不透明なコミュニケーション、透明なディスコミュニケーション
『こどものおもちゃ』と『エヴァンゲリオン』

目黒 強

           
         
         
         
         
         
         
         
     

1 コミュニケーションの透過性
 近年、コミュニケーションの必要性が声高に叫ばれている。続発する少年犯罪が火をつけたのであろうが、そこに共通して見出されるのは、ディスコミュニケーションの時代であるという状況認識だ。ここで注意されたいのは、ディスコミュニケーションの内容が何なのか判然としない点である。
 たとえば、柳美里ールドラッシュ』(一九九八)は、著者が公言したこともあって、酒鬼薔薇事件に結び付けられて語られた。酒鬼薔薇事件が神戸のニュータウンで起きた事件であるのに対して、『ゴールドラッシュ』は横浜の猥褻な街が舞台である。宮台真司『まぼろしの郊外』(一九九七)が指摘するように、酒鬼薔薇聖斗を名乗ったとされる少年が置かれていた「郊外」のストレスフルな環境は決して看過されてよいものではない。だいいち、『ゴールドラッシュ』の主題であるオイディプス・コンプレックス的状況を、例の事件に見出すには、かなりアクロバティックな転倒が要される。結局のところ、『ゴールドラッシュ』を酒鬼薔薇事件に結びつける要因は、作者の発言を除けば、それが少年犯罪を扱っているという一点だけなのではないか。通常であれば、殆ど関連性が認められない以上のような短絡が起こってしまうことに、われわれは驚くべきなのである。東浩紀『郵便的不安たち』(一九九九)が言うように、「『ゴールドラッシュ』の少年を酒鬼薔薇少年だと思う読者は、酒鬼薔薇事件の不気味さをまったく見ていない。逆にあの小説が売れるとすれば、 それはむしろ、人々が少年犯罪についてあまり考えたくないから」なのだ。
 たしかに、酒鬼薔薇事件はディスコミュニケーションの気分を蔓延させた。しかし、そこで語られていたのは、「心の闇」あるいは「キレる」などといった曖昧なイメージでしかない。つまり、われわれは、ディスコミュニケーションの内容を知らない。にもかかわらず、ディスコミュニケーションの時代という共通認識を抱いている。言うなれば、内実を欠いたまま、ディスコミュニケーション的であるという外殻だけがコミュニケートされているのだ。ディスコミュニケーションの内容そのものは空虚であるとしか言いようがないのである。ディスコミュニケーションの内容が空虚であるということは、透過性が高いということである。小論では、以上のような状況を指して、「透明なディスコミュニケーション」と呼ぶことにする。次節以降で議論されるように、近年の児童文学および隣接領域のサブカルチャーは、ディスコミュニケーションがコミュニケートされる逆説的状況を、かなり正確に捉えていた。一方で、「不透明なコミュニケーション」を提出できた作品は、あまり見当たらない。その理由は、「コミュニケーションは透明である」という幻想が形を変えて強化されているからに他ならな い。
 「コミュニケーションは透明である」という幻想は、ディスコミュニケーションという気分が蔓延している時代においては、もはや消滅したかに見える。しかし、先に指摘したように、ディスコミュニケーションがコミュニケートされている現代社会そのものが透過性の高い社会なのではないか。たしかに、「透明なコミュニケーション」は、価値規範が共有されていると信じられている共同体においてこそ流通するものである。共同体が縮小および細分化された現代社会において、「透明なコミュニケーション」は保証されない。しかし、インターネットに代表されるような情報化社会においては、離散した共同体は容易に短絡されてしまう。インターネットは通常であれば共同体間に生じるコンフリクトを回避したまま、コミュニケートすることを可能にするからである。インターネットは、最も理想的な形で、「透明なコミュニケーション」を実現したのである。その結果、「不透明なコミュニケーション」は、事故ないし事件として片付けられる。「不透明なコミュニケーション」が日常であった時代は終わったのだ。以下、二つの作品を見ていくが、そうすることで少しでも、コミュニケーションが 困難な時代状況に漸近できればと思う。

2 不透明なコミュニケーション
 小花美穂『こどものおもちゃ』は『りぼん』一九九四年八月号から九八年十一月号にわたって連載された少女マンガである(引用は集英社刊行のコミック版から。以下煩瑣なので『こどちゃ』と表記)。
 ストーリーは以下の通り。「紗南は、芸能界で活躍中の中学生。小学生のとき、母・美紗子が、紗南の出生の秘密を書いたエッセイを出版。その騒動の中、紗南の心の支えになったのが、同じクラスの羽山だった。(略)その後、羽山と同じクラスの小森が行方不明になる事件も起きた。羽山は小森を探し、連れて帰ってきた。でも、腕を刺されて大ケガを。(略)そして、ついに、2人[紗南と羽山、引用者注]は「両想い」に。だが、羽山が父の転勤でロスに行くことに。そのショックから、「人形病」という心の病気になり、笑顔が消えてしまった。本人は笑ってるつもりでも、全然顔が笑っていないのだ(以下略)」(『こどちゃ』十巻)。
 以下、必要な情報を補足しておく。紗南と羽山は小学六年生のときのクラスメートなのだが、そのときに流行していたのが「先生いびり」で、羽山はそのリーダー的存在であった。羽山の母親は彼を産んですぐに亡くなっており、姉から「悪魔」呼ばわりされて育った彼は、必要とされない不安と罪悪感に苛立っていた。一方、紗南は、育ての母親である小説家の美紗子が出生の秘密を書いたエッセイを出版することに不安を覚えていた。美紗子がエッセイを出版したのは、紗南を捨てた母親にコンタクトする手段であったからだ。紗南が芸能活動を始めたのもまた、紗南自身が有名になることで、自らの存在を産みの母親に知らせるためであった。紗南は産みの母親に会うこと以上に、美紗子に「捨てられる」かも知れないことに不安だったのである。目的は実現し、紗南の母親が現れる。紗南は、彼女とその叔父との間に産まれた。そのとき、彼女は十四歳だったと言う。
 以上のように、『こどちゃ』は、学級崩壊・家庭崩壊・少年犯罪・心の病など、ディスコミュニケーションの時代を示すとされる典型的な事例を取り上げている。しかし、『こどちゃ』の同時代性は、その内容にはない。われわれが『こどちゃ』から受け取るのは、その内容以上に、表現そのものであるからだ。ある意味、『こどちゃ』では、「内容」と「表現」の力関係が逆転している。小花の発言を借りるならば、『こどちゃ』は「シリアスとギャグが文字どおり「紙一重」で入っているまんが」(一巻)なのである。これは単に、シリアスな内容をギャグによって相対化するといった、ありふれた表現の仕方ではない。小花が言うように、それらは文字通り「紙一重」なのだ。
 たとえば、羽山家の事情を知った紗南は羽山家に押し入り、家族に向かって次のように言う。「名付けて「親子丼バカ」!」。続けて、羽山の学校での素行をまくしたてた後、「…家の中で悪魔悪魔って言われて育ったら…私だって…本当の悪魔になっちゃうよ!」と涙する。言うだけ言って嵐のように出ていったかと思えば、次のコマで「―あ ドラマ見て下さいね」と半開きのドアから顔を覗かせる。ギャグとシリアスな場面が交互に現れるシークエンスだが、紗南は表現を使い分けているのではない。紗南にとって、それらは分離不可能なものなのだ。この一連のシークエンスで、紗南は最後に自分が出演するドラマを宣伝する。ここだけ見れば、それは「ギャグ」でしかない。しかし、このドラマは羽山家の現実と似た設定(紗南が演じるのは自分を産んで入院を余儀なくされた母親をもつ次女・美香)がなされており、美香が母親に必要とされたから産まれることができたことを伝えていた。最後の台詞は、「ギャグ」であると同時に「シリアス」でもあったのだ。
 以上のような二重性は、内容レヴェルにおいても現れている。『こどちゃ』は、深刻な問題を描きつつも、全体としてはドタバタ劇である。通常、このようなスタイルの物語で、羽山がクラスメートに刺され、後遺症から片手が不自由になる展開を予想することは難しい。小森という少年は、羽山に対する一方的な思い込みから羽山を刺してしまう。しかし、そのような少年犯罪以上に、事件なのは、『こどちゃ』のような作品に通常であれば齟齬をきたす場面が何の違和もなく表現されてしまっていることの方なのだ。言うまでもなく、これは、先に指摘した二重性が可能にしたものだ。
 以上の傾向を押さえれば、紗南のコミュニケーションの性格が見えてこよう。紗南のコミュニケーションとは、「表現」が「内容」に畳み込まれる運動の連続であると理解できまいか。「表現」が常に「内容」に組み込まれるため、紗南のコミュニケーションの情報量は過剰にならざるえを得ない。その結果、誤解やすれ違いが頻繁に生じる。紗南の言動が常に多義的であるのは、このためである。
 たとえば、紗南は羽山が幼稚園のときにある女の子にキスをした話を聞いて、「やーっぱキス魔なのねー あんたって!」とからかいにやって来る。「恋愛オンチ」の紗南は自分が羽山に二回キスされたのは、羽山が「キス魔」であったからだと納得している。いい加減、自分の気持ちに気づいているだろうと思っている羽山は、そんな紗南に対して、「…違うだろう…よーちえん時と…その…去年と…」と反論する。普通であれば、これで通じるのだが、紗南の返答は「ったく アンタって友達としてはちょっとはいいヤツだけど…オトコとしてはとんだこまったちゃんよね―っ」。あまりの鈍感さにあきれた羽山は「てめーこそ 女失格なんだよっ」と言い返すが、紗南の返事は以下の如くであった。「はぁ〜ん ホワッチュアネーム 」。習いたての英語教科書の常套句が唐突に飛び出すのである。
 紗南が照れ隠しのために、このように演技しているのだと理解してはならない。そうであれば、羽山は怒るどころか、喜んだはずである。羽山が苛立つのは、紗南のコミュニケーションが不透明であるからだ。このように時には、「表現」が「内容」に対して過剰であるために、メッセージとしては意味不明なものになることも多い。このようなコミュニケーションにおける「内容」に対する「表現」の過剰とは、一体何であったのか。それは、「人形病」に示されている。
 「人形病」とは、身体的な病因が見当たらないにもかかわらず、「顔」の表情が消えてしまう病気である。「表現」(無表情という情報以外の)を介さずに、「内容」のみでコミュニケートしている状態を指す。小論に即して、ディスコミュニケートしたまま、コミュニケーションを試みているのだと言ってもよい。これが如何に異常であるかは容易く想像できるだろう。紗南の場合、設定上、「表現」が過剰であったため特異に見えたかも知れないが、コミュニケーションとは「表現」に媒介されるが故に、常に不透明なものなのである。「内容」が「表現」に邪魔されないということは、コミュニケーションを容易にするようでいて、そうでないことは「人形病」の紗南を見れば明らかだ。反対に、羽山家での一件がそうであったように、紗南の不透明なコミュニケーションは結果として、羽山家を好転させた。このような紗南をして、「人形病」という「透明なディスコミュニケーション」の罠に陥らせたところに、『こどちゃ』のアクチュアリティがある。もちろん、われわれが『こどちゃ』から受け取るのは、むしろ、「不透明なコミュニケーション」の快楽であることは言うまでもないだろうが… 。

3 透明なディスコミュニケーション
 「人形病」がそうであったように、『新紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」もまた、「透明なディスコミュニケーション」の典型である。以下、「人類補完計画」に着目して議論してみたい。
 『新世紀エヴァンゲリオン』は、一九九五年十月から九六年三月にかけてテレビ東京系で放映され、九七年三月に『シト新生 DEATH&REBIRTH』、同年七月には『THE END OF EVANGERION Air/まごころを、君に』がそれぞれに劇場公開された。テレビ版から劇場版に至る詳しい過程は割愛するが、劇場版『Air/まごころを、君に』がテレビ版最終二話(二五話と二六話を指す)とは違った、もう一つの最終二話として位置付けられていたことは確認しておきたい。というのも、「人類補完計画」はテレビ版と劇場版に分割されて提示されたからである。果たして、「人類補完計画」とは何だったのか。
 テレビ版が最終二話で、ストーリーを放棄したことは有名である。ストーリーを追う余裕がないので、その設定のみを記す。汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオンは、出自が不明な「使徒」(シトはヒトになりえたかも知れない可能性の一つであったことが劇場版で明らかにされる)の撃退を想定された生体兵器である。エヴァンゲリオン(以下煩瑣なので「エヴァ」と表記)に搭乗できるのは、エヴァにシンクロ可能な十四歳の少年少女たちに限られる。主人公の少年碇シンジもまたパイロットとして、父親が統括するネルフという機関に所属している。ネルフはゼーレの下部組織として、「人類補完計画」というプロジェクトを推進していく。人類補完計画を縦糸に、碇シンジを中心としたコミュニケーション問題が緊密なストーリーとともに語られる。私は先にテレビ版最終二話がストーリーを放棄したと述べたが、それは人類補完計画を中心とした世界観に関する謎の解明が頓挫したことを指す。最終二話は、世界観の解明ではなく、碇シンジの内面世界のみを描いていく。
 テレビ版二五話で「人々が失っているもの/喪失した心/その心の空白を埋める/心と、魂の、補完が始まる/全てを虚無へと還す/人々の補完が始まった」として、人類補完計画は姿を現す。前半で主要な登場人物の「喪失した心」が語られ、それぞれに補完が必要なことが示される(『エヴァ』の引用は全て、角川書店刊行の『ニュータイプフィルムブック 新世紀エヴァンゲリオン』から)。二六話では「時に西暦二〇一六年/人々の失われたモノ/すなわち、心の補完は続いていた/だが、その全てを記すには、あまりにも時間が足りない/よって今は、碇シンジという名の少年/彼の心の補完について/語ることにする」と断った上で、「CASE3」として碇シンジの心の補完が語られる。彼にとっての補完とは、「僕はここにいてもいいんだ」という台詞に集約される。長いモノローグを経て、彼は自己承認に辿り着く訳だ。それに呼応するかのように、「おめでとう」という祝福とともに、彼は自らの閉じられた内面世界に別れを告げることになる。
 そもそも、彼がエヴァに搭乗したのは、世界の救済とは全く無縁な動機、すなわち他人に必要とされたいという他者承認に対する欲求からであった。したがって、最終話における自己承認が他者による承認を以って「補完」されるという図式は、アイデンティティ確立の手続きそのものであり、一貫した主題なのである。
 当初、「人類補完計画」は、「心の壁」(作中では「ATフィールド」と呼ばれていた)が溶解した、自他が未分離な共生状態への回帰を意味していた。にもかかわらず、最後は「心の壁」に遮られた世界が選択される。これもまた、ある意味で「補完」であったことは既に述べた。果たして「補完」は失敗したのか、成功したのか。おそらく、このような問いはさして重要ではない。われわれが見るべきは、「補完」が二つ提示されたこと自体であるからだ。当初予定されていた「人類」の補完は語られず、代わりに「シンジ」の閉ざされた内面世界のみが描かれたのは何故なのか。あたかも、「シンジ」の補完が「人類」の補完であるかのように。しかし、短絡された二つの「補完」は、実はエヴァそのものに既に体現されていた。
 作中で明らかにされたように、そもそもエヴァは母親の「魂」が埋め込まれた器であり、搭乗者は「LCL」と呼ばれる羊水に似た液体に満たされたコクピットの中で使徒と戦う。コクピットの中での全能感は、幼児のそれと同質なものであろうし、その限りで部分的にではあるが「補完」は準備されていた。他方、ATフィールドというバリアーを張り巡らす使徒に、エヴァはATフィールドを武器化したプログレッシブナイフで対抗する。それは「心の壁」の衝突に他ならない。一般にこれは、コミュニケーションと呼ばれる。シンジと使徒の戦闘は、使徒という得体の知れない他者とのコミュニケーションそのものなのである。以上のように考えれば、「補完」が二つあることの意味は明らかだろう。誤解を怖れずに言ってしまえば、二つの「補完」とは、エヴァに搭乗したシンジが使徒と戦う姿として、実現されていた。一般化して、エヴァとは、ディスコミュニケートしたまま、コミュニケーションを可能にする技術であったと言い換えてもよい。劇場版でもまた、紆余曲折を経て、シンジはエヴァに搭乗する。しかし、劇場版は、エヴァに乗り続けることの帰結を示した点で、テレビ版とは明らか に異なる。換言すれば、ディスコミュニケートしたまま、コミュニケートすることの実態をそれこそ映像として示していた。劇場版における人類補完計画は、テレビ版のそれのメタ・レヴェルを構成しているのだ(以下、「劇場版」と言う場合、九七年七月に公開された作品を指す)。
 劇場版における人類補完計画は少なくとも、物語レヴェルにおいては、「心の壁」が溶解した「単体」への進化を意味する限りで、テレビ版のそれと基本的には変わらない。「ATフィールドを失った、自分の形を失った世界。どこまでが自分でどこから他人なのか分からない、曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分が居なくなってる脆弱な世界」が実現する訳だ。その後に「心の壁」がある世界を望むのもまた変わらない。ただし、物語レヴェルにおいてテレビ版では曖昧であった問題が劇場版で顕在したことに注意しておこう。
 テレビ版に二つの補完が存在したことは既に指摘した。「人類」の補完は頓挫し、「シンジ」の補完のみが焦点化された。劇場版では、ゼーレによって半ば強制的に「人類」の補完が実行に移される。ゼーレにとって、シンジの心の空白は利用すべきものであって、「シンジ」の心の補完は副次的なものである。微妙なようだが、この変化は重要である。というのも、劇場版では「シンジ」の心の補完が少なくとも物語レヴェルでの主要な関心事から後退したように思われるからだ。 
 このことは、ゼーレの人類補完計画を利用して、実験中の事故で亡くなった妻の再生を試みた、ネルフの司令官・碇ゲンドウの補完計画が未遂に終わったことからも窺える。少なくともテレビ版までの論理であれば、ゼーレではなく、ゲンドウの補完が実現してもよかったはずである(テレビ版が「人類」ではなく「シンジ」の補完のみを描いたことを想起されたい)。にもかかわらず、劇場版が「シンジ」の補完から「人類」の補完を分離したのは何故か。シンジの心が補完されるという主題は、どこへ行ったのか。
 「シンジ」の補完が「人類」の補完に短絡されるということは、実質的には「人類」を相手にコミュニケーションを試みる暴挙に等しい。当たり前のことだが、われわれは「人類」とコミュニケートしている訳ではない。コミュニケーションはきわめて個別的で機会的なものだ。「人類」を相手にするような共同幻想が強いコミュニケーションは、個別的で機会的なコミュニケーションを排除してしまう。あるいは、排除するために、共同性が築きあげられると言った方がよいだろうか。小論に即して言うならば、コミュニケーションが個別的ないし機会的であるということは、コミュニケーションの透過性が低いということである。したがって、「人類」を相手にしたコミュニケーションとは、「不透明なコミュニケーション」を消去した「透明なディスコミュニケーション」の典型なのである。たしかに、そこには真摯なまでのコミュニケーションに対する姿勢がある。しかし、彼らは自分が誰とコミュニケートしているのか、最後まで知ることができない。「人類」はコミュニケーションの相手にはなり得ないからだ。劇場版が「シンジ」の補完と「人類」の補完を分離したのは、以上のような傾向が広 く見られたからに他ならない。
 たとえば、森絵都『つきのふね』(一九九八)には、まさしく「人類補完計画」を実行しようとしている青年が登場する。二四歳の智には、方舟を建造するように囁く声が聞こえる。智は「彼ら」から方舟を設計するように依頼されたと言うのである。彼は、コミュニケーションが不透明であることに、苛立っている。曰く、「みんながべつべつに生きてるのはいけないことだ。このままいくと人類はますますばらばらになって収拾がつかなくなる。地球には人と人とをへだてる障害物が多すぎるんだ。そこで彼らは、宇宙船のなかで人類をまたひとつにすることにした」。人類補完計画にまさしくシンクロした台詞ではないか。あるいは、角田光代「まどろむ夜のUFO」(九六年に刊行された同名の短篇集に収録)では、恭一という青年に「魂のコミューン」を語らせる。曰く、「一つ一つ、独立した町があるんだ。死ぬだろ、魂がそこに行って、自分に合った町に配属させられるわけ。その場所には、似たようなやつばっかりが集まってんの。価値観とか、善悪の基準とかのね」。
 私は、これらの作品が「新しい」とは思わない。むしろ、陳腐であると考える。しかし、これらの作品が陳腐であるということは、作品の価値を貶めるものではない。それらが陳腐に思えてしまう状況こそが「新しい」と考えるからだ。監督である庵野秀明が劇場版で見せた自己言及的な態度は、『エヴァ』を含めたあれらの作品が陳腐なものとして、何の違和感もなく受容されてしまう状況そのものにあったように思われる。『エヴァ』が過剰に受容されることの苛立ちとでも言えようか。先に述べた「シンジ」の補完の行方は、もはや明らかだろう。庵野は物語レヴェルで、「シンジ」の補完とその挫折をいくら緻密に描いたとしても、それが結局のところ、違和感なく受容されてしまうことに気がついていた。そこで庵野の関心は、そのような受容の仕方にノイズを挿入する方向に向けられる。言うなれば、「シンジ」の補完は、観客に転移している。
 劇中で実写の映像を流し、その中に『エヴァ』の観客そのものを挿入することで、現実の姿を突きつける。以下は、そこで流される登場人物たちの台詞。「わからない。現実がよくわからないんだ」―「他人の現実と自分の真実との溝が正確に把握できないのね」。あるいは「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」―「僕ひとりの夢を見ちゃいけないのか?」―「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」。
 庵野はここで、仮想現実批判をしたいのではない。庵野ほどのクリエイターがこのようにありふれた仮想現実批判をするはずがないからだ。紙幅の都合上、議論は割愛するが、仮想現実に積極的にコミットするのは、それが虚構であるからであって、決して虚構を現実と混同しているからではない。にもかかわらず、庵野が敢えて仮想現実批判というそれ自体が陳腐な言説を置いたのだとすれば、われわれはもはやそのメッセージを見るべきではない。
 同様のことが最後の場面についても言える。ゼーレが企図した人類補完計画は完遂されなかった。テレビ版と同じく、シンジは「心の壁」がある世界を望むからだ。したがって、物語内容からすれば、シンジの補完が人類の補完に回収されているように見える。しかし、テレビ版ではオールスターキャストの「おめでとう」の言葉で以って迎え入れられたシンジは、劇場版では次のように言われる。「気持ち悪い」。この言葉が恋心を寄せていたアスカという少女によって発せられたのだとすれば、その違いは歴然としている。この場面で映画が終わってしまうので断言できないが、シンジ以外に補完から生還できたのはアスカだけのようだ。人類の補完は未だ継続している。テレビ版とは違って、「シンジ」と「人類」の補完の終わりは一致していないのである。その限りで、劇場版では「人類」と「シンジ」の補完が分離されているという小論の主張の妥当性は保証されよう。
 だいいち、「気持ち悪い」というメッセージは、『エヴァ』を映画館まで足を運んで観に来た男性(に限らないが)であれば、女性に限らず、一般にそのように思われていることぐらい自覚しているはずで、今さら言われるまでもない。たしかに、シンジ以外で何故アスカだけが生存しているのかは、別途論じられるべき問題であると考えるが、小論の性格上、それはできない。そこで、先の問いである。
 何故、庵野はかようにまで陳腐な、ありふれた「おたく」批判としか理解されかねないメッセージを置いたのか。もはや、われわれの関心が具体的なメッセージの内容にないことは既に述べた。内容を陳腐にすることで試みたのは、何であったのか。
 あのメッセージは、あまりにも陳腐で説教臭いが故に、観客とのコミュニケーションは閉ざされているかに見える。しかし、観客はそのように了解した時点で、実は庵野とコミュニケートしているのだ。何故ならば、そこでは少なくとも、ディスコミュニケーションが双方向でコミュニケートされているからである。しかも、庵野は、「おたく」批判としては陳腐な言説を敢えて置くことで、逃げ道を封じている。庵野は、ありふれた「おたく」批判が「おたく」にとって、それが的確でないにもかかわらず受容されているが故に、格好の言い訳として機能することを十分知り尽くしていた。「おたく」は「おたく」批判に甘んじることで、自らの存在意義を確立するからだ。「おたく」批判という、批判する側もされる側も本当は信じていない空虚な言説がそれ故に流通してしまう逆接。「おたく」批判とその受容とは、「透明なディスコミュニケーション」がそれこそ、共犯的にコミュニケートされる事態なのだ。庵野はメッセージを徹底的に陳腐化することで、そのような共犯的な居直りを禁じたと言える。私は冒頭で「透明なディスコミュニケーション」を批判したが、庵野がここで行なったのは透明 であったディスコミュニケーションの不透明化であった。以上のような回りくどい手続きを経なければならなかった庵野自身の振舞いこそが、「透明なディスコミュニケーション」のコミュニケートという今日的問題に対する抵抗であったことを強調しておきたい。
 
4 コミュニケーションの強度
 われわれがコミュニケーションを開始するとき、ディスコミュニケーション状態から始まる。ディスコミュニケーションの内容は未だ分からない。したがって、ディスコミュニケーションの内容を知ることがコミュニケーションの前提であるように思われるかも知れないが、そこに陥穽がある。ディスコミュニケーションの内容を知ることで安心するとき、われわれはディスコミュニケーションを透明化してしまっているからだ。小論が「不透明なコミュニケーション」に執着する理由は、ここにある。
 私は一節でディスコミュニケーションの内容が曖昧なイメージで語られることを批判した。それは、結局のところ、ディスコミュニケーションを流通可能なイメージに回収することで透明化することに他ならない。だからといって、ディスコミュニケーションを神秘化してはならない。「心の闇」などのような神秘化こそが最も流通し易い安直なイメージであるからだ。したがって、小論の批判は、ディスコミュニケーションの内容が分からないことにではなく、分からないということに耐えられずに安易なイメージで語られてしまうことに向けられていたものとして理解されたい。「不透明なコミュニケーション」は常に「強度」を要求するものだ。
 『こどものおもちゃ』では、コミュニケーションにおいて「表現」が「内容」を剰余する結果、コミュニケーションとは徹底して不透明なものであるということを示していた。しかし、それは時として、コミュニケーションに「強度」を要求する。その「強度」に耐えられないとき、「透明なディスコミュニケーション」といった逆説的事態が欲望されるのだ。庵野秀明が演じて見せた、「透明なディスコミュニケーション」を不透明化する一連の試みは、「不透明なコミュニケーション」が事件として訪れる、きわめて現代的なイベントであったと言えよう。

(付記)小論で割愛した登場人物に関する議論については、「児童文学評論UNIT2001」に連載中の拙文「「碇シンジ」とは誰か」を参照していただけたら幸いです。

※初出、『日本児童文学』二〇〇〇年一・二月号。
※ 初出時の記述で紗南が出演するドラマの設定が間違っていました。美香の母親は亡くなっていません。入院中でした。文意に不都合はないので、事実関係のみ訂正しております。作者および読者の皆様にお詫び申し上げます。 (目黒 強)
日本児童文学2000/01.02