ぱろる8号
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 五味太郎のこの本は奥付では便宜上(たぶん書店での扱いとか注文する時の混乱とかを整えるために)は大人問題』(偕成社 1997)と表記されているが、本来のタイトルは『大人は/が/の問題』である。この3種の助詞のニュアンスの違いは、五味自身が内容に則して書き分けているのではなくて、私たち読者が一つの文章から喚ぎ分けるべき3つのニュアンス、であると思える。
たとえば次のような文章。
<社会のために学ぶということと、個人が学ぶということを、明快に分けてとらえる必要があります。そこがゴチャゴチャになってしまっていると思います。>
ここに喚ぎわけるべき3つのニュアンス。私にとってこの本が大切なものであり続けているのは、引用した文章が正しいとか納得できるとかいうことではなく、まさに「大人は/が/の問題」としてどう考えられるか、つまり思考的論証のための問題/設問/命題として貴重だからである。考えること。考え抜くこと。考え続けること。そのとりあえずの決着点が先の文章の内容とのずれや齟齬をきたしても、いっこうにかまわないということ。
それはきわめて自然に五味太郎の絵本作品に重なっていく。彼の思考と絵本は(絵本的)ということばの内でぴたりと重なる。絵本的な思考と絵本的な絵本。彼は絵本的にものを吐き出す。それが五味太郎の質なのだ。絵本的ということばを私なりに強引に言いかえれば、プロセス、である。考えるプロセス、描くプロセス、仕上げるプロセス、買うプロセス、読むプロセス。それらを楽しむ器として絵本が最もふさわしく、最もしっくりくる。五味太郎はそういう質の作家なのである。
このように体質的/自覚的に絵本をつくり続ける作家がいる限り、絵本の可能性は閉じない。
たとえば、いとうひろしなにしてあそぽう・ちゃんとりん』(偕成社)。この124コマのコマ割り絵本のなんと絵本的なことか。ことばはセリフだけで成り立ち、そのセリフも、ひとり言や対話や情景描写など、さまざまな位相のことぱが混在し、かつそれが実にスムーズに流れていく。結果、不思議なふくらみのある絵本になっている。いとうひろしは、考えるプロセス、描くプロセス、仕上げるプロセスをとてもなだらかにつなぐ(ように見せる)センスを人一倍もっているゆえに、私たる読者はほとんど負荷なく読み、楽しみ、考えることができる。だから読後には、私の中にとても見通しのよい晴れやかなヴィジョンがあらわれる。小説とは違う、具体的な絵を伴ったヴィジョンがあらわれる。
内田麟太郎という絵本文章家はそのヴィジョンの実現のために(まのぬけた文章〉を書く。彼自身があるエッセイで言うように、
<自立してない絵と、自立してない文章。それがひとつになって絵本が自立する>。
彼はそれを果敢にくり返す。その最近の成果が『うそつきのつき』(荒井良二・絵/文渓堂)であり『なつはうみ』(村上康成・絵/偕成社)であり『へんてこ島うた』(高部晴市・絵/パロル舎)である。絵を意地悪く/ぼんやりと/切実に必要としている文章。どこまで行けるか楽しみだ。
そして荒井良二。絵本の中で歩く作家。目的地は/が/の決めていない絵本の中を歩き続ける作家。こういう作家たちがいるかぎり、絵本を読むのをやめられない。(小野明) 
ぱろる8号 1997/12/25

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