ぼくはきみの友だちだ

劉心武

石田稔訳 福武書店 1987

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 遊びに夢中になって、つい帰宅が送れ親に叱られたとか、友達の宿題の答えを写して登校し、学校でヒヤヒヤしていたとかいう経験はないだろうか。おそら大抵の大人は子供時代に、そして多くの子供はつい最近にでも、一度や二度は似たような苦い経験があるのではあるまいか。この本は、そのようなどこにでもいそうな少年の、どこにでもありそうな日常生活を生き生きと描き、大人には郷愁を、子供には共感を感じさせる作品である。
 舞台は、中国の首都北京。主人公且つ物語の語り手である小学四年生の少年「ぼく」は、年相応に腕白盛りで、紙ロケット遊びに夢中になりすぎて、頼まれた伝言を伝え忘れたり、テレビを見たいがために、友達の宿題の答えを丸写しし、先生に注意される。また学校のハエ退治競争では、自分より多くハエを捕らえていた友人を妬み、その友人に勧めて彼のハエを金魚に与えさせる。そのため友人の手持ちのはハエ数は減り、「ぼく」が優勝できるが、金魚は具合が悪くなる。
 しかし「ぼく」にも良い所はある。ハエ退治競争で表彰された日の晩すぐに後悔し、友人と先生の所へ謝りに行く。また自分が伝言を忘れたために、遠路はるばる娘の家まで出かけて行った近所のおじさんに対しては、急いでバスで追いかけて謝り、彼の車椅子を押して帰って来る。そしてそれ以降は、意思を強く持って、どんな愉快な遊びの途中でも、夕方五時になったら帰宅しようと懸命に努力する。また国語の試験では、わからない漢字が偶然自分の消しゴムの裏に書いてあったことを思い出し、それを見てしまいたいという強い衝動にかられるが、必死でその誘惑に打ち克ち、消しゴムを窓から投げ捨てる。この意思の強さと潔白さには、思わず拍手を送りたくなるほどだ。
 ではこの作品の魅力は何か。まず読者の共感できる物語世界の設定であろう。特に悪人が登場する訳でもなく、格別不幸な境遇の子供を巡る話でもない。むしろ両親揃ったごく平均的な家庭の、長所も短所もあるごく普通の少年の、学校生活、勉強、遊び、友達関係などごく平凡な事柄を、子供の視点で素直に捕らえた作品である。従ってのびのびとしていて、中国の児童文学にしては珍しく教訓臭も、強くはない。読者の中には、この身近な世界に親近感を覚え、主人公に、現在あるいは過去の我が身の分身を見いだす人も少なくないのではあるまいか。
 次に登場人物の好ましさが挙げられよう。子供特有の腕白さ、残酷さ、身勝手さを持ちながら、思いやり、優しさ、自省心・克己心などをも同時に持ち合わせ、少しでもよい人間になろうと努力する主人公の姿には好感が持てる。また他の登場人物達も、一時的に悪さをする子供達はいるにしても、皆善人ばかりである。これは作者の人間に対する信頼と、一人一人の人間を愛そうとする作者のおおらかさの表れである。作者のこの人間に対する暖かい目は全編にみなぎり、そのために読者は、作品世界を、自分を受け入れ、安らぎを与えてくれる世界と感じるのである。
 また中国の風俗・習慣などがよく描かれていることも、外国の読者には魅力と言えよう。四合院という建築形態、中国将棋、ハエ退治競争などは日本ではあまり見られない。また四軒に一台というテレビの普及率も日本とはかなり違う。邦訳書の漢字に添えられた中国語の音も、同じ漢字を使う国民として大変興味深い。このような国による生活様式・文化・言語の違いを知ることも、この本の一つの読み方と言えよう。しかしそれ以上に、それらの違いにもかかわらず、人間の心はどこでも変わらないということに気付くことの方が、もっと作者の意図に即した読み方ではあろう。
 作者の暖かい目に見守られながら、万人共通の心を持った主人公は確実に成長していく。中国将棋の対抗試合で負け、手加減されない厳しさを知る。また些細な事で喧嘩し、なかなか仲直りできないでいた高山菊という女友達が引っ越すと聞き友達の大切さに気付く。主人公は「ぼくが友だちの大切さをわかっていなかったとき、ぼくは毎日、高山菊といっしょに勉強したりあそんだりしていた。ぼくが友だちの大切さをわかったとき、高山菊は遠くへいってしまう。」と思う。彼は既に、友の大切さだけでなく、人生の不条理にもおぼろ気ながら気付き始めている。その彼が、『きみはぼくの友だちだ』というのではなく、タイトルにあるように『ぼくはきみの友だちだ』と言っているのは、どういう意味があるのか考えるのも、この本の重要な読み方の一つか。(南部英子
図書新聞1988/03/26
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