太陽のしっぽ(前)

 「文明の制約を受けない白紙のままの、今まさに人間になろうとしているその存在は、ユーザーを惹きつける大きな要素」であるとは、プレスシートの一文。「ユーザー」なんて言葉がなければ、私たちはこの一文をゲームではなく子どもに関するものやと誤解しかねないでしょう。白紙(タブララサ)であり無垢であるという、近代が生み出した子どものイメージ。けどゲームの主人公は「原始人」。
 大人にとっての子ども、文明にとっての自然、そして現代にとっての原始。社会を統率し支配している(と思い込んでいる)側が疲れたとき、元々自分たちの力を際立たせるために正反対の極に置いたものに、救いを求めるのはよくあること。そうそう男にとっての女もね(現にこのソフトのターゲットユーザーは男性となっています)。
 つまり、現代文明社会の大人の男にとって、自然、原始、そして女子どもは同じものやとも言えます。そうしたものに触れることで、「プレイヤーは本来の自分を振り返る機会を持」ち、『社会的常識』という言葉のもとに抑圧されている人間性の解放を体験でき」るというわけ。
 この極めて現代的な欲望、原始に触れたいというそれを満たす道具が、TVゲームなのもまた、現代的風景やね。モニターの中、ポリゴンで描かれた原始人をコントローラーで操りながら、「精神の浄化を追い求めていく」ってのは。

1996/06/05


太陽のしっぽ(後)

 前のめりに倒れ、死んだかのようにグッスリ眠り、目覚まし時計を合わせるなんてことはせず、起きたときに起きるという、至福の睡眠。
 そんな体験を近ごろなさったことがおありか?
 このゲームの主人公(原始人)はそれをやってくれます。
 プレーヤーは彼を動かし、落ちている食べ物を片端から食べさせます。それによって、頭がよくなったり足腰が丈夫になったりする。うろうろすると色んな野生動物と出会い狩猟し獲物を村へ持ち帰る。
 けど、約三分動かすと、突然何も前触れもなく、主人公は前のめりに倒れて眠りこける。そうなるとプレイヤーがコントローラーのどのボタンを押そうと起きない。私たちは何も出来ず、ただただ約一分半、彼の熟睡を見つめるばかり。
 不思議なことに、これがあきない。ごっつう心地ええ。
 それは、ゲームをプレイしながら、プレイヤー役割を降りる快感。日常でも私たちは何かの役割を演じているけれど、これを降りることはなかなか難しい。降りるときは、その役割を演ずることによって所属できている社会からも降りなければならないから。でも、このゲームでは、ゲームから降りずにプレイヤーを降りるという不可思議な体験をすることができる。このノリは、注目です。
 そうそう、原始人が拾う食料が鶴屋吉信の和菓子やって所からして、このゲームのズレ具合のすごさが分かりまんな。

1996/06/12

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