もりのなか

マリー・ホール・エッツ

まさきるりこ訳 福音館

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 日本でもファンの多い女流絵本作家マリー・ホール・エッツの絵本も前回紹介したガアグのそれに負けず劣らず、習作に次ぐ習作を重ねて作り出されていました。中でも驚かされたのが『あかちゃんのはなし』のために描かれた膨大なスケッチ。
 胎児から出産後まで、赤ちゃんの成長が克明に描かれたこの絵本は、アメリカ医学協会の機関紙で絶賛されたというだけあって、リアルで緻密な描写が読者を圧倒します。けれど、エッツといえば、私はやはり『もりのなか』。ほのぼのと温かく柔らかな線と、子どもの感性に通じる豊かな想像力をあげます。
 紙の帽子をかぶり新しうラッパをふきながら森に入った「ぼく」に動物たちが次々とついて歩きます。ジャムのビンを抱えて片手をあげる熊には、思わず手を上げて返事をしたくなってしまうほど。コンテで描かれたこの絵本は、色を持たないからこそ読者一人一人に自分なりの色を与えてくれるのですが、これにもたくさんの鉛筆画の習作がありました。
 動物のわずかなしぐさの変化を描いた何枚もの下絵を見ていると、「あかちゃん…」に通じる線の繊細さが見てとれます。柔らかく一見ラフな『もり…』の線は、正確なデッサンがあってこそ初めて生まれてくるということが分かるのです。
 一八九五年生まれのエッツは、一九八五年に九十歳で亡くなるまでに、数多くの絵本を残しました。『もり…』は、エッツ四十八、九歳の作。末期癌の夫を看病するため、シカゴ郊外の森の中の家に夫婦二人で過ごした時期のものです。
 実際、彼女の人生は、作り出す世界とはかけ離れて随分と苛酷なものでした。最初の結婚、二週間めの夫の戦死。子どものための社会奉仕で赴任したチェコでの医療事故による大病。その後再婚した最愛の夫との十年近い闘病生活と死別。と人生の辛酸をなめつくした感があります。けれど、彼女の絵本には生命への愛情と人生への深い洞察こそあれ、翳りは微塵もありません。
 絵本作家としてのデビューは四十歳、二度目の結婚の直後。代表作「もりのなか」が生まれたのは、齢五十にならんろする頃ですから、羨ましくも強靭で感性豊かなおばさまであります。
「私の最も幸福な子供時代はノース・ウッドの夏である。森の中で鹿や針ねずみ、スカンクに穴ぐま、時には熊、兎に蛙、大きな蛇を眺めてすごした」
 この一言葉通り、素朴な絵本には今はなき二十世紀初頭の豊かな自然が、息づいています。エッツの絵本は私たち現代人に、土の匂いや木の香りとともに、何よりも失いたくない子どもの心・想像力の豊かさと元気を思い起こさせてくれます。(竹迫祐子)
徳間書店 子どもの本だより「もっと絵本を楽しもう!」1995/11,12