ぽっぺん先生の日曜日

舟崎克彦・作/絵
1973年3月、筑摩書房

           
         
         
         
         
         
         
    
◆絵本の中をさまよう心
 何度読みかえしても面白い文章というものは稀である。私にとって、まことに魅力的な文体を持った作家を児童文学の領域で三人あげるとするならば、やはり宮沢賢治、北畠八穂、そして舟崎克彦ということになろうか。しかし、前二者の躍り跳ねる破格の個性にくらべて、舟崎の文体は端正で美しく都会的で、フランス印象派の音楽を聴くようだ。でもそれだけでは今ひとつ再読を誘わない。何ともいえない<おかしみ>、つまり戯作の心がそれに加わっているので、何度ひもといても面白いのだ。
 そして、この『ぽっぺん先生の日曜日』には、ほのかな郷愁のようなものが漂っている。それは三八歳の生物学の助教授ぽっぺん先生が、休日に書斎の整理をしていて、子どもの頃に読んだ古い<なぞなぞ絵本>を見つけ、その中の世界に入りこんでいくという設定のためだろうか。私自身も子どもの頃、<明日>という日はいつも霧の中であり、歩み入るのが恐ろしく、動悸と眩暈をともなったことを思い出す。そして、すべてのものが私に謎をかけていた。絵本の中をさまようぽっぺん先生の心が、既知の懐かしさを持って共感される。
 さらに私より上の世代の方々にとっては、もう一つ既知の感覚が加わるかもしれない。というのは、文中にさりげなく、先生の<学童疎開>の体験が語られているからだ。
 「これからどんなすじ書きで身のまわりが移り動いていくのか想像もつかなかった、あの子どもたちの旅。それは、今思えば絵本の中をさまよう先生の心そのものではなかったでしょうか」
 むろん作者は戦後の生まれであり、この作品を世に送り出したのは二八歳の時だった。分身ともいえるぽっぺん先生を三八歳にしたのは、<遅れてきた世代>である作者の、戦争体験へのこだわりだろう。一見、<子ども>が不在とも見えるこの作品だが、実は過去の子どもたちの幻影にも、深いところで支えられているのだ。
◆奔放にして周到な物語
 この作品には、それまでの日本の児童文学にはほとんど見られなかった上質のユーモアと、自在な物語の展開があり、それは前作である舟崎靖子との共著『トンカチと花将軍』でも発揮されていた。桃色ペリカンやトガリネズミ、サルクイワシなど奇妙な存在とぽっぺん先生との出会いが繰りひろげられるさまは、アリスの世界を思わせる。しかし、才気煥発な作者が、筆にまかせて奔放に描いたかに見えるこの作品は、本当は実に繊細で周到な枠組みを持っている。アワダチ草の茂る<なぞなぞ絵本>の世界で、先生が巨大なショクダイコンニャクの根元にうずくまる桃色ペリカンに出会う前に、緑色のチロル帽をかぶった少年の姿が、一瞬視界を横切っていく。読み過ごしてしまいそうな一行だが、この少年こそ先生を絵本の世界に誘いこんだ仕掛人なのだ。昔、先生はこの絵本を読んでいて、最後のなぞなぞの答えを忘れ、かんしゃくを起こしてページを破ってしまう。そこに描かれていたピッコロを吹く少年は、ページの綴じ目に逃げこみ、先生がふたたび絵本を手にとる機会を待っていたのだった。最後に絵本の修復を約束した先生は、破ったページの霧の中から現実に戻ってくる。
 また、先生が「ペリカンのくちばしには、なぜふくろがついているのでしょう」(答えは「ポケットがないからです」)といったなぞなぞを一つ解くたびに、次のページの世界に移る構成には、読者が身をまかせられる安定感があり、一見、奇妙で脈絡のないように見えるイノシシの子守唄も、ちゃんと先生が辿ってきた世界を表している。
 思えば子どもの頃も、謎が一つ解けるたびに、私たちはいつも新しい世界の入り口に立っていたのではなかったか。
◆詩的なナンセンスと風刺
 すぐれたナンセンスの精神は詩に通じている。ロートレアモンが<解剖台の上のミシンと雨傘の出会いのように美しく>と言ったようなポエジーを、廃墟でカクレンボをしているタヌキや、読書会にいくダチョウ、「ソモソモ」(物事の始まり)を探すトガリネズミなどに感じる。またその自由な精神からは、思いがけない強烈な風刺も飛びだす。絶滅した動物たちの空【から】の檻がある動物園。そして<中身>のない、服だけの人間たちの町…。先生は皆に、風船に描いたベートーベンの顔をつけてあげる。
 しかし、全体を振り返ると、ここにはキャロルのようなすべての現実をひっくり返し、奇妙な混淆の中からねじれた世界を作り上げる、狂気じみたものは見られない。むしろ静かな、メランコリックともいえるトーンが、逸脱を抑制し、全体を調和の方向に導いている。メランコリーの原因は何だろうか? 人間が絶滅させてしまったあまりに多くの動物たち、中身のない服だけが闊歩しているような都会、そして、先生を<おもちゃかぼちゃ>の牢屋に閉じこめてしまうイタチの青年団は、現実の世界にも存在する。社会的現実への激しい反発や絶望は、すぐれたファンタジーを生む要素であり続けてきた。わがぽっぺん先生にも、そのファンタジー成立の純粋な動機が見られるのだ。
 しかし、主人公が、その存在だけで大人の常識的な世界を攪乱しうる<子ども>でなく、分別ざかりの三八歳のぽっぺん先生であることが、この作品に郷愁とメランコリーの漂う最大の原因ではないだろうか。アリスは、ビクトリア期の典型的人物でありながら、まことに子どもであった。児童文学では、大人が主人公であってもいっこうにかまわない。だが、もしもぽっぺん先生が子どもだったら、この物語はまた違う光芒を帯びるだろうと思わずにはいられない。
 「ぽっぺん先生」シリーズは、この作品を端緒として、『ぽっぺん先生と帰らずの沼』『ぽっぺん先生と笑うカモメ号』と書き継がれ、豊かに展開されていく。しかし、この第一作の香気と軽やかさは、完結した一つの物語として、日本の児童文学の財産にふさわしいものである。(きど のりこ)

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