わたしにはパパだっているもんね

クリスティーネ・ネストリンガー
松沢あさか訳 さえら書房 1995

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 題名の「わたしにはパパだっているもんね」で察しがつくように、父親と娘がくっつく物語である。「わたし」ことフェリは十一歳のウィーンの女の子。両親は離婚していて、フェリは母親と暮しているが、父親とも自由に行き来している。この関係がくずれるのは、新聞記者の母親が雑誌ライターになりたくて、一カ月一人でミュンヘンへ行くことにしたときである。大嫌いなおばさんの家にあずけられたフェリは一週間で逃げだして父親に助けを求める。見かねた父親は母親が帰るまで二週間、フェリを引きとることにする。慣れない父娘の生活に戸惑いながらも、フェリと父親は固い絆を作りあげる。「わたしにはパパだっているもんね」が「わたしはずっとパパと暮らすもんね」になるのである。
 ウィーンの人気作家ネストリンガーの作品にもれず大いに笑わせてくれるが、本書の魅力は本音が見える様々な人間関係にある。まずフェリと母親。フェリは人に何かを強制されるのは大嫌いだが、母親に対してはつい遠慮してしまう。ミュンヘン行きのときも、「ママがその気になっているものを、あきらめさせて、いつまでもそれをわたしのせいにされるんではやりきれない」と思う。
 後ろめたさを感じながらも自分の考えを通してしまうキャリアウーマンの母親も、専業主婦の実の姉アネミおばさんには頭があがらない。フェリをあずけに行ったとき、フェリに挨拶させなかったことをしつけがなっていないと責められて、すっかりしょげかえる。別れるときには、あまりの哀れさに、慰められるはずのフェリの方が発破をかけるほどである。
 フェリと父親の関係が中心になることは言うまでもない。アネミおばさんにあずけられるのがいやで、頼みはパパと父親を訪ねたフェリは失望を味わされる。それまで娘の優しさにつけこんでけしからんと怒っていた父親が、自分の家に来たいと聞いたとたん「あんぐりと口をあけ」、「アネミおばさんだってそれほど嫌ったものじゃない」と言ってのけたのだ。 おばさんの家をとびだした後、父親と暮らし始めてフェリは、父親が「かなりやっかいな男」だったことに気づく。何ごとにもおおざっぱな母親とは違い、父親は病的なほどの潔癖症で、フェリは部屋の整頓に気をつかうことになる。フェリも負けてはいない。夏休みに父親が計画していた恋人との旅行がだめになると、内心ほっとしたのをおくびにも出さず、ちゃっかりと、自分の誕生パーティーを開くことを父親に約束させてしまう。
 また、だまされているのを知りながらボーイフレンドをあきらめきれないフェリの恋心や、お馴染みの権威に対する反発としてフェリの担任と父親の大喧嘩も描かれている。 愉快に読ませながらも最後、ミュンヘンの恋人との結婚をやめ仕事も捨てて帰ってきた母親に、フェリが、ママを愛してはいるけれどもう変化はいや、パパと暮らしたい、と泣きながら訴える場面はさすがに切ない。(森恵子)
図書新聞1995年9月16日