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4 さて、芝田勝茂のいくつかの代表作を迂回し、その「少数派」をめぐる思考の揺れを見てきたが、思えば、「少数派」について考えることは、とりもなおさず「多数派」について考えることでもある。となれば、「少数派」をめぐる思考の揺れは、一方で「多数派」についての思考をも深めさせずにはおかないだろう。ここでようやく、私は、芝田勝茂のもうひとつの「加筆訂正」、すなわち『夜の子どもたち』の書き変えについて、ひとつの指針を得て立ち戻れるように思える。つまり、『夜の子どもたち』の大幅な「加筆訂正」とは、まさにこの「多数派」をめぐる書き変えだったのではないだろうか、ということだ。 『夜の子どもたち』は、《全国でもまれな非行ゼロの教育都市》を標榜する八塚市の五人の子どもたちが、そろって登校拒否になったところから始まる。大学生でもあり民間の心理学研究所に所属する正夫は、カウンセラーの最終資格審査をかねて、五人の子どもたちーー中学生の明・千秋・道夫・真理子、そして高校生の光ーーのカウンセリングを行うべく八塚市を訪れる。そして、正夫の審査官のルミとともに、7月28日から、8月8日まで子どもたちと過ごす。物語は、その十日あまりの日々を一日一日克明に追いながら進んでいく。このような全体の構成は、八五年の初版と、九六年「加筆訂正」版とで基本的に変わってはいない。 では、より詳細に見ていった場合、具体的にどのような「加筆訂正」がなされているのか。 まず目につく書き変えは、人称の変化である。初版では、作品全体が正夫=《ぼく》の一人称で語られており、書き出しも《ぼく》が旅行のために用意しておいた貯金通帳をなくしたことから、急遽資格審査に向かうという設定になっている。《ない。預金通帳がない。机の引出しに入っていたはずの銀行の通帳が。どうしたんだろう。盗まれた? まさか。》という冒頭の正夫の独白も、作品がまず正夫中心の物語であることを印象づける。カウンセリングを始めてからも、《なんてざまだ。(中略)どうして、こううまくいかないのか》《ぼくのプランは成功するだろう》という具合に《ぼく》の自意識の揺れがしばしば挟まれる。それが「加筆訂正」版では、すべて三人称に書き変えられた。正夫の自意識のつぶやきも減り、印象としては、正夫中心の物語から、正夫、ルミも含めた子どもたちみんなの物語になったという感じを受ける。また、市の少年センターに泊まり込んでの正夫流のカウンセリングも、初版の《能動的カウンセリング》という呼び方から、「加筆訂正」版では《集団カウンセリング》という名称に書き変えられた。ここでも、正夫も含め子どもたち全体が、かたまりとして物語の 主人公であるという印象が強まっている。 とはいえ、その「子どもたち」がどういう存在として描かれているか、という点では、初版も「加筆訂正」版もそれほど違わない。子どもたちの登校拒否の背景には、夜に外に出てはいけないという八塚市特有の《夜間条例》を破ったという共通した経験があった。そのタブーを破ったことで、子どもたちは学校でも家でも他の人間が石に見えてしまうという恐怖を味わうことになる。正夫やルミはもともと市の外部の人間だが、子どもたちもまた条例を破ったことで、八塚市の中の異質の存在、いわば、八塚市の「少数派」になってしまっている。しかし、むろん「少数派」に徹するだけの意志はなく、それゆえカウンセリングにも参加して、学校へ戻ろうとする。その意味では、カウンセリングを手助けする正夫とルミともども、「子どもたち」とは、「多数派」と「少数派」の間で揺れている存在ということができるだろう。このような「子どもたち」のありようは、三人称に書き変えられたことで、正夫ひとりの見解ではなく、より客観的事実として明確になったといえる。 ついでにいえば、作品で子どもたちにかかわる重要な存在である《カレルピー》の描出についても、初版と「加筆訂正」版で、ほとんど変化がないことがわかる。カウンセリングの途中で正夫たちが知ることになる八塚市に伝わる不思議な存在《カレルピー》は、はじめ《化け物》《夜の大王》《戦争する時には必ず出てくる》《夜の衛兵たちが守っている》といったものとして、子どもたちの恐怖の対象だ。ところが、カウンセリングの一環としての夜のハイキングで正体不明の敵に追われたときに、《夜の衛兵》《埴輪の兵士》に助けられてから、《カレルピー》の存在はしだいに子どもたちに親しいものになっていく。 「あたしね、夜の散歩をしてると、カレルピーのことがすこしずつわかってきたような気がするの」 「いってみな」 「うまくいえないと思う……。ただ、カレルピーは、今、あたしたちを待ち受けている恐ろしいもののすべて、であると同時に」 みんな千秋を見つめた。 「もうひとつのカレルピーを、あたし、感じるの」 「もうひとつの?」 「そう。今、こうしているあたしたちを、じっと見つめ、抱きしめているカレルピーがいるような気がするの」(中略) ぼくはうなずいた。今までずっと、ぼくらの外で、遠い夜の彼方からやってきた魔物としてしか、カレルピーのことを考えていなかった。だが今、カレルピーは、ぼくらにとって、何かとても身近なものであるような気がした。(引用は初版から) そして、こうした認識を皆で共有したまさにその夜、子どもたちは、《二人のカレルピーが出会う》という大王神社の祭りに立ち会うことになる。その祭りで、神主の湯久老人が語り伝える次のようなカレルピーについての説明も、初版、「加筆訂正」版ともに書き変えはない。すなわち《悪しきカレルピーが夜を覆いつくそうとする時、善なるカレルピーもまた、その姿を顕す》《ひとつは悪しき者。そしてもう一つは、善なる者だ。》という、善悪両面を持つものとしてのカレルピー像である。しかも、そのカレルピーの一部、悪しき部分は、世の中へと抜け出して権力と結び付き、何かを企んでいるらしい、ということも、初版から変わらぬカレルピーの描かれ方である。《この八塚の夜より出でて、姿を隠したままに何かをやろうとする者がいる》。つまり、カレルピーもまた、子どもたち同様、異質な部分ーー《恐ろしい》けれど《抱きしめて》もくれる--をもつ「少数派」でありながら、「多数派」との間で揺れている存在として描かれ、それは初版も「加筆訂正」版も同じということだ。ただ、善悪という両面性とあいまって、カレルピーをより複雑な存在としていることを、確認しておきたい 。 では他に、初版と「加筆訂正」版で、より重要な書き変えはどこだろうか。私には、それは、八塚市を中心として国家規模ですすめられている《Kプラン》というものの描き方であるように思える。 八五年の初版では、《Kプラン》は、《ここ数年来、現政府が提唱している国家の総合再編成プラン》=《新開発計画》の略称として、最初の章からはっきりと明示されている。カウンセリングが進む一方で、《Kプラン》が《大づめに来ている》という新聞記事も出る。しかも、子どもたちは、夜のハイキングで、八塚市におしのびで来ていた《この国の最高権力者、内閣総理大臣》を目撃し、《Kプラン》が八塚市とかなり深いつながりを持って進行していることを感じていくことになる。そのとき見逃してはならないことは、《あの首相は本当に誰かにあやつられてるんじゃない?》《Kプランの最高責任者は、正体不明の人物だ》《その男のコードネーム》は《ーー灰猫、っていうんだよ》《Kプランの背後に、ある人物がいる、ような気がするの》《”灰猫”を動かしている影の人物》というような、《Kプラン》をめぐるさまざまな情報や推測がかもしだしているそのあやしさ(怪しさ・奇しさ)である。《Kプラン》は始めから、権力と結び付く「多数派」の代表として描かれているが、それがしだいにある不可視のあやしさをまとって迫ってくるということだ。そして、そのことを決定づける のは、《8月6日夜》にあたる26「足音」の章である。《Kプラン》をめぐる八塚市のさまざまな謎について、正夫や子どもたちそれぞれが知り得た情報を語り合う25「推理」の章に続き、この「足音」の章では、市立図書館のコンピューターで《Kプラン》について問い合わせてみたという明の体験が語られる。そして、体験談のあと、子どもたちは皆で宿泊している少年センターのコンピューター室へ行き、さらに《灰猫》のことを調べてみようとする。ところが、コンピューターの回答は《灰猫ハ、現在、八塚市少年センターニ在リ》。意外な回答に顔を見合わせたまさにその時、正夫たちは一階の部屋を歩き回り、立ち止まり、やがて再び玄関へと消えて行く《コツ、コツ、コツ……。》という正体不明の足音を聞いて、立ちすくむのである。この足音の正体は結局明かされることはない。ただ、《Kプラン》のまとっているあやしさは、この足音において決定的となる。 ところが、「加筆訂正」版の《Kプラン》には、こうしたあやしさは感じられない。まず、「加筆訂正」版において、《Kプラン》の存在が明かされるのは、物語も三分の二を過ぎたあたりである。物語の最初では、八塚市は、《国家の総合再編成プラン》=《Kプラン》ではなく、単に《地方自治体の総合再編成プラン》のモデル都市という設定になっているだけだ。それが、夜のハイキングの中でより大きな企みとの関係が見え出し、子どもたちを捕らえようとする敵の《Kプランを妨害しにきたゲリラ集団か?》という言葉によってはじめてその計画の存在が示唆されることになる。やがて、ひとりの記者によって、計画ははっきりと正夫たちに伝えられることになるが、それによると《Kプラン》とは、《地方自治体の総合再編成プラン》をも含み込んだ《もっと大規模な国家プロジェクト》であり、より明確に国家権力と結び付いた「多数派」のプランということが強調されてくる。また、そのプロジェクトの最高責任者が《灰猫》というコードネームを持つ正体不明の者だということは同じだが、そういう存在に首相があやつられている(初版18「眉山」の章の一部)、あるいはプランの背後に影 の人物がいる(初版24「未来心理学者」の章の一部)というような記述も「加筆訂正」版では削除されている。そして何より、26「足音」の章がまるまる削られ、明の図書館での体験談は前の章に組み込まれるとともに、あやしい足音が聞こえるという場面はすべて削除されている。つまり、「加筆訂正」版の《Kプラン》は、不明な点はあるものの、主体が国家にあるということはより明確になり、初版のように背後にあやしい力が隠されているような印象はなくなっているのである。 「多数派」が、そもそもあやしい力をまとっているか、いないか。一見些細な違いのようだが、私には重要に思える。というのも、この違いは、《二人のカレルピーが出会う》といわれる8月8日の夜、作品のクライマックスの場面で、結局子どもたちが何と戦うのか、何を守るために戦うのか、という物語全体の方向性を微妙に変えていくからである。 8月8日夜、《Kプラン》とつながっているらしい《カレルピー》の一部は、より強大になるためにもうひとりの《カレルピー》といっしょになろうとして、正夫とルミと子どもたちの前に現れる。子どもたちは《Kプラン》とつながっている方の《カレルピー》を便宜的に《灰猫》と名付ける。そして、その《灰猫》と《カレルピー》との葛藤が、子どもたちの内面の葛藤にも重ねられていく。ここまでは、初版も「加筆訂正」版も同じだ。問題はその先である。 暗い玄室に閉じ込められ、《灰猫》からもうひとりの《カレルピー》を探せと言われた子どもたちは、パニック状態の中で、それまで最も年少でしかも失語状態のためにとりわけ特異な存在であった真理子という少女の異変に気づく。真理子は、ひとり玄室の床にぽっかりと空いている《夜に通じ》る深い穴の中に入っていこうとする。初版では、その真理子の姿が《真理子の心の中で》《二人の真理子が戦っている》という言葉で記されている。そして、正夫や他の子どもたちも真理子を救おうとして、その真理子の心の中の戦いーーそれはじつは子どもたちひとりひとりにも共通する戦いでもあるのだがーーに参加していく。そこで、真理子や子どもたちの心に迫ってくるのは《暗黒の中の暗黒》とでもいうべき《邪悪な想念にも似た、どす黒い影》だ。対して、正夫や子どもたちは《おたがいに信じて》ーーその信じる気持ちを武器にして、その黒い影に立ち向かう。そして、両者の長い睨み合いの末に、ようやくその黒い影は去って行くのだ。この戦いの後に、正夫たちは思う。《カレルピーとは、ぼくらのことです。ここにいる全員がカレルピーだった》、そして《灰猫も、あたしたちの心の中にい たのよ》と。こうした初版の記述から見えてくることは、この戦いが、《灰猫》と《カレルピー》の戦い、すなわち邪悪なものと善なるものとの戦いであるということ、それは真理子はじめ子どもたちの内面の善と悪との戦いでもあったということだろう。そして結局、お互いを信じる気持ち、善なる気持ちが邪悪なものにのみこまれることなく、子どもたちを救ったということではないだろうか。一方《灰猫》の方は、善なる部分をのみこんでしまうことができないまま、玄室から再びどこか外へ出て行くのである。 こうした展開を《Kプラン》の側から見てみると、そもそも《Kプラン》の背後にあやしい力をまつわらせていた初版の場合、そのあやしい力=《灰猫》=《カレルピー》の一部は、結局子どもたちの善なる部分=もうひとりの《カレルピー》をのみこんでしまうことができずに、また《Kプランノ現場ニ戻ル》ことになる。あやしい力はそのまま保持されて、《Kプラン》が続けられていく。それが、まさに初版の結末である遊園地のあやしさにつながっていくわけだ。初版の結末では、玄室での戦いから明けた8月8日の朝、八塚市に《スーパーランド》という大規模な遊園地が突如完成する。それが《Kプラン》の完成だったという意外な事実が正夫たちの前に明らかになる。しかし、一見楽しそうな遊園地の風景に、子どもたちは何か異様なものを感じる。 --風景に、一瞬、フィルターがかかったようだったぼくら以外の、まわりの人たちが……それまで楽しげに家族どうしで語らい食事をし、歩いていた人々が急に、その生気を失ってしまった。 にぎやかだった声が途絶えた。そして……人々が、その顔が、急に、石のように、表情をなくしてしまったのだ! 「多数派」の方には、まだ人々の顔を石に変えるあやしい力が残っている。初版において《Kプラン》という「多数派」権力は、最後まであやしい力をまとった脅威なのだ。もちろん、玄室での戦いに勝った正夫たちにも、より強くお互いを信じ合う気持ち、善なる気持ちが確かめられている。その善の部分が子どもたちの武器だ。しかし、「多数派」があやしい力をまとっていることは、どこまでも変わらないのである。 では、一方《Kプラン》からあやしい力を削除した「加筆訂正」版では、子どもたちは、何とどのように戦ったのか。玄室の中で、真理子が《夜に通じて》いる深い穴の中に入っていこうとするところまでは、初版と変わらない。ところが、その真理子の姿が初版で《二人の真理子が戦っている》という言葉で記されていたのに対し、「加筆訂正」版では《真理子が、灰猫と》《戦っているのよ》と書き変えられている。ここからは、子どもたちのなかでもとりわけ異質で「少数」性をまとっていた少女と、《Kプラン》とのつながりをもつ《灰猫》との戦い、すなわち「少数派」と「多数派」との戦いといった構造がよりはっきりと見えてはこないだろうか。すでに述べたように、登校拒否になった子どもたちはもともと「少数派」と「多数派」の間で揺れている存在であった。そこに《灰猫》はつけこんでくる。そう読むと、「加筆訂正」版での子どもたちの戦い、《暗黒の中の暗黒》を押し返す戦いは、「少数派」がその「少数」性を「多数派」に売り渡すまいとした戦いであったように思える。 単なる善と悪の戦いではない。子どもたちは、お互いを信じるという善なる部分(美質)も、八塚の夜に何かを感じ取って異端な者になるという部分(異質)も合わせ持っている。「加筆訂正」版には《灰猫》が《フタツノモノガヒトツニナッテ、ヨリ大キナ力トナルタメニ》もうひとりの《カレルピー》を求めるという記述も書き加えられている。このもうひとりの《カレルピー》もまた、すでに見たように、《恐ろしい》異質なものでありながら、《抱きしめて》もくれるような美質をも持つ存在だった。「多数派」は、そうした「少数派」の美質も異質もとりこんでより強大になろうとしていたのではないだろうか。 続く暗闇の中での、子どもたちと《黒い影》との戦いの描写、そして、その《影》をお互いを信じ合う心でもって押し戻すという展開は、「加筆訂正」版でもそのまま生かされている。ただし、「加筆訂正」版では、戦いの後の《ここにいる全員が、八人が、カレルピーだった》という正夫の言葉の後に、《いや。正確にはここにいる全員がカレルピーになった、なれたということじゃよ》という言葉が添えられている。これこそ、「少数派」と「多数派」との間で揺れていた子どもたちが、はっきりと「少数派」としての自らを意識した言葉といえる。初版の《灰猫も、あたしたちの心の中にいたのよ》という部分も、「加筆訂正」版では《……灰猫は、わたしたちの中のカレルピーを探そうとしていた》《あたしたちみんなで真理子を突き落とすところだった。もしそうしていたら、灰猫とカレルピーは合体して、……その先はどうなっていたかわからない》《灰猫は、目的を果たせなかったわけだ……つまり、もうひとりのカレルピーといっしょになることができなかったわけだから……》とよりくわしく書き直されている。これらの加筆からも、「多数派」が「少数派」の異質と美質とを求めたこと、 対して、子どもたちは自分たちの「少数」性を「多数派」に売り渡さなかったことが、読み取れる。《Kプラン》の側から見れば、そもそもあやしい力を持ち合わせていなかった「加筆訂正」版のそれは、結局「少数性」のもつ美質も異質も得ることはできずに、そのままむなしく外へ帰っていったということになる。そして、それが、あからさまなファシズムを感じさせる結末へとつながっていくのである。 「加筆訂正」版の結末では、初版にあったようなあやしい遊園地《スーパーランド》のエピソードは一切削除されて、8月8日の様子は大きく書き直された。「加筆訂正」において最も注目された書き変えであるが、そこでは、突然政府から発表された《新五カ年計画》なるものが、新聞やテレビなどを通して、正夫たちの前に明らかにされている。記者会見の席で首相が語るその《新五カ年計画》とは、はっきりと《核武装も辞さず!》《名実ともに『アジアの盟主』として尊敬に値する国家になるための一大計画》《徴兵制度の復活》ということを掲げ、権力意識をむきだしにする。首相の姿も《これまでは怪物だったが、とうとう悪の帝王になっちまった》とあからさまな権力者イメージで描かれる。「少数派」の異質も美質もとりこめなかった《Kプラン》は、結末に至ってますます「多数派」の権力志向をあからさまにし、それはどこか幼稚で滑稽にさえ見えてくる。しかし、真のこわさは、その稚拙なファシズムさえ止められないということ、気づいているのに何もできないということなのではないだろうか。だからこそ、物語は、このあからさまな「多数派」に対し、正夫や子どもたちひとりひ とりが、自分に、今、できることを具体的に確認して終わるかたちになってもいる。《何かが始まっている。そのことを知らない人たちがいる。知っているぼくらがいる。ぼくらはそれに立ち向かうだけ》。子どもたちの武器は、単に善なる部分のみではない。美質であり異質でもある存在意義を自覚すること。「多数派」に、「少数派」の価値を売り渡さないこと。「加筆訂正」版では、善悪を超えて「少数派」であることそのものが、あからさまなファシズムに向かう大きな武器になっているのである。 では、このような結末を打ち出した「加筆訂正」版を、初版からの前進と読むべきなのだろうか。私は、そうは思わない。問題は、単にどちらの描き方がよりいいか、ということではないだろう。この二つの『夜の子どもたち』の存在は、私に、ファンタジーが内面に深く入り込んで善悪二元論を見極めようとした時代ーーその代表的作品はル=グウィンの『ゲド戦記 第一部 影との戦い』の翻訳(清水真砂子訳 岩波書店 七六)だったように思われるが--から、より外へ、社会へ目が向けられていく、その道筋を思わせる。芝田勝茂は、その展開を、善悪を超えた子どもの「少数」性というコンセプトで生きてきた作家だということだ。そうして、「多数派」によって転がされていく社会に抵抗する術を、模索してきた作家だということなのだ。 しかしまた、現代は一方向にのみ流れているのでもない。ひとの内面を深く見極めることは、現在も意味を失ってはいないし、もし時代のそうした側面に強く触れたなら、芝田はまた、正夫の一人称で『夜の子どもたち』を書き直すかもしれないのだ。 予想は不可能だ。これからどこへ向かってほしいかなどという予定的観測もありえない。繰り返すが、私にとりあえず可能なことは、「少数派」としての子どもたちに、書き手とともに同行すること、そして、その存在価値を「多数派」権力と見間違えないことだけである。 言うまでもなく、私もまた、芝田と同じ、多様な現代に立っているひとり、そしてまた、その多様さを損なう力も働いている、この同じ時代に立っているひとりだからである。 |
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