ヤンネ、ぼくのともだち

ペーテル・ポール作

ただの ただお訳 徳間書店 1997


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 昨年(1997)の夏に完結篇が上映され、今春にリバイバルされている『新世紀エヴァンゲリオン』は、次のことをわれわれに示している。すなわち、物語は語り尽くされてはならない、ということを。このことは、あるいは『エヴァ』をめぐる一連の謎解き本を考えた方が分かりやすいかも知れない。謎解き本は決して『エヴァ』の「謎」そのものを明らかにはしなかったし、明らかにしてはならなかったからだ。もちろん、『エヴァ』自体が「解答」を提示しなかった以上、「正解」はありえないのだから、「謎」が解明できなかったのは仕方がない。ここで問題にしているのは、謎解き本が「謎」を解明できなかったことではなくて、むしろ遂行的な局面である。つまり、謎解き本は、「謎」の解明ではなくて、そこに「謎」があるかのように演じてみせる必要があった、ということだ。だいいち、「謎」の解明は自らの存在意義の失効を自らに告げる自殺行為でしかない。謎解きという行為は、「謎」を解明する以上に「謎」を捏造することで、あたかもそこに予め「謎」があったかのように振舞い、「発見」するという転倒 された自己言及的行為なのである。すなわち、「謎」は対象にではなく、謎解きをする主体にこそ内在している。冒頭で指摘したように、物語が語り尽くされてはならないのは、物語自体の延命行為である以上に、物語を欲望する主体のそれであるからに他ならない。
 本作品『ヤンネ、ぼくのともだち』における語り手クリッレもまた、ヤンネという「謎」を解明することになる。冒頭からして、「きみたち、この自転車に見覚えあるかな」という刑事の尋問から始まる。さらに、それを受けて、次のように語られていることは興味深い。「舞台のまん中に、ぼくが立ち、観客はデカ一人だけ」。ヤンネが大切にしていた自転車を目の前にしたクリッレは、刑事を観客に、結果として謎解きを演じて見せることになる。しかし、果たしてそれは本当に、クリッレにとって「謎」だったのだろうか。事件の顛末を目のあたりにしたクリッレは次のように独白する。クリッレ曰く、「ぼくがもっと自分の目で見て、自分の耳をかたむけていたなら、すべてを解決することができたのに。(略)つい一時間前まで、ぼくは子どもだった。ぼくは見ることも、耳をかたむけることもできなかった」(傍点、ママ)。クリッレはいみじくも刑事が指摘していたように、事件の全容を明らかにする情報は手に入れていた。よって、先のクリッレの独白は次のように解釈されるかも知れない。クリッレは、子どもであったが故の、現実に対する認識力の欠如を悔悟しているのだ、と。
 しかし、以上のような解釈が成立するには、クリッレが事件という現実を認識していないことが前提にされていなければならない。だが、クリッレは自らが事件に巻き込まれていること(現実)に気が付いていたが故に、許しを乞うていたのではないか。「許してくれるかい。ぼくは、むしょうにこわがり、きみの話も聞きもしないで、「ぼくは死にそうだ」ってさけんだ」という独白が示しているのは、むしろ、次のような事態であるように思われる。クリッレが現実を直視することができなかったのは、事件に気が付いていなかったからではなく、自らが事件に巻き込まれている危険を無意識裡に感じ取っていたからなのである。クリッレは自らが直面している現実を隠蔽するために「謎」を欲望したのであり、半ば自らが幻想した欲望=謎に取り込まれてしまったのではないか。謎解きをすることで、現実に近付くというよりは、むしろ現実を先送りにしていたように思われる。そして、ついに事件は既視感のようにクリッレに訪れた。その時の、クリッレの絶望はとてつもなく深い(「ぼくは今晩にも、きみのあとを追い、今晩にもあそこへ行って、手すりをのりこえ、目をつぶるだろう」)。なぜな らば、クリッレは謎解きが解明してはならない唯一のこと、すなわち、「謎」は最初からどこにもなかったのだということに気が付いてしまったのだから。(目黒 強
書き下ろし 1998.3.27.