5.<家>と現代

 ここで<家>の問題に触れておく必要がある。漂流・冒険の物語はある定点としての<家>から分離した主人公が成長して定点である<家>に帰るという分離と帰還の物語である。<家>は個人がそこから分離していくことにも再び帰ってきた個人を受け入れることにも耐えうる磐石なものであったし、また個人が<家>を離れて経験しうる変化も、<家>を揺るがすほどの大きな価値的差異のあるものではなかった。
 しかし<家>そのものが変質しだしてすでに久しい。『二年間の休暇』が描かれた19世紀の終わりには定点としての役割を果たしていた<家>がそうではなくなってきている。<家>に属するおとなは絶対的な規範を体現する動かざるものであったはずだが、その絶対性は揺らいでいる。また個人が選択しうる価値はますます多様になってきている。
 長年定点に「さらば」する物語を描いてきた上野瞭も、『砂の上のロビンソン』(1987)では、<家>そのものの漂流を描かざるをえなくなり、そこにおいて<家>は解体に向かっていく。
 その20年ほど前に描かれた『わたしたちの島で』ではあるが、作者が家族を初めて取り上げ、しかもその場として休暇を選んだのは、こうした<家>の変質を背景としているのではないかと思われる。リンドグレーンがそれまでに描いてきた生活物語に親が子どもとの対比としてしか登場しないのは、親がある程度完成した不変の存在であったからであろう。そこに存在する<家>は子どもが様々な実験を繰り返すことのできる豊かな遊び場を含み、様々な年齢のおとながいて、相互に支えあっている共同体であった。だが『わたしたちの島で』執筆当時は、<家>が変質しつつあり、完成したもの動かざるものであった親をも未完成の存在として含め、家族全体を描く必要を感じたのであろう。仲むつまじいメルケルソン一家も時代の子のひとりとして解体の可能性をもつ。個人の成長は家族からの分離の実験を通じてなされる。だがその実験の結果家族が解体する危険性を現代の家族はもっている。個人の成長と家族の維持という相矛盾する二つの命題を同時に進行させていくために作者は、空っぽの<家>を都会に残し、メルケルソン一家を家族全員で休暇に出かけさせるという方法をとったのではな いか。メルケルソン一家は休暇の間に、父親も含めて個々人の変化を経験し、同時にそれを包含しうる新しい<住まい>の獲得を進めた。都会に残した<家>だけでは支えきれない個人の変化・成長を「海のかなたの住まい」がともに支える。そのことによりメルケルソン一家は解体を免れるのである。
 『砂の上のロビンソン』の家族が解体したのに対し、『わたしたちの島で』の家族は脆弱ではあってもあくまで家族のつながりは保たれている。他のリンドグレーンの生活物語のなかにも家族崩壊を描く作品は見られない。そのことから、児童文学は子どもに生を肯定させる希望的な環境のもとに描かれるべきであるという彼女の児童文学観がうかがえる。いまのところ著作の最後の2作である『はるかな国の兄弟』『山賊のむすめ ローニャ』はいずれも現実の世界でなくファンタジーの世界を描いている。家族を含めた現実の子ども世界がリンドグレーンの目から見て物語を展開しうるものではないのであろうし、いまや<休暇>という限界設定をもってしても希望的な物語は現実世界を舞台にしては難しいということであろう。その意味では、リンドグレーンの作品はすでにおとぎ話化しているといえるかもしれない。おとぎ話としての普遍的価値はあるが、いまの世界においてそれを紡ぎ直すこと、すなわちいまの現実の子どもの生活を舞台にそれを再構成することはたいへんな難しい。しかし子どもは存在し続け、子どもの現実もいま、ここにあるのである。それでは今日、そして今後の児童文学の 可能性はどうなのか。
 いま<家>が定点でなくなり、家族のつながりが解体しつつあることを積極的に認め、新しい家族像を求めて冒険することを描いた作品のひとつが、大島弓子の『毎日が夏休み』(1989)である。この物語は「うちはスクラップ家族です」という娘の言葉で始まる。娘の母と父は再婚同士であり、娘は父とは血縁がない。娘は登校拒否、義父は登社拒否状態になり、行く先は揃って家であった。そして家を拠点に娘と義父は手に手をとって、便利屋を始める。彼らにとって家が冒険の島であり、「毎日が夏休み」なのである。便利屋という仕事は、つまるところ救済事業という意味をもっていた。娘と義父にとっては彼ら自身を救う仕事であり、夫と娘の逸脱行動にショックを受けていた母を救う仕事でもあった。『わたしたちの島で』では<家>そのものはいじらず、「海のかなたの住まい」によって<家>の足りない部分を補っていくことが解決策として見いだされたが、『毎日が夏休み』では<住まい>作りを行いながら<家>を再構成することが試みられているといえよう。
 時代が子どもを黄金期から鉄くずの時代へ早く押し出してしまう。そのスクラップ化した現実を子どもがよけて通れないなら、そのスクラップを再構成することに冒険的な意味を見い出していこうという大島弓子の提言は、児童文学にも寄与するところが大きいはずである。子どもが存在する限り、児童文学は存在するはずである。今の現実の中で、再び<子どもが誕生する>ことが求められる。それがこれからの児童文学のやるべき仕事であろう。この世に生まれた子どもが、何の保証もないのに、生き続けるには、絶対的な生への肯定感ーエリクソンのいう、基本的信頼感ーがなければ、それはきわめて困難になる。子どもの文学はそうした肯定感に支えられてあるべきである。


文中で取り上げた作品 外国作品の場合は()内は、原著の発表年
A.リンドグレーン『わたしたちの島で』(1964年)尾崎 義訳、岩波書店、
 1970年
A.リンドグレーン『やかまし村の子どもたち』(1947年)、『やかまし村の春 ・夏・秋・冬』(1949年)、『やかまし村はいつもにぎやか』(1952年)、 大塚勇三訳、岩波書店、1965年
A.リンドグレーン『名探偵カッレくん』(1946年)、『カッレくんの冒険』  (1951年)、『カッレくんとスパイ団』(1953年)、 尾崎義訳、岩波書 店、1965年
ジュール・ベルヌ『二年間の休暇』(1888年)朝倉 剛訳、福音館書店、196 8年
アーサー・ランサム『ツバメ号とアマゾン号』(1930年)岩田欣三・神宮輝夫訳、 岩波書店、1967年
大島弓子『雨の音が聞こえる』1972年(『大島弓子短編集1』所収、小学館、1 988年)
大島弓子『毎日が夏休み』1990年、角川書店
上野瞭『砂の上のロビンソン』新潮社、1987年

引用文献
Kast,V., Familien-konflikte im Marchen, Walter-Verlag, 1986
河合隼雄『大人になることのむずかしさ』岩波書店、1983年
小倉 清「こころの世界「私」はだれ?」、1984年、彩古書房
神宮輝夫『児童文学の中の子ども』日本放送出版会、1974年

注1 Kast(1986)によりば主体水準の解釈とは、「いかなる登場人物も夢見者の性格特性として、メルヘンの中であれば主人公の性格特性として、理解される。たとえばメルヘンの中で女主人公が魔女に出会ったとしたら、それは女主人公自身の魔女的な特性と出会ったことになるわけだ」と説明される。

(受理日1994年9月30日)


On "holiday" and "dwelling" in "At Our Island" written by A.
Lindgren

Mari AOKI

I discuss the story, "At our island" written by Astrid Lindgren,a swedish author, from 2 points of view,"holiday" and "dwelling"."At Our Island" is a story in which the family spend holidays atan island. In adventurous stories, "holiday" has a function to separate a person from his or her own home and compel him or herto grow as an individual. After the holiday the person goes backhome as a new one. But home has changed and now it is never be afirm and settled place which can endure to let its member go and accept the newly changed person again. However no one can neverprevent a person from getting separated and growing.So the storymakes an attempt to solve the contradictory problems at a time, to let the family members grow and to maintain the family. In
the story the holidays the family spend together bring change
and growth to each member and it also brings a crisis to the
family. But at the same time the family continues to seek for
its new dwelling which can contain the changed members and it
prevents the family from breaking up.

鳴門教育大学研究紀要(教育科学編)第10巻 1995

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