フィオナの海

ロザリー・K・フライ
矢川澄子訳/集英社

           
         
         
         
         
         
         
     
 『フィオナの海』の本を手にした時、何と美しい繊細な感じがする本かと思った。海を表わす青緑色の表紙、そして、フィオナとあざらしが心を交すように、手を、首を伸ばしあう姿が黒い細い線で描かれる。そして文字は緑色。汚さないようにそうっとページをめくった。
 原題は、『CHILD OF THE WESTERN ISLES』-西の小島の子供-である。この「CHILD」は単数形だが、私はその中にジェイミーだけではなく、フィオナ、そしてローリーまでもが含まれる気がしてならない。あざらしと繋る心を持つ者として、それは古代ケルト民族の伝説を受け継ぎ、次代に伝える子供達でもある。舞台は、スコットランド北西部、わびしい海沿いのロン・モル島で、10才のフィオナが、4年前に消息を断った弟ジェイミーを自らの手で取り戻す物語である。
 この物語は、ケルト民族の民間伝承に出てくるセルキー伝説を背景とする。セルキーとは、トサカアザラシや灰色アザラシなど、非常に大型のあざらし族で、海底の乾いた場所や淋しい岩礁に人間の姿として住んでいて、移動の際にあざらしの皮をまとい、あざらしの姿となると信じられていた。セルキーはもとは人間で、罪を犯したために海に追放されたとする考えや、地獄へ落とされるほどではない罪を犯して天国を追放された天使が、陸に上がった時だけ人間となることが許されるという言い伝えもある。とても美しい人間の姿のセルキーは、砂浜でダンスをする際、毛皮を脱ぐ。その光景を見た人間が恋に落ち、毛皮を持ち去ると、セルキーの女は囚われの身同然となり、人間の男と結婚する。セルキーの女は良妻賢母であるが、心はいつもセルキー族の実の夫の方にあり、毛皮を見つけると急いで海底の自分たちの世界へ帰ってしまう、という。(『妖精Who's Who』キャサリン・ブリッグズ/『ケルトの妖精』井村 君江・参照)
 いささか日本の羽衣伝説と似通ったところのあるこのセルキー伝説が、この本では遠いおとぎ話としてではなく、現在の時間に生き生きと描き出され、事実かと思う話に仕上がっている。フィオナは、弟を捜す強い意志をもって独り船旅をする。読者はその最初の場面から、かもめ、あざらし、海、ジェイミーにまつわる不思議な謎解きを楽しむこととなる。それは、フィオナの回想やおじいさんの話などで段々と解明され、遂にジェイミーが「ロン・モル・スケリーの子」(セルキー族の子)であるという事実に行き着くのである。そして、伝説を否定し、ジェイミーが海にさらわれるのを止められなかった現実的な父は、島を離れ街に住み、物語の最後まで実際に姿を現わすことはない。反面、伝説を自然に素直に受け入れるフィオナやローリーは、祖父母を動かしロン・モル島へ帰ることで、ジェイミーと再会する事ができるのだ。
 あざらしの族の長(チーフタン)は、島の住民を乗せたトロール船が入江を出る時、とても悲しそうに鳴いていた。そして空き家になったマッコンヴィル家にジェイミーを連れて行き、守り育てた。フィオナはその不思議な光景を目の当たりにしている。
「テーブルの一方の端にはジェイミーがすわり、向かい側には族の長がまるで人間のように、しゃっきりと背筋を伸ばしてすわっていた」(122)            ジェイミーを、あざらしとして育てたのではなく、族の長は人間として育てようとしていたのである。
 そして族の長は、人間から逃げようとするジェイミーをフィオナ達に戻そうとするのだ。おじいさんはこの時こう言った。
「あいつら、子供がどこに帰るべきなのか、ちゃんとわかってるんだ。ああ、なんてこった」(173)
 私はこの場面でいつも目頭が熱くなる。人間とあざらしの間に共通の言語がある訳ではない。しかしフィオナ達はあざらしに信頼してほしいと願い、あざらし達はフィオナ達を完全に信じたから、愛するジェイミーを人間の手に戻した。
 この本に奇跡が描かれながら、全く嘘くさくないのは、どうしてだろう。あざらしに育てられた子供が、人間に容易に適応できない部分までも詳細に描かれ現実的で、あざらしがあくまでも、妖精でなくあざらしの姿のままで描かれたからかもしれない。私は読みながら、狼に育てられた少女のことを思い出していた。
 マッコンヴィル家に代々伝わる特製海草スープに喜んで飛び付くジェイミー。「大丈夫、この子の面倒はちゃんと見るよ。もうぼくたちが戻ってきたんだもの」(176)というローリーの言葉に満足そうに鼻をならして海中に消えて行く族の長。伝説の世界に住む者と人間世界に足を下ろす者が、「信じる」ことを接点にして互いに歩み寄る。そこでは人間の浅はかな科学力や人間の傲慢な知識など力を持たない。自然を信じ、人間もその一部に過ぎないことを素直に受け入れた者のみに許される奇跡が、この本の中では違和感なく起っている。マッコンヴィル家はフィオナ、ローリー、ジェイミー達によってロン・モル島で静かに続くだろう。それは遠い昔から、つまり、イアン・マッコンヴィルがロン・モル・スケリーの女性と結婚した時から、マッコンヴィル家はあざらしの一族となる運命を背負ったからだ。ジェイミーは人間よりあざらしに近い者として生れた為、海を離れては生きられなかったのだろう。それを知るあざらしやかもめや海が、街に行こうとする人間達からジェイミーを守るために彼をさらったに違いない。そこには人間の親子の血の繋りを超える偉大な運命の血の流れがある。そし て族の長はマッコンヴィル家の人々が島に戻ってくることを運命としてずっと待ち続けていたのだ。
 では、このセルキー伝説を持つケルト民族とはどのような人々なのか、少し書いてみる。
 南ドイツ付近で起った古代ケルト人は、紀元前900年頃移動を始め、それから500年もの間各地へと散った。そしてヨーロッパ大陸に広がった「陸のケルト」と、スコットランド、ウエールズ、アイルランドなどに定住した「島のケルト」に分かれていく。ケルト民族はその意味で、「ヨーロッパのルーツ」とされる。また、紀元前55年にブリテン島に渡ったジュリアス・シーザーが『ガリア戦記』(シーザーはケルト=古名ケルタエをガリア人と呼ぶ)の中で、ケルト人の風俗や神々などを描くが、島のガリア人のほうが、陸のガリア人より未発達だと言っている。
 ケルトの文学はもともと口伝えによるもので、自然崇拝という固有の文化を築き上げ、その伝説や神話体系も、森や海の生き物、植物、妖精といった精霊的なものを主人公とし、人間と精霊達の共同生活を描くものだという。(『ケルトの神話』井村君江 参照)
 そういった歴史的背景からこの本を見ると、単に伝説を借りて、弟捜しに成功した一少女の物語という趣旨では足りないような気がする。薄れゆくケルトの血への悲哀、また、過去を忘れ伝説を捨てて、便利さや機械化の波に乗る、現代の私達への静かな警鐘になっているのではないかと思うからである。現代人は、フィオナの父に代表されるように、ジェイミーやセルキー族と訣別する運命を持つのかもしれない。伝説の中には、遠い太古から脈々と血の奥で流れる思いがある。それは、人間という種を超えた自然との共存、共感の思いである。しかし、これこそ現代人が、今素直に受け入れるべき思いなのではないか。ジェイミーという何物にも代え難い宝を見失う前に。『フィオナの海』は、この本の装訂のように、美しく繊細な内容だった。私は、海辺で透き通った貝殻を見付けたような気分に浸っている。(千葉綾子)
「たんぽぽ」16号1999/05/01