夜の子どもたち

芝田勝茂・作 小林敏也・絵
1985年9月、福音館書店(絶版)
1996年7月、パロル舎(改訂版)

           
         
         
         
         
         
         
    
◆<夜>の多様性
 <夜>は多様なものを含んだイメージだ。それは、光の対極の闇、陰陽の影には違いないが、ちょっと違う。夜はさまざまなものを孕んで黒々と横たわる。<闇>もけっして善悪二元の悪のメタファーのみでなく、濃密な生命の闇のように両義性を持つ奥深い存在だが、さらにメタファーとしての<夜>は多義性を帯びている。
 『夜の子どもたち』の<夜>もそうした夜だ。それは八塚市という小都市を舞台にひそかに進行する、恐ろしい国家規模の軍事プランを隠蔽する闇であり、さらに古い土地の魔法のようなカレルピーという存在がつかさどる夜であり、また子どもたちと若いカウンセラー、正夫とルミの、ひとりひとりの心の暗がりとして、また、みんなにとって故郷のような懐かしさとかぐわしさを持った実存としての夜でもある。<夜>の多義性をフルに生かした物語といってもよい。だが、このメタファーとしての夜の多義性に、作者はやや翻弄されたかにも見える。なぜそう言うのかは後回しにして、この八〇年代前半の時点で、核廃棄物を利用したミサイル基地を秘密裡にこの八塚市に作り、心理学の軍事利用を進め、コンピューターにすべての住民情報を入力しているファシズム国家といったものを<夜>の中に設定し、人びとや子どもたちが「石の顔」になるという恐ろしさを描いた作者の感性は、並大抵のものではない。当初はいささかドン・キホーテ的と見えた設定が、現在ではより切実な迫力を帯びている。
 作者は一九九六年の新版で、全体を大幅に加筆訂正し、より現在にフィットした形に整えるとともに、ラストを変更しているが、それについては後段で触れる。

◆他人が「石」になる恐怖
 臨床心理学専攻の学生、森山正夫が八塚市を訪れたのは、市の教育委員会の糸遊という人物から、市に「発生」した五人の登校拒否児童に集団カウンセリングを依頼され、それが大学の資格予備審査を兼ねることになったからだ。正夫は、すでに現地に赴いていた先輩カウンセラーのルミとともに、「夜間外出禁止令」がある八塚市で、五人の子どもたちに出会う。高校生の少女光のほかは皆中学生。明、千秋、道夫、そして発語しなくなっている真理子。かれらに共通しているのは、クラスの友達や家族が、一瞬「石」になってしまうという体験だ。そして誰もが、禁じられた<夜>の中へ出た経験を持つ。ここの展開はスリリングで、深い共感を持つ若い読者も多いだろう。たしかに、子どもの実感は、「大人への不信」とか「疎外」といった言葉で表せるものではない。 他人が一瞬「石」になる、これほど的確な恐怖の表現はないと思う。 子どもたちはその後、ルミや正夫とともに敢然と八塚市の夜の中に謎を解きに出かけていくが、そこでの<夜の衛兵>たちとの遭遇には、あまりリアリティーと恐怖が感じられず、むしろゲーム的な感覚で語られ
ている。やはり他者が「石」になる恐怖のほうが、作中の子どもたちにも読者にも大きいのだと思う。また、カウンセラーとしての正夫が、ルミの影響もあって、子どもたちを分析し教導するという今までの大人としての立場を反省し、「子どもたちの一人」となるという隠れたテーマも、作者の子どもへのスタンスをよく示していて、これ以後の作品にも見られる子どもへの信頼の豊かさを感じさせる。

◆心の中の夜、心の外の夜
 以前に私はこの作品について、「意欲的な試みではあるが、人間の心の中の闇と、外的な悪である闇とを混同し、それらをいっしょに解決しようとしたところに無理があった」(一九八六年『ファンタジー・レポートV』より)と述べた。
 今でもこの感想は変わらない。この八塚の夜の謎はなかなか重層的だ。昔からの夜が乱されないよう守る司祭の湯久老人が語るように、二つのカレルピーという名で示される、いわば悪なる夜と善なる夜のせめぎあいがあり、子どもたちがそれに参画するというのが物語のクライマックスでもあるが、眉山の奥の古墳の玄室のようなところに、世界の夜に通じる入り口の深淵がある。しかし、闇の中の闇ともいうべきその部分はまた、真理子という少女の心の中でもあったのだ。子どもたちや正夫、ルミがその中に入りこみ、「ひとつの心の中にいる」と感じ、闇の中の巨大なものを直視する勇気を得る場面は感動的だが、一方、人間の心の中の闇がすべての淵源であるかのような印象を強く読者に与える。
 一方、「灰猫」と呼ばれる、もう一つのカレルピーは、ふたたび国家的な悪である「Kプラン」に合体していくのだろう。おそらく、一瞬、真理子を「灰猫」、つまり外的な闇の張本人だと決めつけてしまった子どもたちが、心の中で真理子の真の姿に出会うことがこの物語の中心だろう。そしてその出会いが外的な闇に立ち向かっていく何よりの力となる、というメッセージも痛いほどわかる。しかし、カレルピーが二重性を持つように、ここでの闇は内と外が混然としている。心の中の夜と、外の夜が混じり合っている。メタファーとしての闇が今ひとつ掴みがたいのは、作者がやはり<夜>の多義性にやや惑わされているからではないか。
 初版は正夫の一人称の語りだったのが改められ、また、マインドコントロール、カルト集団といった言葉を挿入することで、より現在に近い作品に仕上げている。最も大きな改変はラストであり、初版では翌朝、核ミサイルの基地だったはずの眉山の後ろに巨大なレジャーランドが出現する。しかし、それは人びとを再び「石」、つまりロボット化する。そうしたやや不自然な遊園地出現が新版では削られ、首相は国家再開発のため核武装も辞さないと述べ、徴兵制すら敷かれそうな気配であり、TVに八塚市の子どもたちが行進する石のような顔が映る。更なる夜…しかし、他ならないその夜から力を得た子どもたちに、作者は未来を託しているのだ。小林敏也の装画が作品世界のイメージを広げている。(きど のりこ)

児童文学の魅力・日本編(ぶんけい)p.206-207
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