ぼくのすてきな冒険旅行


シド・フライシュマン 作


久保田輝男 訳
長尾みのる 絵
学習研究社 1965/1970

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 この物語が、いかにおもしろいかということは、たぶん一読した人なら覚えているだろう。そして、これから一読する人は、この言葉が嘘でないことにすぐに気づくだろう。きわめて真面目な姿勢で、人生や人間の生き方を説く物語はたくさんあるが、読者をぞくぞく楽しませながら、いつのまにか、人生や人間の生き方を示す物語はそうざらにはない。シド・フライシュンマンのこの一遍は、まさに、その「ざらにはない」物語のひとつなのである。
 話は、ゴールド・ラッシュの時代。アメリカ東海岸のボストン港を出航したレディ・ウィルマ号の貯蔵庫から始まる。突然、ジャガ芋の樽の中から2人の密航者が姿をあらわす。少年ジャックと、没落寸前の屋敷に執事として住んでいたプレイズワージである。この2人は、南アメリカの最南端を経由して、サンフランシスコにいこうというのである。
 いうまでもなく、カリフォルニアは金発掘の人びとで湧き立っている。ゴールド・ラッシュの発端は、1848年1月の、大工ジェームズ・マーシャルの金発見である。シエラ・ネバダ山中のアメリカン川で、溝ほり中に発見。それが引き金となって、一角千金の夢を見る男たちが、われもわれも蝟集しはじめた。
 プレイズワージと少年ジャックも、またおなじ夢につき動かされている。ただ、ほかの男たちと違っている点は、じぶんの欲のためではなく、没落の危機に瀕した若きアラベラおばさんを救うためである。
 2人は、「手に手をたずさえ、あらいざらいふたりの金をかきあつめて、(中略)こうしてひろい世間へ旅だったのだ。ところが、指先の器用な巾着切りの手にかかって、いきなり世間のせまさを思いしらされるはめになった。すなわち、ジャガイモのたるのなか、である。」(アンダーライン筆者)密航は発見され、2人は船長「海の猛牛」の命令で「かまたき」を命じられる。事件は続いておこる。レディ・ウィルマ号には、泥棒「むこう傷のヒギンズ」がのりこんでいる。2人は、この男を捕らえるが、リオで逃亡されてしまう。
 物語の前半は、思いもかけない事件にまきこまれた2人と、「海ガラス号」と競争するレディ・ウィルマ号の話が描かれる。しかし、ここで「おもしろい」というのは、そうした事件の設定や筋書きの波瀾万丈性をいうのではない。それも結構おもしろいが、それ以上に「おもしろい」のは、登場人物それぞれの性格づけである。「海の猛牛」船長といい、プレイズワージといい、くっきり人物像が浮かびあがってくる。そうしたキャラクターの葛藤こそ、前半だけではなく、後半にも通じる「おもしろさ」なのである。プレイズワージが、どんな人物かということは、つぎの引用で多少わかるだろう。

 ふたりはちょっとおしだまった。ジャックはときどき、心に大きな穴のあいたような、さびしい気のすることがあった。それは、アラベラおばさんでもうずめられない、大きな穴だ。
 ジャックは、プレイズワージとふたり、たとえカリフォルニアで金が見つけられなくっても、いっしょに旅ができ、冒険を、いや不幸をさえ、わかちあえるのがうれしかった。
「きみはずっと執事(バトラー)だったの?」と、ジャックはきいた。
「ずっとです。」
 ジャックは目にかかった髪の毛をかきあげた。
「つまりさ、もし執事でなきゃ、家にいたときみたいに、ぼくをジャック坊ちゃまなんてよぶ必要はないと思うんだ。今、ぼくらは相棒だろ。だから、ぼくをジャックってよびすてにしてもいいんだ。ただジャックってさ。」
「そんなこと、とてもできやしません。穏当を欠いています。なりませんな。そんなことは。」
「でも、ぼくはそのほうがいいと思うな。」
「あなたはわたしの身分というものをわすれてはなりません。ジャック坊ちゃま。」
「でも、一山あてたら、きみだってもう判事(バトラー)なんかすることはないだろ。」
「とんでもない。わたしは執事以外のものになんかなろうとは思いませんです。」(以下略)

 プレイズワージが、いかにこちこちの、そのくせ心やさしい人物かということが示される。礼儀や作法などというものが、何の役にも立たない状況にたちいたっても、プレイズワージは礼儀作法をすて去らない。しかし、それも、後半の金鉱探しの泥まみれの生活の中で変わっていく。
「ふたりの相棒はセラ・ネバダの色にあわせて、カメレオンのように自分たちの色をかえた。ふたりは金鉱掘りふうの赤シャツをき、長ぐつをはき、夏の日ざしをよけて、ヘリのひろがった帽子」をかぶるようになる。そして、石英ジャクスンの頭を刈る話、むこう傷のヒギンズとの再会、強盗団の襲撃、松の木ビリーとの出会い……と話は展開し、ユニークなこのコンビは、とうとう金を手に入れる。体中に金の袋をぶるさげて、意気揚々と船でサンフランシスコにむかう2人。しかし、蒸気をたきすぎた船は、港をすぐ目の前にして爆発沈没する。2人は、金の袋をすて、やっとの思いで浮上する。無一文にもどったジャックに、プレイズワージはいう。
 物語はあとすこし続くが、もういいだろう。これは、作品論どころか、唯の「あらすじ」紹介である。しかし、わたしは、このおもしろ物語に、もっともらしい理屈をつける気がしないのである。強いていえば、ここには、冒険小説の魅力を喪失した現代に、冒険物語の復権を具現しようとしているおもむきがある。また、新しいこの冒険譚の中に息づいているのは、きわめてオプティミスティックな「成長小説」の発想である。冒険を経過することによって、少年も執事も自己変革をとげる。しかし、この自己変革には、あの深刻な「求道的」姿勢はまったくない。これをアメリカ的な、もっともアメリカ的な発想といえば、そのとおりだろう。しかし、こんなにも愉快な形で人生を示すことは、わたしたち「まじめ派」には、やはり軽い衝撃なのである。
上野 瞭
世界児童文学100選 偕成社 01979/12/15
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