『ページのなかの子どもたち・作家論』(松田司郎:著 五柳書院 1984)

灰谷健次郎の子どもの世界

 灰谷憲治等の長編小説『兎の眼』が出版されたのは、一九七四年である。翌年、長新太氏とのコンビで『ろくべえ まってろよ』という絵本が出され、一九七八年には長編小説『太陽の子』というふうに、一九八四年現在まで絵本、幼年童話、短編集
、長編小説、エッセイ、詩集を含め、およそ四十冊の本が出版されている。
 これらにくまなく目を通して思うことは、表現方法こそ違え、どの本も一貫して同じことを主張しているということである。その主張をもっともシンプルに象徴的に表わしたのが、絵本『ろくべえ まってろよ』であろう。
 この作品のプロットは、穴に落ちた犬を子どもたちが助け出すというごく簡単なものである。

  ろくべえが、あなに おちているのを、さいしょに、みつけたのは、えいじくんです。
 「まぬけ」
  と、かんちゃんが いいました。
  いぬのくせに、あなに おちるなんて、じっさい、まぬけです。
  あなは、ふかくて まっくらです。
  なきごえで、ろくべえ ということは わかりますが、すがたは みえません。

 これは、まっくらな穴だけの絵に「きょゆーん、わんわん。きょゆーん、わんわん」という犬の鳴き声を白ヌキ文字で浮かべている《扉》に続く、第一場面の文字の部分である。
 ろくべえという子どもたちと親しい犬が穴に落ちた。鳴き声でろくべえとわかるが、穴は深くて暗い。その底にはガスがたまっていて、早く助け出さないと死んでしまうかもしれない――という犬の落ちこんだ苦境を視覚的にも明快に提示し、それを幼い(一年生)子どもたちだけの知恵で救出させようとする。
 子どもたちは、懐中電灯で照らしてやったり、元気づける歌をうたってやったり、しゃぼん玉を吹きこんでやったりする。しかし、ろくべえを助け出すことはできない。お母さんたちは「むりよ」というだけだし、ゴルフのクラブを持ったおじさんは「いぬでよかったなあ」とさっさと行ってしまう。そこで子どもたちは一計を案じ、ろくべえの恋人クッキーをかごにのせ、ひもで穴におろす。ろくべえがクッキーと一緒にかごに入ったところでひき上げ、子どもたちとろくべえは再会する。
 この作品には、まず犬の落ちこんだ〈穴〉が提示されている。〈穴〉とは一体何なのか。それは深い深い穴である。それはまっ暗やみの穴である。それは、底に有毒なガスがたまっているかもしれない穴である。
 作者は〈穴〉をこういうふうに表現することにより、そこに落ちこんだ犬の苦境が並大抵のことではないことを示している。ましてその恐しい穴に落ちこんだのは一匹の犬である。穴のはるか上から呼びかける子ども集団との対比において、この犬が孤立し、無力であることが示されている。それは子どもたちの声援を受けて「しかし、がんばれと、さけぶだけでは どうにも なりません。/だいいち、ろくべえは なにを がんばったら いいのでしょう」というセリフに簡潔に表わされている。
 ろくべえという犬は、特に説明されていないが、特定の飼い主を持たない犬で、日頃から子どもたちと親しい関係にあるようだ。ろくべえは自力では〈穴〉から脱出できない存在であると同時に、急いで駆けつけてくる身寄りを持たない風来坊らしい。そして、その故に一層孤立化し、無力であり、惨めなのである。
 絵本『ろくべえ まってろよ』は、シナリオ『ろくべい』があって、初めて生まれた。シナリオの部分を読むと、作者が〈穴〉をどのような想いをこめて絵本として表現したかったかが理解される。(章末に全文掲載)そのあたりのところを画家長新太は十分にくみとって、ヨコをタテにもしたりという大胆な構図で見事に視覚化したといえよう。
 この絵本は、穴に落ちこんだ犬を子どもたちが見つけるところから始まる。深い穴の中から犬を救い出したのは子どもたちである。しかし、その救出は容易にはいかなかった。
 一年生の子どもたちが、互いに知恵を出し合い。話し合い、何とかして早く助けてやろうとするプロセスは、緊張感と大らかさが適度に混じり合っていて、早く次のページを繰ってみたくなる。
 大人たちは、ここでは二通りに子どもたちと関わっている。一つは子どもたちの母親たちである。犬を助け出すことに異存はないが、我が子の身を案じて危険な冒険を禁止している。今一つは、ゴルフのクラブをさげたひまそうな男の人であるが、「いぬでよかったなあ」とろくべえという存在を無視して去っていく。
 子どもたちは、大人に頼んでも無駄なことを悟り、自分たちだけで考えぬき、ろくべえが恋人だと思っているクッキーという犬のことを思いつく。子どもたちは日頃からろくべえと親しくしているので、ろくべえのことなら大抵のことは知っているのだ。
 上品なお嬢さんという感じの飼い犬のクッキーは、のら犬のろくべえにとっては憧れの存在らしい。ようやくクッキーと一緒にかごにおさまったろくべえ。ゆらゆらゆれながら穴の上へひきあげられるろくべえ。ろくべえを救ったのは幼い子どもたちである。だから、最終場面の救い出されたろくべえとろくべえを取りまく子どもたちの顔は底ぬけに明るいのである。
(絵本『ろくべえ まってろよ』は、学校図書、日本書籍、東京書籍の三社の教科書に収録されたが、教科書の体裁上、絵本としての表現を放棄しているために、穴から急に外に抜けでた、最終場面のバックの白のまぶしいくらいの輝きの効果が出ていないのは残念である。)
 灰谷健次郎は、絵本『ろくべえ まってろよ』によって、〈穴〉を提示し、〈穴〉から救出する(脱出する)方法をも提示した。よい絵本、よい童話の条件の一つに、読み手にとってどのようにも解釈できるという点がある。つまり、読み手が作品を自分の中にとりこみ、自分の経験や内質に合わせて再創造できるということである。
〈穴〉とは何なのか?それは苦境であり、難関である。また心身をむしばむ病いであり、絶望に沈んでいる状態であり、そういう諸々の意味で、疲弊した現在という状況であるかもしれない。
 では、灰谷健次郎にとって、〈穴〉とは何であったのか。それは、カバーのそでに記された作者の言葉から類推することができる。

  ぼくはむかし、こじきのオッサンに、たすけてもらったことがあります。一五さいのとき、なんきんまめやを おいだされ、ねるところも たべるものもなくて、ないていました。こじきのオッサンは、ぼくに ムシロをかしてくれました。あたたかいサトウゆを つくってくれました。うちにかえるでんしゃちんまでくれました。そんなことがあるので、ぼくには ろくべえのうれしいきもちが よくわかります。ろくべえ よかったなあ。

〈穴〉はある時期の作者の追いつめられた状況であるようだ。作者は、ろくべえと同じような経験を味わったらしい。そのことは、自伝の体裁はとっていないが、その要素の濃い『わたしの出会った子どもたち』を読むとうなずける。
 作者は、父のギャンブル狂いや次兄のぐれなどによって、貧しく辛い少年時代を過ごしたようである。中学を出て就職にあぶれ、毎日大人たちに混じって職業安定所に並び、ようやく得た勤め先でも、経営者の悪徳によってずいぶん惨めな思いをさせられたらしい。その「自立を踏みにじられた人間の絶望」をひきずって歩く少年を救ってくれたのが、浮浪者や底辺の労働者だったようだ。
 しかし、少年は夜間高校に通い、勉学に望みを託す中で、自身と彼らの間に垣根を作っていく。自分は彼らとは違うという垣根は自殺した長兄との間にまで築かれる。そして文学にかぶれることにより、ますます傲慢になった少年は、気がつかない間に孤独で陰惨な〈穴〉の中に落ちこんでいく。
 やがて、少年は青年になり、教師になる。子どもたちとの十七年間の暮らしの中で、青年は失ってきたもの、葬ってきたものを少しずつ取り戻していく。しかし、学校教育が勤評以後の管理体制を強化していく中で、教師に挫折し、沖縄に渡り、二年間の放浪をする。

  沖縄を考えるとき、いつも子どもがあった。子どもを考えるとき、いつも沖縄があった。それが、ぼくを救った。

『わたしの出会った子どもたち』という一冊の本は、灰谷健次郎という少年が、いかにして〈穴〉の中に落ちこみ、その〈穴〉はどれほど絶望的で苦痛であったか、そしてその〈穴〉の中からいかにして救い出されたかを手短かに物語っている。
 青年は、沖縄にある自然と、自然と一体感をなしている人々の暮らしにふれることにより、それが子どもたちの内質とそっくり同じことに気づく。すなわち、楽天性、感受性、想像力、遊びのエネルギー、生命力、やさしさといった、子どもが持っている宝物である。そしてこれは、少年時代に自分を励ましてくれた浮浪者や底辺労働者の明るさややさしさとも似通っていることを発見していく。

 冒頭で、灰谷作品は一貫して同じことを主張しており、その主張を端的に表わしたのが、絵本『ろくべえ まってろよ』であると述べた。では、長編小説『兎の眼』や『太陽の子』にはどういう〈穴〉が描かれ、その穴には誰が落ちこみ、どういう方法によって救出を願ったり、脱出を試みたりしているのか。
「鉄三のことはハエの話からはじまる」で始まる『兎の眼』は、小谷先生という新婚十日目の新米の先生と学校裏の塵芥処理所の長屋に住む子どもたちとのふれあいを描いたものである。
 子どもたちの中でも特にハエ博士の鉄三と知恵遅れのみなこを通して、小谷先生の「教師であること」「人間であること」が問い返されていく。臼井鉄三こと鉄ツンは、学校の中で孤立し、一言も口をきかず、いきなり暴力をふるう。どうして鉄三がハエに対して異常なまでの関心を示すのかをときあかす努力の中で、小谷先生は鉄三の心を少しずつ理解し、鉄三のもつすぐれた可能性を発見していく。また知恵遅れのみなこに自ら心を開いてふれあうことにより、みなこの美しさに打たれ、同時に学級の子どもたちのみなこに対する思いやりとやさしさに気づいていく。
 この作品において、〈穴〉は新任教師小谷先生を通して提示される。
 すなわち、経験のない小谷先生が「教師」というものに抱いていたイメージ。そして、「大人」であり、「社会人」であるという自覚によって、子どもに対して持っているイメージ。それらのイメージは、小谷先生という一人の若い女性に固有のものではなく、彼女の中にも、また彼女を育んできた社会という目に見えない土壌の中にもそれらを形成する基盤があるということ。これは、我々現代人一般に共通なものであるということ――もう少し端的にいえば、自分自身を見つめるということが既に犯されてしまっている状況――これが〈穴〉であり、小谷先生だけでなく、読者である我々もまたその〈穴〉の中に落ちこんでいるといったふうに示されていく。
『兎の眼』に登場する学校は、H工業地帯の中にある。T駅を降りて学校に近づくと、そこは煙霧(ガス)で終日どんよりしている。学校のすぐ隣に塵芥処理所があるからであり、そのことによって付近の住民はさまざまな被害を受けている。
 処理所の近くにはそこで働く臨時雇いの人の長屋があり、その子どもたちは概して勉強ができず、万引きをしたり、家出をしたり、暴力をふるったりすることもあり、評判がよくない。要するに、教師たちにとっては、学級経営上どちらかというといてほしくない存在なのだ。
 このことは、もちろん日本の教育のあり方が、受験制度を柱として、知識偏重の詰めこみ主義に落ちこんでいることと無関係ではない。勤務評定をくぐり、ますます“管理”が強められる中で、手のかかる子どもたちは邪魔ものとして巧みに除外させられていく。
 しかし、教師たちだけでなく、我々現代人も、苦労の少ない安穏な暮らしや目先の便利さ、合理さに依拠していくとき、実は人間の本来の生き方にとって大切なものを失っていっているのである。波風の立たない事なかれ主義の日々は、退屈で平板で怠惰な暮らし以外の何ものでもない。
 川本三郎は、少年の不思議さを探ったユニークな評論集『走れ、ナフタリン少年』の中で、子どもの中にある野性的なもの、秘められたヴァイオレンスを「われわれが人間になるために切り捨てたけれども、生の充足のために再び立ち帰らなければならない泉のようなもの」といった。
 さて、灰谷健次郎は、我々現代人が落ちこんでしまっている深くて暗い穴からどのようにして脱出しようというのか。
『兎の眼』は、いわば〈穴〉に落ちこんでいる自身を確認することにより、穴からの脱出を試みた一人の人間の物語である。しかし、最初から小谷先生は自身の〈穴〉を明確に意識したわけではなかった。それは、鉄ツンこと臼井鉄三や知恵遅れのみなことの関連を通して徐々に明らかにされる。
 鉄三は先生に一言も口をきかない存在であり、授業を無視するという反抗的態度をとっている。このような子どもの存在は、管理を柱とせざるをえない学校運営にとってマイナス以外の何ものでもない。つまり、クラス全体のカリキュラムの消化という観点では、害をなす存在である。
 しかし、彼は何故反抗的に見えるのだろうか。彼は教育そのものの本来の意味において、障害的な存在でしかあり得ないのだろうか。そもそも教育とは何なのだろう。
 小谷先生が、このような疑問をもつにいたるのは、鉄三のハエ事件からである。

  とつぜん鉄三が立ち上った。そして、あっというまに猟犬のように小谷先生にとびかかった。/思わず小谷先生はひめいをあげた。ひめいをあげたとき、小谷先生はもう先生ではなくなっていた。小谷芙美というただの若い女だった。恐ろしいものきたないものをはらいのけようとして、気のくるったように鉄三をはらい落とした。

 はじめ小谷先生は、自分をおそい、文治にかみついた鉄三を乱暴で粗野な子として捉えていた。「かわいいと思っていた子どもたちも、ちょっとしたゆきちがいで自分に害を加えることもあるのだ」と思っていた。しかし、このとき小谷先生は自分が子どもたちのどの部分にかわいさを感じていたのかを冷静にふりかえる余裕はなかった。
 それでも、鉄三が暴力的になった原因を突きとめていき、それが鉄三が大切にしていたハエのためだと気づいていくうちに、鉄三の内に秘められたものに関心を持つようになる。
 小谷先生が関心を持つことができたのは、彼女の中に一個の人間としてまだ汚れきっていない物事を見る目があったからかもしれない。しかし、小谷先生は〈穴〉を容易に見つけたのではない。些細なこと、さまざまなことの積み重ねのはてに「何故、自分は教師なのか?」「教えるというのはどういうことなのか?」という疑問を投げかけ、そのことによって少しずつ自身の落ちこんでいる〈穴〉に気づいていくのである。
 とはいえ、この作品が気づかない間に落ちこんでしまった我々現代人の〈穴〉を描くだけなら、納得はできても、それ以上のものにはならなかっただろう。
 小谷先生は、自身が気づいた〈穴〉から何とかしてはい上がろうともがいた。一人の人間としてすべてをさらけ出して奮闘するさまはいじらしいほど美しいかもしれない。しかし、この作品の本質的な意味は、〈穴〉から小谷先生を救い出したのが鉄ツンであり、みなこであり、処理所やクラスの子どもたちであるというところにある。
 では、鉄ツンとはどういう存在であろうか。
 鉄ツンこと臼井鉄三には、父も母もいない。祖父と二入で暮らしている。鉄三はハエを飼っている。小さいときから処理所のゴミ溜めの近くで遊んで育った鉄三の興味が、ハエにあったとしても不思議はない。なぜなら、ゴミ溜めには、センチムシやゴミムシ、ハエぐらいしかいないからである。しかも、ハエは一般的には恐ろしいバイキンの運び屋だと思われているが、実際はそうではない。イエバエという種類は糞便を食べるが、たいていのハエは春にはおおかた戸外にいて、花の蜜とか木の汁を吸うのである。暖かくなると、腐ったものとか糞便に進出するが、それは人間にも責任がある。
 つまり、ハエは人間によって理不尽な誤解を受けているのである。このことは処理所で働く人やその子どもたちがこうむっている誤解とよく似ている。
 処理所の子どもたちは、誤解や偏見でハエを見ない。だから、黄緑色でつやがあって、よく光る金属でこしらえたおもちゃのようなハエを見ると、「きれいなもんやなァ」と親しみをこめていう。
 鉄三が一番大切にしていた金獅子と呼ぶハエは、二センチもある巨大なもので、ぴかっと金色に光って王様みたいに見事である。それを文治に盗まれて、カエルの餌にされたとき、鉄三は一日何も食べなかった。そして、文治に乱暴を働いたのである。
 鉄三が一言も口をきかないのは、悲しみのせいである。それは祖父との貧しい二人暮らしという家庭の問題にあるとだけいいきれるようなものではない。既に述べたように、学校教育というものが、処理場の子どもたちやみなこや鉄三を追いつめているのである。
 だから、彼は次第に身構え、沈みこみ、誰でもが持っている大切なものを犯されていく。大切なものとは奔放な生命力であり、人間であることの基盤である。しかし、現代は、追いつめる側も既に“根っ子”(注1)を失っているという二重に喪失した悲しみを負わされている。
 しかし、鉄三は“根っ子”を失ってしまってはいない。それは、彼なりの表現の中に鮮やかに示されている。ハエに対する愛情の中に、仲よしの犬のキチへの接し方の中に、処理所の子どもたちや、やがて小谷先生とのふれあいの中に、さりげなく表わされている。
 注意深くみていくと、小谷先生に対する鉄三の表現が、少しずつ変化をみせていくのがわかる。
 ・巣にたかるミツバチのように、鉄三の腕にハエが群がっている。ハエはとびもしないで、まるで鉄三にあまえるかのようにからだをこすりつけている。
 ・「これよ鉄三ちゃん」/小谷先生は教えてやった。そういうとき、鉄三はすこし表情をかえる。くやしいようなはずかしいような、すこし、てれたようななんともややこしい顔である。
 ・(略)小さい鉄三も浩二もひっしでかなづちをふるっている。(略)さいしょ天井に穴があいた。あっというまに側面にも大きな穴があく。/「キチ!」/鉄三が大声でさけんだ。しっぽを気ちがいのようにふってキチは鉄三にとびついた。/「キチ、キチ、キチ」/と、鉄三はキチをだきしめた。キチは鉄三の顔をペロペロなめた。
 ・「おばちゃん、古い新聞紙や雑誌はありませんか」みさえはていねいにそういっている。鉄三はガラッと戸をあけると首だけ中に入れて、/「新聞」と、ぶあいそうにいう。/「新聞ってなに」/なんのことかわからないので家の者が出てくると、鉄三はだまって大八車を指さした。
 ・「入れ歯や、バクじいさん入れ歯を落としよったんや」/大笑いになった。みんなでさがしてやっと入れ歯はみつかった。(略)/鉄三は声をあげて笑った。小谷先生は鉄三の手を引いてたしなめているが、自分でも笑いをころすのにへいこうしている。

 鉄三が持っている“根っ子”とは、教員ヤクザ足立先生の指摘する「タカラモノ」である。
 タカラモノは、鉄三が幼い故のかわいらしさではない。まして、逆境にあって無理解な大人たちに攻められるという殉教者のような悲劇性の故では決してない。
 タカラモノは、鉄三にだけでなく、みなこにも処理所の子どもにも学校の子どもにも、そしてかつて通りぬけてきた大人たちの心の奥底に今も根付いている「人間の拠って立つ基盤」である。
 灰谷健次郎は、人間の持つタカラモノを鉄三を通してもっとも鮮やかに浮き彫りにしたといえる。それは端的にいえば、自己を素直に見つめる目であり、外なる世界の物事に新鮮な目を向け、驚きと発見を繰り返す大らかで楽しい〈生〉である。自己をも含めて大切なものをいつくしみ、育て、それ故に身を賭しても守ろうとする誠実な意志であり、限りない暴力(野性)を秘めている。心の奥底からわき上がってくる喜びのままに行動し、あらゆる物度とに遊びの目を向け、目に見えないものをさまざまな形に変える想像力のたくましいエネルギーである。
 もちろん、子どもは自己本位であり、身勝手であり、うんざりするほどわがままである。すぐに手を出すし、譲らないし、泣きわめくし、告げ口もする。しかし、こういったエゴイスティックな〈生〉は、大人のように何重にも張りめぐらせた打算的なワナで防御されていない。楽しく生きたいとストレートに素直に思っているからこそ、分別で武装している大人に「子どもっぽい」とうわべだけで判断されやすいのだ。
 小谷先生を〈穴〉から救い出したのは、鉄三の内に秘められていたこのような「タカラモノ」である。鉄三だけでなく、処理所やクラスの子どもたちやみなこの持っている「タカラモノ」である。これは子ども時代には誰もが所有していたものであり、また大人になっても形を変えて持ち続けているものなのだ。
 絵本『ろくべえ まってろよ』のろくべえは、子どもたちによって救出された。長編小説『兎の眼』の小谷先生もまた子どもたちによって救出された。しかし、決して小谷先生が鉄三やみなこを救い出したのではない。鉄三やみなこの中から「タカラモノ」を引き出したのではない。
 もう十年にもなるが、私はこの作品が出版された年の最優秀作品として、『兎の眼』を躊躇なくあげた。しかし、同時に、鉄三というこれほど魅力ある子ども像を描出しながら、予期せぬ危険性をはらんでいることを次のように指摘した。

  だが誤解してはならないのは、鉄三の美しさは鉄三があくまでも人間自身子ども自身としてもっている「根源的存在」そのものであり、決して小谷先生の愛情教育に呼応して引き出されたものではない。この作品の弱さは、そのような読みちがいと同時に、子ども存在とは別の次元で、小谷先生を通して人間の生き方(美意識)の固定化を生みだす危険性をもっていることであろう。(「'74年の創作をふりかえって」『学校図書館』一九七五年一月号、学校図書館協議会)

 このことにより、この作品の本質的な意味と面白さが損なわれるわけではないと思うが、最初に読んだとき思わずこみあげてくるものを覚えながら、この感動は新任教師小谷先生のいじらしくも健気な奮闘ぶりによって倍加させられてるのでは、と素直に思ったのも事実だった。

『太陽の子』は『兎の眼』から四年後の一九七八年に発表された。
『太陽の子』の主人公は、小学六年生の大峯芙由子ことふうちゃんである。ふうちゃんの両親は神戸で“てだのふあ沖縄亭”という琉球の庶民料理の店を営んでいる。神戸といってもミナト町という下町で、新開地を海へ下ると突きあたりに川崎造船所がある。造船所の正門にいたるまでの界隈には、労働者相手の食堂や酒場が並ぶ。
 物語は沖縄亭に集まってくる人々を中心に進められる。沖縄亭にはその家族的な温かさにひかれて、さまざまな人が集まってくる。鋳物工場で灰をかぶってまっ黒になって働くギッチョンチョンと照吉くん、ハシケで荷物運びに忙しいギンちゃん、溶接工で片腕のないろくさん、クレーンで働くゴロちゃん・・・・・・と、みんな底辺労働者といってもよい人たちだ。そして、ギンちゃんを除くと、みんな沖縄の出身者だ。
 ふうちゃんの父さんは、半年前から変わってしまった。心の病にかかっているのだ。父さんを診た医者は、父さんに「自分のどこがおかしいと思う?なにが不安でなぜ考えこんでしまうのかね?」と聞く。そんな質問に答えられるものではない。医者に答えてほしいことだと、ふうちゃんは憤慨する。
 そんなある日、ギッチョンチョンが一人の少年を沖縄亭に連れてくる。生気がなくすさんだ顔つきのそのキヨシ少年は、ギッチョンチョンの部屋に泊めてもらうが、金を持ち出し消えていく。
 キヨシ少年が沖縄出身であることを知ったふうちゃんが「悲しいことはみんなオキナワからくる」という沖縄とは何なのかを知ろうとつとめることによって、物語は発展していく。
 オキナワとは、はたして何であったのか。それは、一つには、戦争によって象徴される、人間が人間を裁き、恥ずかしめ、いたぶり、殺してきた壮絶な歴史である。そして、もう一つは、自然と共存する人間の楽しさ、やさしさの世界である。ふうちゃんの父さんが、「海が学校や」と話してくれた子どものころのこと。どんな小さな生命に対しても畏敬の念を持って接し、自然と一体となって驚きと発見を繰り返す暮らし。
 前者を「暗」とすれば、後者は「明」となるだろう。灰谷健次郎は、この二つのオキナワを十一歳の少女ふうちゃんに突きつける。微塵も容赦しない鋭い剣の切っ先を、ふうちゃんは沖縄とは違う神戸の海で、そして昔ではない今の時代で、受け止めねばならない。
 ろくべえが落ちこんでしまったのは、まっ暗で深い有毒ガスがたまっているかもしれない〈穴〉である。それは『太陽の子』では、自然を破壊し、人間の内なる野性的なものを切り捨てたために、孤独で退屈な暮らしを強いられている現代人の状況そのものになっている。人間が人間の暮らしにとって便利なように科学を発展させ、やがてその発展させた科学のために暮らしの変更を強いられるとき、人間は気がつかないうちに自然との対話を忘れ、孤立化し、自分の身だけを守ろうとする。
 科学的合理的精神によってのみ、物事を判断するのに異和感を覚えなくなった人間たちは、目に見えないものを見る意志も願望も放棄しがちである。心の調和を失った人間は、傲慢とも思えるほど肩いからせて生きてはいるが、本当はどうしようもないほど寂しいのである。だから、彼らは形に現われるもっとも身近な欲望に身をゆだね、互いに傷つけ合いながら、自らを慰めようとするのである。
 灰谷健次郎は、こういう人間が落ちこんでしまった〈穴〉から、何によって、どのように、脱出しようとするのか。
 それをとく鍵は、やはり、子どもたちの存在の中にあるようである。
『太陽の子』は、一冊の本としてまとめられる前は「教育評論」という雑誌に連載されていた。そのときの題名は「てだのふあおきなわ亭」だった。「てだのふあ」のてだは太陽、あるいは神、ふあは子、つまり太陽の子という意味である。
 太陽の子ふうちゃんとはどんな子どもなのか。甘えん坊で、涙もろくて、意地っぱり。都合の悪いことはすぐ忘れてしまうくせに、興味あることだといつまでも覚えている。わがままで移り気な反面、ひとの真心に対して思いやりを示す。じっとしていることが苦手で、思ったことはすぐ行動に移す。独創性に富み、感受性が強く、ユーモアと遊びの精神にあふれ、正義感の強い感激屋である。――こんなふうに見ていくと、ふうちゃんは一般的な子ども像の比較的よい部分を代表しているようである。
 しかし、私たちがふうちゃんに魅力を感じるのは、大人にないものをふうちゃんが持っているからではない。大人にできないことをふうちゃんがしているからではない。そう思える面がないわけではないし、そんなふうにふうちゃんを見る読者も多いかもしれない。しかし、ふうちゃんに魅力を感じるのは、子どもらしさのせいではない。それは、利害や打算といった論理的思考が生み出した願望ではない。義理人情という人間として行うべき道を考えてのことではない。心の奥底から、絶えず人間に呼びかけてくる声に素直に耳を傾けているだけのことである。

 その夜、ふうちゃんはいつまでも眠れなかった。あちこち寝がえりをうった。/眠けを誘おうと努力するのだが、そうすればよけいギッチョンチョンの家で見た写真の中のさまざまな場面が浮かんでくるのだった。一枚一枚の写真がどういう場面で、なにを意味しているのか、もちろんギッチョンチョンに説明をもとめた。けれど、今、ふうちゃんの脳裏に浮かんでくるのは、写真の中のことがらではなく、写真の中の人びとの顔だった。

 これは、造船所のすぐ近くの簡易ビルの三階にあるギッチョンチョンの部屋で、自分から頼んで沖縄の戦争の写真集を見せてもらって帰った夜の場面である。ふうちゃんは、手榴弾で自決したという人々の写真を見た。そして、一面血の溜まりのような凄惨な死体の山を見ているうちに、肩をふるわせ、吐いてしまった。驚いたギッチョンチョンが、謝まりながら写真集をかたづけはじめると、ふうちゃんは激しくギッチョンチョンの手を止めるのだ。
 ふうちゃんは「あかん!」と強い調子で言って、自分に言い聞かせるように「見る。ちゃんと見る」と座りなおしたのだ。
「悲しいことはみんなオキナワからくる」。しかし、それは何故なのか。父さんやキヨシ少年が、そしてろくさんやギッチョンチョンやたくさんの人たちが、心の内に秘めている暗い影とは何なのか。
 その影の深淵をのぞくことは恐ろしいことである。自分を見失うほど不安なことである。しかし、そこを通りすぎなければ、人が生きていく意味をつかむことはできない。
 ふうちゃんは、大好きな父さんのために、あるいはキヨシ少年やろくさんのために、それを知りたいと思ったととれないこともない。しかし、それはその人たちをこえて、もっと大切なもっとかけがえのない自分自身のためでもある。それは、ふうちゃんの心の奥底から呼びかけてくる声である。つまり、今を生きる自分の意味を積極的に問おうとする姿勢である。ギッチョンチョンがいったように「ふうちゃんの眼は、なにもかも知ろうとしている眼」なのだ。
 ふうちゃんは、明と暗の二つのオキナワを見ることによって、人間存在の根源的な意味を考えていく。そして、二つのオキナワを、神戸という“自然”を奪われた海に、血の歴史を重ねて人間の原罪を背負わされた“今”という暗い時代に、積極的に重ね合わせることにより、傷つきながらも成長していく。避けることのできない人間の内なる“影”が自身にも巣食っていることを知りながら、それを乗り越えていく。
 絵本『ろくべえ まってろよ』で提出した子どもの持っている積極的な問いかけ、力強い想像力が、『太陽の子』ではふうちゃんを通して描かれている。
 目に見えるものが、目に見えないものによって成り立つことを理解することは大切である。しかし、もっと大切なのは、目に見えないものを目に見えるようにすくい上げ、捉えようとする意識であり、精神である。これが想像力といわれる働きである。
 心の奥底から湧き上がる、目には捉えられない感じる力を意識の世界に汲み上げて、形をつくり、組み立て、生命を与える。こうしてイマジネーション(想像力)を積極的に働かせることによって、私たちは外部の世界を内部に取りこむことができる。そうすることによって、心は豊かになり、広がる。
 ふうちゃんがどんなに酷しい現実を突きつけられても、絶望に負けてしまうことがないのは、ふうちゃんの心の奥底にある《呼びかける声》のせいである。人間の不条理、とりわけ自己の内に存在する暗い“影”に対して反射的に頭を下げることをしないのは、深層から呼びかける自然の声に耳を傾けることができるからである。ふうちゃんの中にある純な心は、沖縄の海にある自然のやさしさと同質のものなのだ。
 太陽(てだ)は、沖縄の海も、ふうちゃんの内なる海も、同時に照らしている。人生にとって「何が幸福か」は難しい問題だが、自らの内に〈海〉を感じるとき、人は一個の人間としての存在を確かめることができるのではなかろうか。自然な、素直な心によって内なる不条理を乗り越えていく。たくさんの“肝苦りさ”(ちむぐりさ)(胸の痛み)を呑み下すことによって、内なる海を広げていく。海はどんどん広がって、ギッチョンチョンやゴロちゃんやろくさんやキヨシ少年たちの海とつながる。互いの海が、そしてたくさんの海が、太陽に明るく照らされ、ひすい色やひわ色やるり色と、幾通りもの色に輝くのを見つめ合ったとき、人はそこに愛に似たいい知れぬ喜びを感じるだろう。
「みんなは、ひとつのことをおなじ心でよろこんでいる。それは、どんな時間よりもすばらしく豊かだった」という“てだのふあ・おきなわ亭”は、いわば人間たちみんなの〈海〉を象徴している。

  風はほとんどなかったのに、ふうちゃんが糸をたぐると、凧はあっというまに空に浮いた。糸を出すと、青い空にすいこまれるように、おもしろいようにあがっていくのだった。/ふうちゃんの手に、風の柔らかさとしなやかさが、じかに伝わってきた。/それは不思議な凧だった。少しも風に逆らわず、風を上手につかんでいた。いや、風をつかむというのではなく、凧が、風そのものだった。

 これは、焼きものに凝っている桐道さんという人がつくった凧を、ふうちゃんと父さんがあげている場面である。ふうちゃんの手の中にある凧は、いわば自然とふうちゃんをしっかりと結ぶ絆である。自然というのは、ふうちゃんの外側にある世界だけでなく、ふうちゃんの内側にもある。“風”つまり自然の柔らかさとしなやかさを感受することによって、人間はなにものにも換えられない喜びを得る。
 桐道さんのあげる凧は、自然との一体感を思う作者の願いでもあるのだろう。
『太陽の子』では、『兎の眼』と同様に〈穴〉に落ちこんでいるのは、現代を生きる我々自身であり、人間全体といってもよい。そういう意味では、この小説の主人公はふうちゃんではなく、子どもをも含めた読者そのものといえる。
 読者である我々をふかくて暗い〈穴〉の底から救い出してくれるのは、ふうちゃんの持っている内質である。『兎の眼』の鉄三や、子どもが一般的に持っている感受性や想像力や好奇心や物事に対する一途な探究心、冒険心といった生命力であり、“根っ子”である。
 別の言葉でいえば、それらはたくましい遊びの精神といってもいいかもしれない。かつて人類は黎明期から近代に至るまで、政治や祭事といった文化的現象のすべてを遊びの精神によって発展させてきた。遊びは、子ども時代にのみ固有の一時的な現象ではなく、人間存在にとって根源的な生の範疇に属するものである。現代は、不幸にも、政治もスポーツも科学も職業も芸術も、そしてレジャーといったものまで、遊びの精神を閉め出しているといっても過言ではないようだ。

 灰谷健次郎は、一九八三年六月に『はだしで走れ』、九月に『今日をけとばせ』を発表した。これは五百枚の長編小説「島物語」三部作の一部と二部である。
 この作品には、一九八〇年に淡路島に移り住んで土とともに生きることを実践してきた灰谷の熱い想いがこめられている。

  一つの生命は、他の無数の生命に支えられてあるという自明のことが忘れられた社会は、人間の感情喪失と祖国喪失を生む。(中略)あらゆる人間の行動が、競争原理と功利主義によって営まれた結果、わたしたちは自然との対話を失ったばかりか、生命の孤立化というまことに憂慮すべき事態をまねいてしまった。/物質によって武装された人間は創造性をなくし、優しさや楽天性というものを置き去りにする。(注2)

「島物語」は、自然との一対感を身をもって経験し、失いつつあった生命力を奪い返す一家の話である。

 さて、絵本『ろくべえ まってろよ』のろくべえの落ちこんだ〈穴〉を通して、長編小説『兎の眼』と『太陽の子』を駆け足で見てきた。しかしながら、ろくべえの〈穴〉の不思議な魅力、不安と恐怖の入り混じった臨場感の迫力に比べ、二つの作品の〈穴〉が、今ひとつ鮮明に深みをもって伝わってこないのは何ゆえだろうか。
 絵本と小説という表現方法の違い、とりわけ長編小説はストレートにリアルなテーマを追っているせいだろうか。
『兎の眼』における、小谷先生や足立先生、処理所の子どもたちに対して、教頭先生を筆頭に他の教師たち、父兄たちといった対比が図式的すぎるとか、『太陽の子』の“てだのふあ・おきなわ亭”に集まってくる人々がすべて作者の側(善)であるという一面性のゆえである、というのはやさしい。そして、これらのことと合わせて、ろくべえの落ちこんだ〈穴〉の底にたまっていたかもしれないという有毒ガスのにおいが、この二作品にはあまり感じられなかったと思えてならないのである。
 二作品の〈穴〉が鮮明に見えてこないのは、人間の外側にある悪についてはある程度描かれているのに、人間の内面に存在する悪(不条理)についての描写が弱いことが原因となっているように私には思われる。
「葛藤や愛、誕生に死、緊張や恐怖や懐疑について語ること、そして人をかりたてる好奇心などについて語ることさえもが、『子どもの文学』について、ある人々が養いそだててきたイメージに敵対すると思われる」といったのは、ローゼンハイム(注3)である。『兎の眼』や『太陽の子』は、主題として大人の作り出した都合のいい“通念”を打ち砕くことを含みながら、そういう通念が何故作られたのかという人間存在の真実への洞察がすこし弱いようだ。
 児童文学が、児童が読む文学であるからという理由ではなく、その表現方法の特徴の一つとして、人生の複雑さを単純化するという働きがあるのは自明の理である。しかし、単純化というものは、ローゼンハイムの指摘を待つまでもなく、人生の、そして人間の肯定的な部分にのみ焦点を当てることではない。子どもたちの読みたがっている本というのは、複雑な人生を「自分のものにする」ことのできる本であろう。親の論理や学校の教科書に書いているタテマエとおりにいかない人生の不条理について包み隠さず触れてある本であろう。
『太陽の子』には、悪の象徴であるエピソードは幾つもある。ふうちゃんの父さんの病いの原因を本人に問い正す医者、キヨシ少年をオキナワモンと差別する料亭のおかみ、キヨシ少年に乱暴する少年たち、キヨシ少年を追いつめ、ろくさんと争う警官――しかし、彼らは厚味のある人間としては描かれていないし、悪の本質を代表させるには至っていない。
 そもそも悪とは何なのか?それは人間にとって全く不必要なものなのか。ときには“悪”をも表現せざるを得ない、さまざまな矛盾したものを同時に内在させている人間の真実に対して、切り込む必要があるのではないか。
『太陽の子』は、オキナワを出すことによって、過ぎ去った悪、悪のもたらしたものを鮮烈に描いている。しかし、悪は形を変えて現在も存在しており、それは人間の内と外とに容易に見られるものである。
 悪はまた一面的な薄っぺらなものではなく、しばしば魅力的な装いをしている。それは子どもたちが、そして人間が「より幸せに、より安穏に」暮らしたいと思う意志の内側に、巧みにすべりこんでくる。
 悪は、時代時代の価値観につれて変質しやすいものである。社会という複数共同体が作り出す悪は、モラルとしての色彩が強いものが多い。本質的な悪というものは、人間に内在している可能性を縛り、破壊し、踏みにじる。大人が良識という武器をふり回して、モラルとしての悪に対決するとき、しばしば被害を受けるのは青少年である。
 例えば、キヨシ少年が非行に走るのは何故なのか?ぐれていく少年の中に心の荒廃や意志の弱さを見るのはやさしい。問題は、少年が身体をはってまで、何と対峙しているか、ということである。
 大人は、少年の暴力や粗野な振舞いに対して不安と恐怖を覚える。自分たちの安穏な暮らしを犯すものとして、少年の中に“悪”を見る。大人は社会という目に見えない価値観で少年を縛りつけようとする。
 しかし、少年が孤立し、傷つきながら対峙しているのは、大人が作り出した社会ではなく、少年の内にしっかりと存在している魅惑的な悪そのものである。悪は少年を踏みにじることもあるが、実は少年を動かして、全く新しい価値観を創造する力をも秘めているのである。
 悪との対決、内面の葛藤において、時として自由奔放な振舞いが大人にとって非行と映ることがあるかもしれない。しかし、極端にいえば、内在する悪との真剣な戦いが、社会が作り出したモラルをこっぱみじんにするほどのエネルギーを生み出すともいえる。非行は、しばしば人間の文化を発展させる原動力ともなっているのである。
 そういう意味で、キヨシ少年がぐれていたころの仲間にリンチされる場面の描写は、キヨシ少年をも含めて、チンピラ少年たちを非常に薄っぺらく安っぽいものにしているのは、残念である。
 悪とは一体何なのか――。このことを書くことにより、子どもたちの持つやさしさや、明るさがより大きく浮かび上がってくるのではなかろうか。
 子どもは、ふうちゃんと同じように、じっとしていることができない。次々と失敗を繰り返し、突拍子もないことをしでかしながら、成長し続ける動的な人間である。しかし、子どもは成長するにつれて、自分をとりまく世界が自分にとって都合のよいことばかりではないのを知るようになる。この世の中は矛盾だらけで、家庭や学校で教わった真理など、何の役にも立たないとさえ思うようになる。
 それでも子どもは回れ右などしない。心の深層から生命の炎が湧き上がるのを抑えることができない。子どもは今在る自分を乗り越えようとする。この世の中の矛盾や不合理に体当たりで、ぶつかっていこうとする。
 子どもの生は、自己中心そのものであり、かたくななまでに真剣であり、妥協を許さない。戦いは避けられない。社会や社会を支配し、構成している大人たちに対して、孤独な戦いが繰り広げられる。
 やがて、人との出会い、交わり、別れというものが、子どもの視線を、外側の世界と同時に、内側へも向かわせる。そうして、外なる世界と同じように、自分の内にも〈世界〉があることを発見する。そして、自分の世界にも、悪といってもいい不条理が存在することを知る。
 これは喜びと同時に苦悩の始まりでもある。もう一人の自己と遭遇した子どもは「自分とは何なのか?」という困難に満ちた、しかも避けることのできない闘争へと突入する。闘争は、いわば自分の中に〈人間〉を発見する道である。
 ふうちゃんの外なる悪と内なる悪――。その描き方は適切とは思えないが、トキちゃんという脇役の少女の内面を通して、その広がりを予想することはできる。トキちゃんというのは、ふうちゃんと同じクラスの少女で、ふうちゃんの父さんが家にやってきたとき、母さんが警察に電話するのを止めなかったことで苦しんでいる。トキちゃんは、自分を見つめることによって、担任の梶山先生にどれだけふうちゃんに嫉妬し、腹を立て、先生を憎んでいるかを告白する。
 トキちゃんを通して、人間の内なる不条理が描かれようとしている。このことを考慮しつつ、ふうちゃんにも、人間をとりまく目に見えない悪が、自己の内にも存在することを見つめ、その苦悩を勇気をもって外なる世界にぶっつけていく強さを持ってほしいと考えるのは、読み手の傲慢な願いだろうか。
 くり返すようだが、鉄三やふうちゃんの美しさは、無垢や純粋さや幼さにあるのではなく、ものごとをありのままに見つめていこうとする精神である。

 ともあれ、灰谷健次郎は、錯綜し、複雑にからまりあった現代という巨大な〈穴〉から抜け出す方法を、さまざまな作品群を通して、一貫して叫び続けている貴重な作家である。


注1 分析心理学者ユングに傾倒するイギリスの作家アラン・ガーナーが学校教育や家庭の親子関係が子どもの持っている“根っ子”を犯していくと主張した。その骨子は「海外作家インタビューシリーズ神話の沈黙のなかから」武田・菅原共訳『子どもの館』一九七三年九月号(福音館書店)収録
注2 「人と自然への対話」灰谷健次郎、『島へゆく』(理論社)収録
注3 「子どもの読書とおとなの評価」猪熊葉子訳『オンリー・コネクトT』(岩波書店)収録
※ 『ろくべえ まってろよ』文研出版『兎の眼』『太陽の子』『島物語』ともに理論社『わたしの出会った子どもたち』新潮社。
テキストファイル化山口雅子