がある。
 第三期の絵本として、『町ネズミのジョー』をあげた。町ネズミは、静かな田舎に暮すには耐えられなかった。しかし、田舎のネズミは、やはり田舎暮しが合っている。どちらかというと(…と、ポター自身の言葉が、その「むすび」にはいる)わたしも田舎暮しの方がいい。
 ここでは、残酷なまでの生存の確執は姿を消している。現実のポターが田園をえらんだように、主人公のひとりも田園に引きこもる。第二期に見られた葛藤は終り、ネズミは安息時代を迎えた。町ネズミは田舎に、田舎ネズミは町にがまんできず、そこから逃げだした。
 この時期に重なる絵本は、『子ブタのブランド』だろう。農場では子ブタが多すぎるというので、あっちこっちへ追いやられる。主人公は通行証をもって市場へ向かう。途中、人間の家に引きとめられ、そこで、ピグ・ウィグというブタの女の子に出会う。ふたりは、人間のわなを察知し、手に手を取りあって脱出する。
 物語のないよう、構成は変るが、ブタもネズミも、がまんならない状況から逃亡する話である。付け足せば、どちらも、おだやかな明日を約束された終り方をしている。ポターは、やっと安息の生活を見つけたというのか。結婚一六年目に、アメリカでまず出版された『子ブタのロビンソン』(一九三〇年)は、はじめに触れたように、グレアム・グリーンの酷評した作品である。グレアム・グリーンは、主人公の子ブタが、船から脱出したあと、島にたどりつく個所を批判している。その島には食物のなる木がある。それは、子ブタのロビンソンにとっては満足すべき結末だろう。しかし、ポターにとって、そうした安易なハッピー・エンドの表現は、空想力の放棄にすぎないというのだ。これに対して、ポターがどう反論したかは、すでに触れた。そこで、この作品が、ポターの一番最初の本になるにせよ(彼女はそういっている。また『日記』にも関連事項の記載がある)、発表年代順通りの後期の作品になるにせよ、それはひとまず問わないことである。要は、それが「逃亡譚」であり、逃亡の結果、「幸せ」を約束されたという発想である。
 ポターは、そうした想いを、はじめから一貫して抱いていた。そうした発想が、彼女にもっとも納得できるものだったからこそ、その時点で出版を認めたということである。彼女は、ロンドンの生活よりも、レイク・ディストリクトでの生活を愛していた。そこには、何の夾雑物もなく愛しうる「自然」があったからである。この「自然」の中に、絵本で活躍するすべての小動物も含まれる。彼女は、それらの中に逃亡することによって、やっとじぶん自身の安息を見いだす。それを、別に「逃避」と呼ぶ必要はない。彼女が、じぶんを律するには、そうした方法しか考えつかなかったといってもいい。ポターは、そうした「じぶんだけの小世界」を持つことによって「幸せ」だったのだと思う。ただ、この「幸せ」ということは、現実に生起する生存のための葛藤に、盲目であるということではない。ポターはそれを知っている。じぶんの生活体験を通し、また、「自然」への観察を通して知っている。そうでなければ、どうして『ひげのサムエル』のような物語を生みだせただろう。人生は危機に満ちている。常に危機を潜りぬけることによってしか、自己は確保できない。戦いか、逃亡か。逃亡を選ぶポターにとって、それもひとつの「生きるための戦い方」だった。そうした姿勢が、彼女の絵本の全体に及んでいる。『ピーター・ラビット』から『子ブタのロビンソン』までの「逃亡の発想」となっている。
 この章のはじめで、『ジンジャーとピクルス』を、ネズミやウサギの絵本からはずした。それは、一種の動物共同体の表現だといった。ここまでくれば、その一冊が、じつはポターの祈念する世界、「かくあらまほしき」理念の形象化だったといってもいいだろう。彼女は、じぶんの逃げこんだ小動物の世界の、その自然の掟(生存のための葛藤)からも逃げだしたかったのかもしれない。「逃げること」が「生き続けること」、あるいは「生きぬくこと」につながる場合がある。たとえば、反戦逃亡兵の場合である。この場合、「逃亡」は、国家にむきあう。じぶんを踏みにじるものに対峙する。それとポターの場合を同列に語ることはできないかもしれない。しかし、ポターはポターなりに、小動物とおなじく、動物的本能で、そうした在り方に「生存」の道を嗅ぎ取ったのではないのか。

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