光車よ、まわれ!

天沢 退二郎 作 司 修 絵
筑摩書房 1973

           
         
         
         
         
         
         
     
 『光車よ、まわれ!』は、決して成功している作品とはいえない。作者のもっている世界、見えているイメージがトータルなかたちで読者に伝わってこないもどかしさを残している。にもかかわらず、無視できない恐怖をつきつけてきて読者を離そうとしない特異なファンタジーである。
 ある雨の日、六年生の一郎は、教室で三人の黒い大男を見たことから、身辺に「怪異(あやかし)」が生じてくる。水たまりから手が出てきてひきこもうとするのを必死で逃げる。同じクラスのどこかあやしげな吉川と、黒い大男の姿をかえた武田・宮本・斉藤に追いかけられているとき、やはり同じクラスの龍子から呼びかけられ、工場のヤグラの上の部屋で雄次、トミー、ふたごの弘子、弓子、サッちゃんを知って七人の仲間になる。≪水の悪魔≫とたたかうには、三つの≪光車≫をみつけて正体をあばく必要があると聞かされて、手わけして探そうとする。有史以前からその土地に住みついている地霊文字に導かれて、第一の≪光車≫がみつかる。別の校区に住んでいるルミには、その文字を読む力があって、ぶきみな緑色の制服を着た男たちの集団にもぐりこみ、七人の仲間と出会って一緒にたたかうことになる。一郎の活躍で第二のものも手に入れる。工場の持ち主であった龍子のおじいさんは発作で苦しんでおり仲間を助ける力がなくなったので、第三のものを探索するために、人を紹介してくれるが、その人は一郎の大家さんの家にいた。そこにいくと、龍子のおじいさんとそっくりの老人、中 谷晃人がいて、「わしは龍子の祖父であり、そのまた祖父であり、そのまた祖父でもあった者である。」と述べる。≪水の悪魔≫は少しずつ姿をあらわし地下に閉じこめられていたものすべての反逆がはじまる。「……千年のあいだ / ウラの世界 / 水のない水面のウラ側で / 忍耐と辛棒の日々をたえたわれらだ、/ ついにそのオモテとウラとが入れかわるのだ、/ オモテの人間どもはすべて / おまえたちとわしとのどれいとなるのだ / 武器をとれ、/ 明日こそはたたかえ!」という水魔神の叫びを地下の世界で聞いたルミは、こっそり脱出する。第三の≪光車≫は中谷老人の家に念力でよびよせられ大団円をむかえる。押しよせる水にボートを浮かべて、老人と三つの≪光車≫をもった仲間は、氾濫した黒眼川を進んでいく。水が切れ、老人を乗せたボートが消えると、仲間は工場に走り、たてこもって敵から孤立する。敵の中には学校の先生もいる。水音がし、工場のやぐらは舟に変わる。へさきから、≪光車≫を投げ、龍子が「≪光車≫よ、まわれ!」と叫ぶ。三つの≪光車≫が生きもののように燃え輝いて空中で一つにあわさる。舟を襲ってきた老人は、いつのまにやら中谷老人になっている。水魔神は龍子のおじいさんの悪の分身だったと説明される。一郎は気を失ってしまう。一か月たち、病気から回復した一郎はルミとかつていった国会図書館へ、≪光車≫の絵を見にいくが、そんなものは存在しないといわれてしまう。一郎は(ぼくらはたしかに勝った。あやかしをうちやぶり、敵の片一方はやっつけた。でももう一方の敵がのこっている。)と実感してストーリーは終わる。
 プロットはあちこちに飛び、主人公も、一郎とルミの二人に分裂し、描かれる場面も現実なのか、見せかけなのか、判然しないでそのままある。ウラの世界、サカサマの世界に子どもが入っていったり、世界がこちらに出てきたりする。巨大な男は、天井にうつっている姿では老人であり、龍子のおじいさんは、中谷老人でもある。水の悪魔の世界は、水がなくかわいている。一郎とルミの側に立ってよむとしたら、敵であり消えていった級友やルミの兄はどうなったのか気になるし、老人と消えた龍子は老人が次の肉体に転生するように、普遍的な存在なのだろうか。プロットの構成の複雑さが読者の頭を混乱させる。
 その混乱の中で、随所に美しい表現やゆるぎない適確な文章、会話に出会う。
「一郎は買ってきた野菜を適当に切っては、次々に、なべにわかしたお湯の中に投げこんだ。わぎりにしたにんじんの切り口は、美しいにじ色にきらめいていて、曼陀羅の光の輪のようだ。」というあたり装飾過剰な文体にみえて、その実、日常の中にひそんでいる≪光車≫の暗示としてはめこまれていることに気がつく。部分部分で言葉が喚起するイメージは、豊饒である。
 作者は、自分の提示した世界を人体都会説で説明している。「人間のからだの中にはたくさんの血管が走っていて、血が流れている。古いよごれた血が流れる『静脈』は下水道で、あたらしいきれいな血の流れる『動脈』は上水道なのだ。」「いろんな道路をうろちょろしている人間は、つまり血液の中にすむ白血球や赤血球みたいなものだ。」一郎はそれをきいて「ぼくらがいまこうしてくらしている都会も、だれかすっごく大きなひとりの人間のからだそのものではないか。そのひとって、いったいだれなんだろう?ぼくはだれかすごい巨人の、血管の中のひとつぶの赤血球でしかない。」と考える。巨大な世界は一瞬にして微視的世界に変貌をとげる。
 一郎がまきこまれていった冒険は終わり、地下の世界の叛乱は表面的には鎮圧された。悪の正体をあばくという≪光車≫とは何であったのだろうか。われわれ一人一人の存在は、小さいけれども、それぞれに千年以上もの歴史を持っていること。汚水は下水に流されて見えなくなってしまうが、決してなくなったのではないこと、≪光車≫の絵を見ることによってこの世の実体をみることができること、怪異(あやかし)は映像だけではなく、教室の中にも、家の中にも身近なところにはどこにもころがっていること、を語って困難のすえ≪光車≫をみつけて、高くまわすことによってそうしたあやかしから逃れることができること、がわかる。しかし、それとても持続するものではなく、味方と思われた老人さえも影の部分として悪の分身をもっていることを知らされる。よくわからなくとも、その恐怖感だけは確実に伝わってくる。
 ばらばらな性格描写、二分しているプロット、実体と怪異の無秩序は、最新作『オレンジ党と黒い釜』(一九七八年刊)において、統合され、母子家庭が父子家庭、かかげるべき≪光車≫が、亡ぼすべき≪黒い釜≫といたるところでコントラストを形成しながら、より成熟した作品として結実している。(三宅興子

『日本児童文学100選』日本児童文学別冊 偕成社 1979年 1月15日
テキストファイル化 杉本恵三子