はるかなユートピア

ひこ・田中
ぱろる9号 1999.01

           
         
         
         
         
         
         
     
*「わたし……いろいろ教えてもらいたい、学びたいと思ってこの園に来たのですが、その考えはよくないのですか」(略)「よくないといい切るのは言い過ぎかもしれないのですが、教えてもらいたい、学びたいと思う心は、子どもに添う仕事をしている人にとって、次に、教えてやりたい、学ばせてやりたいという心に変わっていく心配はないですか」(『天の瞳』)。

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 七四年の『兎の眼』から始まって『はるかニライ・カナイ』まで、灰谷健次郎の長編は、その四半世紀という時を越えて共通する設定やパターンがあります。それは凡庸さであるとか、マンネリであるとかを示すと考えるより、この作家が産出する物語のツボがそこにこそあると観た方が生産的でしょう。
 例えばそうしたものの一つに、大なり小なりストーリーのピークに、まるでそれなしには物語が成立しないかのよう配される「過去に背負った重い体験を語る」があります。これは主人公たちが語るのではなく、彼らを聞き手とした場面で登場します。

(1)バクじいさんは孫の担任である小谷先生を家に招き語り出す(『兎の眼』)。戦前、親友の金龍生を裏切り死なせてしまったこと。朝鮮で、憲兵の拷問に負けた結果、小さな村が焼き払われたこと。それを忘れるため「酒や女におぼれ」したが、結婚をし女の子が産まれ、やがてその娘夫婦が船の仕事を継いでくれるが、事故で死亡してしまったこと。「いまここで性根を入れて生きんかったら、金龍生を三度までうらぎることになる、そう思うて、わしゃ歯をくいしばったです」。
(2)足立先生は、塵芥処理場移転反対のハンストの最中、教え子に語り出す(『兎の眼』)。貧乏だった子どもの頃、「先生はドロボーをした」けれど恐ろしくてやめた。が、兄は「きょうだいが七人もいたからツバメがえさをはこぶようになん回もなん回も」ドロボーを続けた。兄は捕まり少年院へ送致される。「その日、先生のおにいちゃんは死んだ」。
(3)キヨシ少年はふうちゃんに語り出す(『太陽の子』)。どうしても欲しかったコンパスを遠くで働く姉にねだったこと。「ねえちゃんの送ってくれたコンパスで描くと、みんな丸になる。うれしかったなあ」(略)「おれがうれしがって丸を描いているとき、そのとき、ねえちゃんは死んどった」。
(4)ふうちゃんも同席するキヨシ少年の病室。強引に彼を取り調べようとする刑事に、ろくさんは語り出す(『太陽の子』)。兵隊の命令でとはいえ、彼は我が子を絞め殺したこと。「あんたは子どもを殺したわしに手錠をかけることができるかね。悪いことをしないで平和に暮らしているひとたちのしあわせを守らなくてはならないとあんたはいったね。わしたちはなにも悪いことはしないで暮らしていたんだがね」。
(5)家族を捨て船出することに迷う我利馬こと「ぼく」に「だれでも」のおっさんは語り出す(『我利馬の船出』)。夫ある女と駆け落ちし、子どもも出来幸せに暮らしていたが、財産分与のために、妻を連れ戻そうとする夫の親戚。「いったん押し込まれた車から逃げ出した妻を向こうからきた車がはねた。(略)その女は逝ってしもうた」こと。その後、泥酔の日々であり、そして、「救急車のけたたましいサイレンの音がする。あれはわしの息子を運んでいるんやと思う。(略)警官の立ち合いのもとではいった、子どもがガス栓をひねった部屋でわしは吐いてしまった」。
(6)ミッちゃんの若い母親は葛原順に突然「先生、暴走族好きですか」と尋ね、語り出す(『砂場の少年』)。「二十一歳の暴走族を愛して、やすこが生まれ、警察のパトカーに追われて、暴走族は二十二歳で死にました。犬死にですか、先生。これ」。
(7)都会の学校に疲れ、島の学校にやってきた裕子に、島の過去を丸本先生は「今、そのときがきたようだ」と語り出す(『はるかニライ・カナイ』)。「一瞬に死ねる者は、そう多くなく、体や手足の一部を吹っ飛ばされ、うめき声を上げる人たち」(略)「後頭部に大きな傷跡を持つ大ジロウさんの奥さんは、そのとき、まだ、小さな子どもだった。同じ死んでいくならせめて苦しまないようにという親の思いで、木を割るナタが彼女の頭に振り下ろされた……」。

 いささか過剰な引用ですが、そこにある、それ以上に過剰な死の表出を確認しておきたいわけです。しかもそれらの死は、病死だとか事故死といったたぐいの、私たちの日常に貼り付いている事象ではなく、社会抑圧による自死、殺害など特殊状況下での、いわば「殺された死」であることを。
「小谷先生がみな子をあずかる決心をしたのは、バクじいさんのあのすさまじい話をきいてからだ」(『兎の眼』)。とあるように、それらは「すさまじい話」として、物語の主人公たちの前に展開されます。従って聞き手たちは、ただただ、その話の前で、為すすべもなく、一方的に聞き役として、あるしかありません。
「あついものがこみあげてくるのを小谷先生は感じ」(『兎の眼』)、「みさえがしくしく泣きだし」(『兎の眼』)、「ふうちゃんは恐いめに会ったときのように眼を大きくひら」(『太陽の子』)き、「さすがに男たちはことばをなくし」(『太陽の子』)、「寒くもないのにぼくはふるえ」(『我利馬の船出』)、「葛原順はことばがなかった」(『砂場の少年』)し、「裕子は鳴咽」(『はるかニライ・カナイ』)する。
 これはいったいどういう事態なのでしょう?
 ここには、対話といったものは成立せず、語り手と聞き手が固定されており、そのことに対する疑義なぞ成立すらしないようなのです。
 それはまた、これらの告白がそれぞれがなされる場面とさして関わりなく、やや唐突に始められることからも伺えます。
 例えば(2)は塵芥処理場移転反対のハンストを行っている足立先生の元にやってきたクラスの子どもたちに突然、「あの晩も流れ星が多かった」と語り始められますし、(7)では、ヤマトからオキナワに移住している丸本先生が誰にすすめられたでもなく「今、そのときがきたようだ……」と、ヤマトから転校してきている裕子に話し始めます。
 語り手と聞き手が固定されてしまうのは、語られる内容の重みのせいだとひとまず述べておくことは出来るのですが、なぜ物語たちはこうもこのようなエピソードを必要とするのかとの疑問は、その唐突さ故にやはり残ります。

 情報が絶対的正しさや力を帯びて、決まった方向へ向けて流される、こうした、物語の仕草は実の所、灰谷作品の多くが批判的に描く教室風景と似ています。
「もし教師たちに、すべからく用意された答えというものがあるとすれば、何事もそういうふうにしかものをとらえられないとすれば、生徒たちの方がその答えに近づいてくれない限り、教師には生徒といっしょにものごとを考えるという世界は存在しないのだ」(『砂場の少年』)ということです。
(7)でちょっと詳しく見てみましょう。

「二通リの人間がいる。世の中を利用して、えらい人になってやろうとか金儲けしてやろうと考える人と、そんな大それたことはとてもできないけれど、せめて身近な人々を大切にし、まわりの生命を慈しんで、相手を思いやる心だけは失うまいと考え生きている人が」と丸本先生は裕子に言います。この乱暴な二分法は、「戦争を起こす人間は前の方のタイプの人間で、空襲や爆撃で殺されるのは後の方の人なんだ、という事実を、わたしたちはどう考えたらいいのかということだね」という、これもまた乱暴な「事実」を引き出すのですが、取りあえずそれは置いて。
 この「事実」をどう考えたらいいのかという丸本先生の問いかけから、「どう考えたらいいの……と裕子は、自分に問うようにいった」が導かれます。ならばその後、彼と裕子の間で対話が成立するはずが、そうはなりません。「わたしはこんなふうに考えたんだ」と話し出す丸本先生の独壇場です。彼は「島の人は許すべからざる二つの敵に殺されたんだ」と日本軍とアメリカ両者の罪を指摘し、「ただ戦争は悪い、というだけではなくて、戦争を起こした側と起こされた側の関係を正確にとらえて、その内容の一つ一つをきびしく正すことだ。そしてはじめて戦争を考えたといえる」と、裕子に教えるのですが、これは先の問い、「戦争を起こす人間は前の方のタイプの人間で、空襲や爆撃で殺されるのは後の方の人なんだ、という事実を、わたしたちはどう考えたらいいのか」への答えにはなっていません。ただ「正しい」自説が開陳されているだけです。そして彼の話は(7)の引用部、集団自決へと突っ込んでいき、そうした傷を持ちながらも優しい島のひとたちを語り、「……世の中に、こんなすごい人たちが……どうしているんだろう」と涙声となり、裕子も鳴咽して、場面は終わる。
 問いには、さして意味がないかのようです。正しいもの、厳粛なる事実などはすでに予め用意されていて、聞き手はただただそれに感情を揺さぶられる、同調することだけが求められており、問いは、漂白されてしまう。
 つまり、物語たちは、園子先生(『天の瞳』)の述べる「教えてやりたい、学ばせてやりたいという心」や「もし教師たちに、すべからく用意された答えというものがあるとすれば(略)教師には生徒といっしょにものごとを考えるという世界は存在しないのだ」(『砂場の少年』)といった物語たち自身が否定的に評するものに近いのです。ただそれが、語られる中身の重さによって、見えにくくしているだけで。

 そう思って物語たちを眺めると、共通する構造が見えてきます。それは物語には常に、語り手によって支持される人物がいて、その人物が語り手と共同で役割分担し、物語の中の価値基準を提示したり制御していること。彼(すべて男です)らは折に触れ語り手や別の登場人物によって高い評価を与えられ、それによって物語における価値基準を定める権利あるものとしての立場を得ています。
 足立先生(『兎の眼』)、梶山先生、桐道さん(『太陽の子』)、パパ(『少女の器』)、我利馬(『我利馬の船出』)、葛原順(『砂場の少年』)、あんちゃん、宗次郎(『天の瞳』)、丸本先生、高野先生(『はるかニライ・カナイ』)などがそのような人物なのですが、少しだけ例を示せば、
「どういうわけか、ほかの先生はこの足立先生に一目おいているようなところがあり、それは父兄の評判がいいからだと、だれかにきいたこともある」。「やっぱり梶山先生えらいなァーふうちゃんは思うのだった」。「学校へいった順さんを心配しながら見ていたところが、おれにあったけど、(略)やっぱりおまえさんはたいした男だ」。「ぼくのやったことは奇跡に近い」(これは、語り手が我利馬本人自身なので、本人が誉めるしかありません)。「社会的な地位や、世間に認められている仕事をふりかざさない丸本先生の人柄を、ひそかに尊敬しているふうだ」、となります。
 彼らは、物語に派遣された「正しいことを教える」教師なのです。彼らは語り手とともに様々なものを判定し評価していきます。
「ああいう子にこそタカラモノはいっぱいつまっているもんだ」。「この校区はまずしい家庭が多いが、まずしい者だけの世界というものはない。見栄をはる家庭もあるし、物や金のうえで安心してくらそうとしている家庭もある。そういうところで、みにくい話がおこってくるのはとうぜんだし、子どもがそれをまねすることだってありうる」(足立先生)。「人間のくらしに必要なもんとそうでないもんとの区別がつかなんだ。それがわからん人間はわやになるね。沖縄の人はえらいね。そこがちゃんとしとるさかい、人間の中でも上等が多い」(桐道さん)。「ぼくの国では人びとがほんとうに生きたいと願って生きていないというしかないのだ。ほとんどの人間が自分がなぜ生きているのかわかっていないのだ。だからそこにあるものは、あらゆる腐敗と退廃であり、学問や芸術は人を踏みつける道具であったり自己顕示欲そのものであったりする。人間がほんとうに生きたいと願っておこす行動は、清らかな水が流れるように自然で、そして力がある」(我利馬)。「人間、夢のない奴はあかん。おまえらも倫太郎みたいに空になるとか、太陽になるとか、でっかいこというてみィ」(あんちゃん)。
 先ほどの丸本先生の評価の仕方(ほど極端ではないにしろ)とこれらは大変よく似ています。何かを否定や排除しそれと比べてもう一方の何かは素晴らしいと評価する、二分法。「えらい人になってやろうとか金儲けしてやろうと考える人」、「ああいう子」でない子、「見栄をはる家庭」、「必要なもんとそうでないもんとの区別がつかな」い人間、「自分がなぜ生きているのかわかっていない」人間、「夢のない奴」は駄目で、そうでないものは評価される。ええもんとアカンもんはくっきりと線引きされるのです。「すべからく用意された答え」・・・・・・。
 物語たちのこうした癖は時に、「六本木のコーヒーショップやレストランに入っている人を見てもなにも想像力が働かないけど、下町の飲み屋さんでお酒を飲んでいる人を見ていると、その人の生活や性格まで見せてくれているようで楽しかった」(絣・『少女の器』)といった主人公のセリフにまでもおよんでしまいます。「下町のコーヒーショップやレストランに入っている人を見てもなにも想像力が働かないけど、六本木の下町の飲み屋さんでお酒を飲んでいる人を見ていると、その人の生活や性格まで見せてくれているようで楽しかった」が成立することに想像がおよばない貧困さがそこにはあります。また、拳法の練習の前に、「おしゃかさんの言葉をみんなでいわすのん? 軍隊みたいで気持悪い」(『天の瞳』)という満の疑問に対しても、「少林寺拳法は、戦争とは逆の、平和の方につよい関心を持つ」との、「戦争と平和」の二分法によって納得させようとしてしまいます。満の発言では、「軍隊みたいで気持悪い」の方より、「みんなでいわすのん? 」という、満の中にわき起こった集団行動への心身の不快感が重要であるはずなのですが。おそらくここにもすでに用意された答えはあっ たのです。

 であるならばそこでは、どのような子どもが描かれるのかは、極めてシンプルに導き出されるでしょう。語り手と物語の教師役である者たちの評価に合格した子どもです。そのために彼らは、失禁や情緒不安定、心身障害、貧乏、肉親の死などの設定を与えられます。
 これは、「二通リの人間がいる」とか、「六本木」と「下町」といった、少ない選択肢しかない場合、はっきりと線引きされた、ええもんの側の子どもであるために背負わされるスティグマと言えるでしょう。
 ですからこれらの物語の子どもに関して、世間で評価されない子どもに光をあてたと言われることもありますし、そう見えないでもないのですが、むしろ逆で、物語の方がそういう子どもを必要としているのではないかとの見方も成り立ちます。
 彼らはすでに選ばれし者としてあり、特権的な存在なのです。そのために、例えば次のような事態が生じてきもします。
 試験の点数をベストテンとして発表する教師批判のエピソード(『天の瞳』)。倫太郎と友人は「べストテンに残らない点数をとるコツ」を覚え実行する。そうして、返却された答案用紙にわざと間違えた分を加算し、「ほんとうの点」とする。語り手は彼らが「そうすることで自分を守ることができた」と述べ、続けて「他の子どもたちは…」「十番までに入る子と、ボーダーライン前後の子との確執」が起こり始めたと語る。
 単純な話、彼らが抜け出したことで、別の誰二人が新たにその確執に加わってしまうこと。もし全員が彼らと同じコツを覚えれば結局、コツを覚えたものどうしでベストテンが成立してしまうこと。そしてそのコツを彼らは誰にも伝授しないこと。それらすべては棚上げされ、彼らは特権的に扱われてしまいます。
 主人公だから特権的なのではなく、特権的なものが主人公となっているのですね。

 現在なら、ポケモンマスターを目指す子ども、ミニ四駆の改造に夢中になる子ども、スーパーヨーヨーの練習に余念のない子ども、プリクラシール収集命の子ども、紺のラルフの次に流行るものを気にしている子ども、何の努力もなく無敵のゴム人間になったルフィ(『ワンピース』尾田栄一郎 集英社)にシンパシーを感じている子ども、隙間時間にTVゲームで息抜きをしている子ども。『兎の眼』の頃なら、なにかと言えば「オヨヨ」という子ども、スーパーカーの話ばかりしている子ども、ドリフの「全員集合」を視聴率五〇%の押し上げた子ども、週刊少年マンガを百万部突破させた子ども。そうした日常を生きている、二分法のどちらにも属さない子どもたちに、これらの物語はほとんど興味を示してはいません。おそらくそれは、これらの物語にとって、こうした子どもたちは評価基準をあてはめにくい存在だからなのです。逆に言えば、それらの子どもたちの側も、この物語世界では生きられないことを示しているのでしょう。
 もちろん、ユートピアとは、そのようにして保たれるわけで、だから、「でも、わたしまで突然島に移住するわけにはいかない。第一、そんな輩がぞろぞろ来たら、島の生活は激変して、その美質も台無しになってしまうだろう。だからわたしは本を読むだけにする。ページを閉じて、バスを降り、キャンパスに向かうことにする。桃源郷ならぬ混在郷の俗人として」(石井直人「図書新聞」1997・6・28 )といった『はるかニライ・カナイ』への言葉はとても的確で、私も同調するのです。
ぱろる9号掲載