「逃亡」の発想−ビアトリクス・ポター

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    


 子どもの本を書く人間は、およそ二つに分類できる。そういったのは、クリフトン・ファディマンである。ラジオやテレビでも活躍しているというこの批評家は、ケネス・グレアムとドクター・スースを取り上げ、「告白的」作家と「職業的」作家という分類をした。(1)
 いうまでもなく、『たのしい川べ』(一九〇八年)を書いたケネス・グレアムが「告白的」作家で、ドクター・スースが反対の極にいる子どもの本の書き手ということになる。たぶんにこのエッセイは、ピーター・グリーンの『ケネス・グレアムの伝記』に負うところが大きいのだろうが、きわめて衝撃的である。
 従来のケネス・グレアム論によると、『たのしい川べ』の誕生過程は、この物語の冒頭の情景のように、あたたかな春の陽ざしに満ちている。一八九九年に結婚したひとりの銀行員が、翌年、ひとりの男の子をもうける。その子どもの四歳の誕生日(一九〇四年五月)、「おやすみなさい」の時間に、銀行員である父親が話しをはじめる。モグラとネズミの物語である。はじめはキリンも登場したが、すぐさま舞台をおろされてしまう。この寝物語は、ともかく三年にわたって続けられ、その間、アナグマやヒキガエルも主要人物になる。四年目の夏、子どもの方は、長い休暇を海辺で過すことになる。父親は、物語の続きを希望する息子のため、手紙でそれを書き送ることを約束する。その手紙は息子の家庭教師が保管し、のちに銀行員の妻の手に返される。その頃、銀行員の友人で、アメリカの雑誌社の編集責任者だった男が、何か原稿を送るようにすすめてくる。銀行員は、もともと、銀行員であるかたわら文学者として名をなしている。すでに『黄金時代』(一八九五年)や『夢みる日々』(一八九八年)といった少年期を描いた大人の本を出版している。アメリカの雑誌社は、そうした類の本を銀行員に期待した。しかし、送られてきたのは、モグラとネズミとヒキガエルの話である。この物語を送るようにすすめたのは、銀行員の妻である。結果は、出版拒否、そして返送。しかし、別のイギリスとアメリカの出版社が、この物語を出版。一年のうちに八万部も売りつくしてしまったというのだ。これが、『たのしい川べ』の世にでる経過であり、よく引かれるエピソードである。
 その後、四三年にわたって(というのは、一九五一年までで・・・・・・ということだが)百版を重ねたというから、それ以後の増刷重版を考えると膨大なものになる。(2)
 エピソードといえば、最初にこの本の出版を拒否したアメリカ人は、まるで「臥薪嘗胆」という中国の故事を地でいくように、じぶんの家を、この物語の内容にちなんで、「ヒキガエル屋敷」と改名している。また、映画『風とライオン』は、一九〇四年のモロッコを舞台にした壮大なドラマだったが、この映画の中でモロッコに軍事介入を決定するアメリカの大統領ルーズベルトも、のちに『たのしい川べ』の愛読者のひとりとなっている。
 ケネス・グレアムが。『たのしい川べ』を書くにいたった経過は、児童文学のひとつの「生まれ方」を考えさせる。『水の子』(一八六三年)を書いたキングズリー。『ふしぎの国のアリス』(一八六五年)を書いたルイス・キャロル。あるいは、『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』(一九七二年)のリチャード・アダムズ。それに、この小論で取り上げようと考えるビアトリクス・ポターの場合・・・・・・。これらの作者は、みな、特定の子どもに語りかけることからはじめている。たとえば、リチャード・アダムズの場合、五、六歳のじぶんの娘にシェイクスピアを知らせようとして、ロイヤル・シェイクスピア劇場に連れていくことがその「きっかけ」である。ロンドンから劇場のあるストラトフォードまでは、一一〇マイル。その間、この国家公務員は、つぎつぎ話をして幼い娘を退屈させまいとする。その話しの中に、のちに『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』の主要人物(?)が登場する。この話は、ストラトフォードへの旅のあと、毎朝、学校へ送っていく車の中で二週間続いたという。(3)
 ビアトリクス・ポターの場合もまた、ノエル・ムアーという病気の少年宛の見舞状がそうである。ポターは、じぶんの元家庭教師の子どもに、病気見舞をだそうとして、何を書くべきか迷った。その結果、ウサギの物語を手製の絵本として送る。一八九三年のことである。八年後、ポターは、それを一冊の絵本にすることを考える。この絵本は、ケネス・グレアムの場合同様、フレデリック・ウォーン社から出版を拒否されている。彼女はあきらめることができない。私家版二五〇部をつくる。その最後の一冊を、もう一度フレデリック・ウォーンの会社に送りつける。その時点で、出版社も考えを変え、ポターの小型本の出版に踏みきる。これが、一九〇二年の『ピーター・ラビット』の誕生である。
 こうした事実は、子どもが、子どもの本誕生の大きな「きっかけ」になっていることを告げる。しかし、子どもが、子どもの本の内容を生みだすわけではない。語るべきこと、書くべき事柄は、子どもに語りかける以前に、作家の側に内在している。もしそうでなければ、一冊の本など書く必要はないだろう。一冊の本を書くということは、特定の子どもをこえて、そのむこうの多数の読者への発信だからである。じぶんの娘に話をすることによって、『ウォーターシップ・ダウン』の物語を触発されたリチャード・アダムズは、つぎのようにいっている。
「子どものために書くなぞということを、口にする人がいるが、これはまったくのたわ言だ。子どものために書くなぞと言うようなことはない。それはまったくのご機嫌とりだ。子どもたちのために書くことや、その方式についてうんぬんする連中は、愚にもつかないことをいっているんだ。ウォルター・ド・ラ・メアは子どもの本なぞというものはないといっている。彼はまったく正しい。C・S・ルイスもほぼ同じようなことをいっている。『子どもたちがたまたま好きになる本がある』とね。」(4)
 ひとつの作品が生まれる契機と、その作品の内容との間に、無限の距離があることをいうために、右の一文を引いている。それにしても、ケネス・グレアムの『たのしい川べ』の誕生過程は、「あたたかな春の陽ざしに満ちている」といった。それは、たとえば作品誕生の「契機」だけの話にしても、従来、ほほえましいエピソードとして語りつがれてきた・・・・・・というためである。その物語を、四歳から七歳になるまでのわが子に、モグラやネズミの物語を話し聞かせるケネス・グレアム。その物語を、出版社に送るようにすすめるグレアム夫人。こうしたエピソードから浮かびあがってくるのは、「なごやかな家庭風景」である。そこには親子の語らいがあり、同時に夫婦のあたたかな交流がある。また、イングランド銀行の「お偉方」である一方、オーストラリアの時の首相からファン・レターを受け取るほどの作家であったことは、ケネス・グレアムの肖像をますます明るい陽ざしのもとにさらしていく。しかし、クリストン・ファディマンはいう。
 グレアム夫人は、扱いにくい愚かな人であった。不幸なことに、ふたりのあいだに生まれた子どもは身体障害者であり、二〇歳で鉄道自殺をとげてしまった。妻との不和。銀行員であることへのそれよりも、イングランド銀行に代表されるイギリスそのものへの不満。工業、貿易、それのもたらす「進歩」という考え方への嫌悪。ひいては、大人の世界そのものへの嫌悪。それが、極度な「自然」への愛着、「動物」の理想化にあらわれている・・・・・・と。『たのしい川べ』は、そうした既成社会の中で、枠をはずすことなく生きねばならなかったケネス・グレアムの、その「逃亡」のひとつの在り方だった・・・・・・。
 もちろん、言葉はこの通りではない。そこには、ヒキガエルの自動車狂である点を取り上げた若干の分析(らしいもの)はある。また、たとえ『たのしい川べ』が、そうした内攻鬱積したものの反映であるとしても、それによって、この一篇が、「楽しい」動物の空想物語であることは否定できない。クリフトン・ファディマンのいおうとしたことは、スウィフトの『ガリバー』がそうであったように、子どもの本棚にならぶ作品の中にも、それを生みだした大人の内的葛藤がひそんでいるということである。『たのしい川べ』は、「見えないインクで記したじぶん自身宛の手紙だった」とクリフトンはむすんでいる。
 これは、「ケネス・グレアム論」ではない。また、わたしの『たのしい川べ』論でもない。それにもかかわらずケネス・グレアムからはじめたというのは、つぎのような理由によっている。クリフトン・ファディマンの『たのしい川べ』への踏みこみ方が、グレアム・グリーンの「ビアトリクス・ポター」への踏みこみ方に似ていること。もし、わたしが、それを読まなかったとすれば、ポターの小型本を、それほどの関心も持たずに見過ごしただろうということ。加えていえば、クリフトンは、ケネス・グレアムの中に「逃亡者」の顔を見たというが、わたしもまた、ビアトリクス・ポターの中に「逃亡者の発想」とでも呼ぶべきものを感じたためである。それはどういうことなのか。わたしのポター論をやる前に、まず、わたしの足を引きとめたグレアム・グリーンのことからはじめてみよう。

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