闇の守り人

上橋菜穂子著
二木真希子絵 偕成社 1999

           
         
         
         
         
         
         
     
「天災と上橋の新作は忘れたころにやってくる」と、憎まれ口を叩いたのは、九六年夏に『精霊の守り人』が出たときだった。あれからまた二年半が過ぎて、ぼくたちはこの寡作な作家から、四作目の『闇の守り人』を確かに受けとった。
 タイトルのみならず装丁も前作によく似ている。やっぱりねと、ぼくは思った。『精霊の守り人』の読後、必ずや続編が書かれるであろうとだれもが予想し、期待したはずである。
 水の精霊に卵を生みつけられ〈精霊の守り人〉にされた皇子チャグムは、無敵の短槍使いバルサに助けられてその大役を果たした。確かに、大地の精霊とおぼしい魔物ラルンガとの死闘をきりぬけて、物語は一段落している。チャグムは王宮に帰り、閉鎖的な世界で皇太子として生きていかねばならない。バルサの用心棒としての仕事はもう終わったのであり、二人の人生に二つ目の結び目ができる可能性はほとんどない。
 にもかかわらず、ぼくは、ないはずのその先の物語が読みたかった。そして、それは書かれるに違いないと確信した。いま考えると、それは読者の勝手なセンチメンタリズムに過ぎなかったと思う。『精霊の守り人』を読み直してみて、この作品が念入りに完結していることに改めて気づいた。あの確信は錯覚だったのだろうか。
 『闇の守り人』は、バルサが二十五年ぶりに生まれ故郷に舞い戻ってくるところから始まる。バルサの故郷は前作の舞台であった新ヨゴ皇国と青霧山脈をへだてたカンバル王国である。つまり今度はバルサ自身の運命こそが物語の中心にすえられているのであり、前作のつづきでないことは開巻の一瞬ですでに明らかになる。
 バルサの父カルナは、ナグル王の主治医であったが、王の弟ログサムの有無を言わせぬ命令に背けず王に毒を盛る。そしてひそかに一人娘バルサを親友のジグロに託して国外へ脱出させたのであった。ジグロは天才的な短槍使いで、バルサは逃亡中この養い親から武術を学んでいる。
 かつてチャグムに語り聞かせたそのような過去を背負い、バルサは帰還する。そして、カンハル王国の神話と現実政治のはざまで、またしても生命がけのたたかいをたたかい抜かねばならなくなる。
 現代のファンタジー作家は、神話をも創出しなければならない。伝説や歌によって残された神話や預言の意味するところを改めて解明しつつ、現実政治を動かす権力意志と対決する、これが上橋ファンタジーの基本構造である。
 カンバル王国の伝説では、雷神ヨーラムによって天地は創造されたと言われている。ヨーラムは半身が〈大いなる光〉とよばれる神の姿、もう半身は〈大いなる闇〉とよばれる神の姿で、光の側から地表の民族とその王が、闇の側から〈山の王国〉が生まれたとされる。
 カンバル王国は貧しい山国で穀物はほとんどとれない。それでも人々が暮らしていけたのは〈山の王〉から二十年に一度贈られるルイシャ〈青光石〉とよばれる高価な宝石のおかげであった。この宝石を他国の穀物と交換することで、この国は長年食いつないできたのである。
 では、その〈山の王〉とは何か。二十年に一度の〈ルイシャ贈りの儀式〉とは何を意味するのか。この物語の眼目はここにある。光と影という関係で示される地上世界と地下世界の〈山〉は、すぐに生と死の対比を思いおこさせるだろう。
 実際〈ルイシャ贈りの儀式〉は、国総体のイニシェーションとして、ドラマチックにかつ荘厳に描かれる。タイトルにある〈闇の守り人〉とは、〈山の王〉を守るヒョウルという死霊の訳語なのであるが、儀式において、地上の王の従臣中もっともすぐれた槍の使い手が、ヒョウルと一騎打ちし、そのたたかいに勝ってはじめて〈山の王〉の宮殿への最後の扉が開く。
 クライマックスでヒョウルとたたかうのは、むろんバルサである。そしてバルサを迎えるヒョウルはジグロの霊であった。巧みな伏線でそのことを読者は予感しているのであるが、〈槍舞い〉と表現される槍と魂の激しいぶつかりあいの描写には、思わず息をのむ。ジグロの声が聞こえる。「怒りのすべてをこめて、おれを殺せ。怒りのむこう側へつきぬけろ。」『精霊の守り人』では、現実世界と「ふだんは目にみえない、もうひとつの世界」は、〈サグ〉に対する〈ナユグ〉として示された。〈精霊の守り人〉になったチャグムは、卵の成長につれて、ナユグの風景をサグの現実と重ねるように知覚していく。マジック・マッシュルームの幻覚のようなこうした世界認識の枠組みは、ファンタジーにとって不可欠のものだが、『闇の守り人』になると、現実的な世界構造の位置関係として〈地上〉と〈山〉が対比され、「ふだんは目にみえない、もうひとつの世界」の描写は、最後の一瞬まで待たねばならない。
 しかし、光と影、生と死といった安易な図式に頼ることを、上橋は潔しとしない。そこで両者をつなぐものとして、〈山の王〉の民でありながら、地上世界では牧童として生きる一族を登場させる。彼らは地中にうがたれた無数の枝道をもつ洞窟を通って旅し、その地下水流に棲むスーティ・ラン〈水流の狩人〉という盲目の真珠色した大うなぎや、月夜の岩場でオコジョにまたがって狩りをする小人ティティ・ランとも、親密な関係を結んでいる。
 これらの存在は、むろん地上の人々の知るところではない。といっても、彼らがナユグの住人だというのではない。〈山の王〉の宮殿、最後の扉のそのむこうがナユグ(牧童はノユークとよんでいるが)なのである。とすれば、いつかこのノユークとチャグムが見たあのナユグとがつながって、さらに不思議な異変がおこり、バルサをよび出さないとも限らない。
 うまくすれば、またこのつづきをぼくたちは読めるのではないだろうか。何年でも、ぼくは待っている。(斎藤次郎
ぱろる10号 1999/05/10