ハロウィーンの魔法

ルーマ・ゴッデン

渡辺南都子訳 偕成社 1997


           
         
         
         
         
         
         
     
今年もまもなくハロウィーンがやってこる。ハロウィーンと言えば、何年か前に米国で起きた日本人留学生射殺事件が思い出される。ハロウィーンの晩、アメリカ社会の慣習に従って近所の家を訪れた日本人青年を、家主が不審者だと思いこみ、「フリーズ」(動くな)と叫んだが、相手がかまわず近づいてきたので恐怖感から発砲した、というあの痛ましい事件だ。記億にとどめている人も多いことだろう。あの事件以来、「フリーズ」という英単語の意味とともに、ハロウィーンという英語圏の国々の年中行事が日本にも広く知られるようになった。
「ハロウィーン」とは、死畜の霊を迎える祭りで、日本のお盆のようなものだ。十月三十一日の夜に、死者や先祖が帰ってきて、また妖鬼や魔女が夜を徹してうかれ騒ぐと言い伝えられ、各家庭では、かぼちゃの中身をくりぬいて目、□、鼻の形に穴をあけたお化け提灯を玄関や窓際において魔よけにする。現代では、妖鬼や魔女がうかれ騒ぐ部分がふくらんで、子どもたちの悪ふざけが詐される楽しいお祭りになっており、子どもたちは魔女や幽霊など思い思いの仮装をして、「ごちそうしないと、いたずらするぞ」と言いながら、近所をまわってお菓子をねだる。
この作品はこうした社会慣習を題材にしたとても心暖まる話。但し邦訳書名につられて「魔法」への関心から読む読者の期待は、少々裏切られるかもしれない。なぜなら魔法はいっさい出てこないのだから。語られているのは、カバー見返しあるように、まさに「ハロウィーンにおこった魔法としか思えないすてきな出来事」(傍点筆者)であり、それが人間の力によってなされたというところにこの作品の価値がある。前述の多少の期待はずれ感を抱いた読者をも含めて、読む人の心をなごませるのはそのためだろう。
八才のセリーナは、何をやってもへまばかりの、のろまでぶきっちよな少女。大叔母の遺産で買ったポニー、ハギスは、ずんぐりして小さく毛色もさえない。ドジで強情な所は飼い主そっくり。ハギスは、村一番の偏屈者のマックじいさんの農場が大好き。マックじいさんは、初めこそポニーが自分の農場に足を踏み入れることを拒んでいたが、塀から落ちて倒れていた時にセリーナに助けられたのを機会に、セリーナとその両親、そしてセリーナの友達で、学校ではセリーナよりもっと「だめな」少年ティムと交流し始める。
ちょうどその頃、大叔母が村に遺したお金で公園をつくる計画が持ち上がるが、地主であるマックじいさんが土地を手放さない。マックじいさんは村人から総すかんを食らい、セリーナや両親やティムまでもが、マックじいさんとつき合っているという理由で、仲間はずれにされる。
セリーナは、ハロウィーンの夜、いい魔女になってマックじいさんをいい人に変えようと試みる。計画は決してうまくいった訳ではないが、まるで「ほんとうに魔法の杖をふるったように、」事態は一夜にして好転する。(実際にはマックじいさんの心が徐々に変わっていく伏線が随所に見られるのだが。)
魔法や超自然的な力によってではなく、人間の暖かい心が、石のような人間の心を動かしてすばらしいことをさせる、そこに作者の人間に対する信頼を感じ、読む側はほっとし、ほのぼのとした気分を味わえる。
また作者の弱者への優しい視点は、ハギスをかばうセリーナの「みっともなくてぶかっこうで、いつもいうことをきかないって、それだけのことでだめなんて。ハギスがわるいんじゃないもの。」という言葉に凝縮されている。
大人の犯罪だけでなく少年犯罪も多発する昨今、大人の理性も子どもの純真さも信じられず人間不信に陥りそうになる一方で、そういう社会の形成者の一人として責任を痛感し、今後どうしていくべきか考えあぐねていた筆者を、「人間も捨てたものではない」という気持ちにさせてくれる一冊である。(南部英子
図書新聞1997/11/01