山へいく牛

川村たかし:作
斎藤博之:絵 偕成社 1997

           
         
         
         
         
         
         
     
 本書には、八篇の短編が収められている。いずれも牛と人間の交わりを、水墨画のような淡々とした筆運びで描いた味わい深い力作である。どの一編をとっても、鈍重な故に大ようでどっしりした牛たちの本物のぬくもりが、作中の主人公と同様に読者の体内にまで血となって流れ込んでくるようで、思わず気持ちがホカホカしてくる。
 八篇中とくに印象深いのは「山へいく牛」と「泣きわらいの首」である。表題作となった「山へいく牛」は、小学四年生の島子と子牛と別れて山へ行く母牛との話である。戦争という非常時に、村ではきつい田仕事を終えた牛たちを、例年なら休養期であるが休む間もなく山の村へ貸してやらねばならない。山では冬じゅう重い材木運びに牛たちを駆りたてる。百姓たちにとって家族以上に大切な牛であるが、「戦争に勝つため」という言葉の前ではどうしようもない。島子は戦争に行ってしまった父のかわりに牛の山行きのつきそいを自らかってでる。出産間もない母牛は、残していく子牛のことが気がかりで、子牛の声が聞こえなくなってもまだ呼びつづける。いよいよ峠の食堂で牛を引き渡すのであるが、この作品の圧巻はなんといっても後半部分であろう。別れを覚悟した母牛が思わず目にためた涙、その瞳の底に「すきでいくのやない」といって戦争にいった父の姿を思い浮かべる島子ののどをついて出てくる叫び――。

 島子はにぎりこぶしをつくったまま石のように立っていたが、二どめに母牛の声がきこえたとき、自分もまた牛になっていた。/マアーッ/それは、ありったけの、胸のそこからふきあがってくる、どうしようもないあついさけび声だった。

 マアーッという叫びは、牛のさけびであり、同時に人間の叫びでもある。牛と人間のこの二重映し(ダブル・イメージ)こそ、作者川村たかしの心象風景である。
 奈良県五條市の農家に生まれた作者は、牛とともに少年時代を過したという。農業の機械化や戦争による酷しい波を兄弟のような牛たちと分けあいながら、作者の胸のうちに何が真実かを照らす小さな灯が次第にふくれてくるのに気づいたのだろう。
《闇》を照らす灯は牛の目のように澄み切り、その体躯のようにひろく、体内を流れる血潮のようにあたたかい。彼はヒューマニズムや戦争反対をかっこよく掲げて行進するタイプの作家ではない。その主張をプロパガンダのようにくっきりと美しく押し出すタイプの作家でもない。彼が描くのは、イデオロギーではなく《人間》そのものである。「土だって生きものだ。パンパンパンにきりきざんでどうするんや。」これは、は寡黙であり、このように主人公に語らせるのは珍しい。彼は下条理に対してストレートに反発する人間や理論を追いかけようとはしない。人間の生きる姿を淡々と描く中から、コトバ以上の重みをもって《真理》が静かに浮かび上がってくるのだ。
 「泣きわらいの首」の最後の場面はすさまじい。足を折って病院へ運ばれる黒牛クロを追って小学五年生のおれが目にしたのは、牛肉にされていく光景だった。病院というのはまっかなウソだったのだ。思わず走りよるおれの前に、皮をはぎとられたむきだしの首がおかれている。

 しかも、その顔じゅうの肉はあらゆる部分までひくひくとうごいているのだ。/おれはそのまえにしゃがんで、このふしぎなはげしいうごきに見とれてしまった。べつべつの方向に、べつべつの肉が電気じかけのようにうごいている。すさまじいリズムだ。(中略)べっかんこうばかりしていた大きな目玉はじっとしたままもううごかない。/(あまえんぼうのおまえが、ようしんぼうしたなあ。)/おれは心の中でいった。

 首だけにされたクロは、顔じゅうの筋肉を電気じかけのように動かして、おれの方を見て笑ったのだ。いやその首は確かに泣きながら笑っているように見えたのだ。この泣き笑いは、子牛のときからいつも一緒になって働いたり休んだりしたおれとクロの心の触れ合いがあって主人公の中に映ったものである。首をはねられてもなおおれにむかって泣き笑いしている牛を通して、作者は肉体(物質)を超えた精神(魂)の大切さ、美しさ、ひいては《人間》のありようを問うているのだろう。
 八篇の作品の底に流れるものは、一口にいって《情愛、やさしさ》であろう。そして情愛を犯すものに対する静かで根強いプロテストであろう。それは二つの部分に見られる。自然と対峙する機械文明と人間と対峙する戦争である。作者は《牛》に託してありうべき姿を描出している。「土も生きものだから」といって化学肥料を受けつけず、牛の堆肥が一番という「泣きわらいの首」のじいちゃんは、自然という恵みを目先の利益や便利さと引きかえてしまう人間の愚かさを見つめる側の良心である。
「きたないし、くさいやんか」と牛を道具扱いする「ひとこと」のイワノさんは「ロチという子牛」の動物ぎらいの雪子と同じく牛というものは、そばにいってみると分るが、想像以上に大きなものである。性質も小さなことにとらわれず、いつも静かでゆったりしている。親方(世話をする人)になついたら、その愛情はいつまでももちつづける。牛の瞳は一点の汚れもなく澄みきっており、その行動は愚鈍ながら、信じたことに向かって着実に前進する。その大きな体躯は気持ちのよいあったかさに包まれている。「牛ぬすっと」は新美南吉の「牛をつないだ椿の木」を読む思いでほわんと気持ちのいい笑いにあふれているが、このあったかさは雨にぬれて牛のからだにしがみついたとき牛ぬすっとが感じたぬくもりとやさしさである。「乳牛ホンシュウ」で洪水の中に岩のように突っ立つ姿はたのもしく、幼い新吾を寒さから守るそのからだのあったかさは、そのまま人間の《情愛、やさしさ》に通じているのである。
 鯨を通して人間の壮大なロマンと根源的な憧憬を描いてきた川村たかしは、本書では牛を通して人間の生き方を捉え、鯨にも牛にもそして《人間》にも流れている暖かい血潮を見事に描出したといえるだろう。(松田司郎
日本児童文学100選(偕成社)
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