情熱が出版を可能に

日本版を刊行した静山社
読書人2000/01/14

           
         
         
         
         
         
         
     
 「子どもが夢中になって、本を離しません。こんなことは初めてです」
 『ハリー・ポッターと賢者の石』の発売直後、あるお母さんから、興奮した声で感謝の電話がかかってきた。世界三一○カ国、九百万人の子どもをとりこにした「ハリー・ポッター」の魔法は、どうやら日本の子どもにもかかったようだ。日本版の版元は、意外にも社員が二人の小出版社だ。静山社社長の松岡佑子さんは、三十年のキャリアを持つ同時通訳者。一昨年、前社長のご主人が病気で亡くなり、民衆史や医療関係のノンフイクションなど、社会派の本を手がけてきたご主人の、出版にかけた志を引き継ぐことを決意した。
 「ハリー」との出会いは一九九八年の秋。イギリスに住む二十年来の友人、ダン・シュレシンジャー夫妻を訪ねたときのことだ。松岡さんが会社の経営を引き継いだことを話すと、「出版社をやるなら、これが今イギリスで一番ホットな本だ」と勧められた。一晩で読み終えて、その面白さにほれこみ、「この感激をどうしても自分の翻訳で伝えたい」と、すぐ版権代理人に連絡を取った。「日本からはすでに三社がアプローチしてきている」と言われたが、あきらめず、「私にチャンスがありますか」と尋ねた。「ある」という返事に力を得て、会社の紹介と、自分がなぜこの本を出版したいと思っているか、ということを簡潔にまとめ、電子メールとファックスで送った。
 十二月になって、代理人から「著書と相談して、あなたに決めた」という連絡をもらった。同時通訳者としての語学力をアピールしたことと、この本にかける熱意が認められての決定だった。
 版権はとったものの、松岡さんにとって文芸書の、まして児童書の翻訳は初めて。チームを組んで翻訳に取り組んだ。まず、国際基督教大学の同窓生二人に下訳の手伝いを頼んだ。それから、ニュージーランド人の翻訳家をアドバイザーに。また、インターネットで、児童書の翻訳クラブの人たちと出会い、資料集めや翻訳のチェックなど、さまざまな協力を得た。最終的には、ご主人の友人の親子が、一般の読者の目で読んで、おかしなところを指摘してくれた。「翻訳の構想は固まっていたんですが、ひとりよがりではなく、徹底的にいろんな人の目にさらして、批評を受けた上で自分の訳にしました」
 小出版社だから、翻訳だけにかかっているわけにはいかない。出版の経験者がくれた「出版において一番大切なことは、書店さんを味方につけること」という忠告に従い、自ら営業に動いた。並行して続けている通訳の仕事で地方へ行くたびに、精力的に書店を回り、「これから大きな出版をします」と挨拶した。最初は反応が鈍かったが、だんだん応援してくれる人が現れた。そのほか、編集、イラスト、装丁、宣伝から電話番に至るまで、沢山の人がボランティア同然で力を貸してくれた。発売後すぐに、大手書店のべストワンに入るなど、児童書では久々の大ヒット。現在二十六刷、三十万部に迫る勢いだ。「大きなところから、パブリシティの申し出などもありますが、第一巻だけは、あくまでも手作りで行こうと思います。素人集団が情熱で作ってきた、その気持ちを大切にしたい」
 <出版は机と電話があればできる>と言われた時代は過ぎ、海外人気作家の版権などは、大資本でなければ手が届かないのが現実だ。松岡さんは作品への愛情と、周囲を巻き込むエネルギーで、不可能を可能にした。「いろんなことに魔法のように火がついた」と表現するが、これまで培ってきた人脈や信頼がなければ、成功することは難しかったに違いない。
 松岡さんから見た「ハリー・ポッター」の魅力とは何か。
 「言葉の使い方にしろ、物語の筋の組み立てにしろ、子どもはもちろん、大人の読者に耐える知的な面白さがあります。そして、人生にとって非常に基本的な、愛、友情、勇気、その大切さが自然に伝わってきます。子どもたちは、いろいろなジレンマを乗り越え、登場人物が成長していく過程を、自分のことのように感じながら読んでいます。それは最高級の読書の楽しみだと思うんです」(H)