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 中村光夫は書いている。
 「竹山氏の心底には、この世相にたいする憂慮と、虚脱し荒廃した人々の心になんとか生きる道を見出させ、希望と信頼を復活させたいという意思がみなぎっていたので、この大胆なフィクションはその所産です」(新潮文庫「ビルマの竪琴」解説/一九五九年)と。
 このことばは、竹山道雄の「ビルマの竪琴」執筆の動機にふれたものであるが、実は考えるまでもなく、これだけのことならば、「ビルマの竪琴」以外の作品、たとえば「三本のローソク」の作者にも「あたらしい魔法の町」の作者にも、当てはまったことばだと言えるのである。なぜなら、戦後をむかえて、竹山道雄ならずとも児童文学者の多くはまた、右のような意思を胸中にみなぎらせていたからである。唯、もし、そこに多少にせよ違いがあると言うならば、それは、そのように意思する自己の中において、どのように虚脱と
荒廃を受けとめたか、生きる道を見いだすために内面の葛藤を経てきたか、その戦後意識の深浅にかかっている。
 竹山道雄は戦場を舞台に選んだ。ビルマ戦場に「戦後」の自己の問題を定着させようとした。これは「あとがき」にもあるとおり、作者のどうしても言わねばならぬこと、書かねばならぬことだったに違いないが、しかし、それをもって、わたしは「戦後性」を指摘するつもりはない。戦争の間題は、また戦後に生きる自己の間題意識は、必ずしも「戦争」そのもの、「戦後の荒廃」そのものを描くことによって事足れり-と言ったものではない。もし、それならば、それは素材の戦後性にすぎないのであって、作家や作品の戦後性とはなり得ない。要は、人形芝居に力を注ぐ少年たちを描くにせよ、ローソクを主人公にするにせよ、その作品の中で、どれほどに作家が右の間題意識を追いつめ、深め、形象化しているかという点なのである。
 わたしは、この点において「ビルマの竪琴」の戦後性が、他の児童文学作品と異質のものを持っていることを言いたい。
 すなわち、「三本のローソク」や「あたらしい魔法の町」では、ローソクや教師や母親が、一種の民主主義啓蒙家の立場を反映して一種の固定的善、不変的正義として登揚するが、この作品での主人公。水島上等兵は、絶対的定点としての固定した価値を所有していないことである。水島は相対的である。日本へ帰ろうか、帰るべきでないかと悩む。多くの戦友の白骨を見て、やはりビルマの土となるべきだと決心した後においても、絶対者とは成っていない。
 「隊長がいわれた、一人もれなく日本に換えって共に再建のために働こう-あの言葉は私も本当にそう思っていました。いまでもそうしたいと願います。しかし、一たびこの国に死んで残る人たちの姿を見てからは、自分はこの願いをあきらめなくてはならぬ、と思いました。そして、これはただ私が自分でそう思うというよりも、むしろ、何者かがきびしくやさしく、このようにせよ-といって命ずるのです。私はただ首をたれて、この背くことのできないささやきの声にきくほかはありません」水島上等兵は、帰ることを「あきらめる」のである。自分の中に「残るべきだ」という確信や信念があって、そうするのではない。
 「何者かが」-そうだ、この何者かがと言う問題解決の仕方にこそ、批評家の手によって「宗教的遁世」だとか「東洋的唯心観」と批判されたところだが、ネガティブな検討は後にゆずって、ここでは、ポジティブな検討をすれば-この「何者か」によって「残ること」を決意するのである。水島は、その決心のあとも、自分の選んだ道が唯一絶対の生き方だとは、他人に押しつけない。たとえ、それが、水島上等兵にとって唯一の道だとしても、そこには、他の兵隊をまきこむことがないのである。帰れない。しかし、これは他
人に強制しない。この主人公の提示は、明らかにローソクや人形芝居の人物の提示とは違う。
 先の二作品は、虚脱と荒廃の戦後に希望の光を-という同じ動機から出発しながら、作品を「正義と善を知らしめるもの」として創り出している。しかし、「ビルマの竪琴」では、「正義と善を求めるもの」を知らしめようとしているのである。この違いは、一方が絶対者、他方が相対的人間を描きだしたという以上に作家の戦争に対する内省の違いを示している。児童文学者の多くは、「被害者」である自己についての自覚はあったが、自らも「日本という国家」の一員であり、多くの殺傷破壊の「加害者」であった面を脱落させていた。こう言えば、「汝も、また」一億総ザンゲの精神の持ち主かと問いつめられそうな気もするが、わたしのいう「加害者」の視点とは、戦争遂行協力者の謂ではない。同胞の死、精神の荒廃に対して、自分がいかに対処するか「殺りくの時代に生きた人間」
の責任について言っているのである。
 竹山道雄は、「戦後」を「戦争」との対決なしでは受け取め得ない。単に「被害者」であり「告発者」であるだけでは自己の問題は解決し得ない。時代の「参加者」として、(時代の「同調者」ではない)戦争にむかいあわなければ主体的に戦争を乗り切ることが出来ない-として「ビルマの竪琴」を書いたわけだが、そのことは次の個所によくあらわれている。
 「いま新聞や雑誌をよむと、おどろくほかはない。多くの人が他人をののしり責めていばっています。『あいつが悪かったのだ。それでこんなことになったのだ』といって、ごうまんにえらがって、まるで勝った国のようです。ところが、こういうことをいっている人の多くは、戦争中はその態度があんまり立派ではありませんでした。それが今はそういうことをいって、それで人よりもぜいたくな暮らしなどをしています」(第三話より)
 このことばどおり、戦中と戦後の言動は裏腹で、ぜいたくな暮らしをする人があったかどうかは別として、自分自身で戦争の終結をかちとったような錯覚は多くあったに違いない。敗戦と解放を同一視し、占領軍を解放軍と受けとめたオポチミズムと、この錯誤は基を一にしている。竹山道雄は、これらのオポチミズムが、実は自力で形成した自己の場ではないこと、安易な主体のやどかり的あらわれであることを、多分、批判したかったのであろう。自己の場は自己の手で築きあげねぱならない。それは日本人としての自己の場であり、安直な輸入文化で支えられるものではない。それを築きあげることは、過去から現在にかけていかにあるべきかを、唯、模索することだけにかかっている。
 「ビルマの竪琴」は、この模索の姿を水島上等兵の帰るべきか否かの悩みに形象化し、また、歌い、悩み、時には虚脱する兵士の中に定着させたのである。
 水島上等兵は竹山道雄の「戦争責任」の自己追求の姿である。それは「定点」ではない。結果においては、宗教的とでも呼ぶべき境地に到達させられているが、その境地をあくまで水島個人の立場にとどめることによって、他に及ぼそうとはしていない。もし、この水島の悟道的境地を唯一絶対のものとしたならば、隊長をはじめ戦友すべてにその立場は押しつけられていただろう。しかし隊長と戦友はビルマを去っていく。一方はビルマに他方は日本に。この、おのおのの道を歩ましめる点にもちろん、作者は一人でも多くの共感者・同調者を見出したかったのだろうが、この作品、この人間の生き方によって読者が自らの道を教えられることは、また別問題である。
 わたしは、それが結果として一つの教示になったにせよ、あくまで作品内の主人公は、絶対的善の形で提出されていないことを言いたいのである。自己に悩み、自己の決意にためらい、模索し、ようようにして、自らの道を見出す動的な人物であることが言いたいのである。これは「裁き手」ではないし、「民主主義の教示者」でもない。戦争を受けとめ、考え抜き、自らのあり方を自力で切りひらいた作者の投影である。そのイデオロギーがいかなるものであれ、わたしは、ここに自らの手で「戦後」と対決した一人の作家を見るわけである。
 しかし、この「戦後児童文学」に対して、いったい、いかなる評価が今日まで与えられてきたのであろうか。
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