ハイジ

ヨハンナ・スピリ作
竹山道雄訳 1881/1953

           
         
         
         
         
         
         
     
 アニメの影響もありハイジという名を聞けば、アルムの森を笑顔一杯元気に走る少女の姿を自動的に思い浮かべてしまう人も少なくないと思います。日本に限らずヨーロッパでもこのアニメの人気は高いらしく、ウィーンや、アムステルダムのTVでも私は観ました。1881年に生まれたハイジは未だに受け入れられているキャラであるようです。どうしてか?
 近代とは二元論が幅を利かした社会といっていいでしょう。例えば文明と自然、大人と子ども、男と女。この対比はフィフティフィフティなわけではなく、主体は前者にあります。「文明人の大人の男」が社会の価値観の基準となるわけです。けれどそうした規範というものはどこかでガス抜きがないと必ずきしんでくるもので、疲れた気分は反対側の要素に惹かれ、憧れます。「自然の中の女の子」。ハイジはピタリそれに当てはまる(ように見える)。だからハイジに与えられた使命は文明人(都会人)の疲れを自然の素晴らしさと彼女の無垢の力で治癒することにあります。アルム(田舎)の山を走るハイジと対比されるのはフランクフルト(都会)の屋敷中で病のため歩けないクララ。ハイジは彼女の話し相手にと、自然から文明社会へ移されるのです。屋敷を取り仕切っているロッテンマイアは礼儀作法(文明)を知らない自然児のハイジを気に入りません。クララの相手として彼女が思い描いていたのは「よく話にも出るような、高い清らかな山地に生きていて、さながら、理想のまぼろしのように、わたしたちの前を歩く」子どもなんですね。あれ?でもこれってハイジそのものではなかろうか 。たぶん作者は、大人が自分勝手に思い描く理想の自然や子どもといったものの眉唾さを指摘しておきたかったのでしょう。もっとも、それを描く『ハイジ』もまた「お話」。ロッテンマイアが読んだお話が『ハイジ』だった、と空想するのも楽しい試みです。
 さて、クララはハイジのおかげで明るくなりますが、自然児ハイジに都会の生活は耐えられずアルムへ帰郷。でもそのおかげでハイジを訪ねてクララがやってくる。豊かな自然の中ハイジに支えられクララは回復し、なんと歩けるようになってしまいます。おまけにクララの主治医クラッセン先生までが、この自然に育まれた無垢な少女に魅了され、アルムに移住してくるしまつ。
 文明社会を享受しつつ自然に憧れる私たちがいる限り、ハイジは無敵(無垢)の少女としての人気を失うことはないのです。その意味でこの子は「理想のまぼろし」です。
 でも、ハイジ、疲れてないかなー。(ひこ・田中)
徳間書店子どもの本だより 1999/08