ベス卜セラーヘの
果敢な挑戦を!

野上暁

ぱろる6号 1996/04


           
         
         
         
         
         
         
    
 いま子どもの本のべストセラーは何かといったら、やはり「ミニ四駆」関係のものだろう。初版数万部、発売数か月で何十万部といった本がたくさんある。ミニ四駆は、田宮模型から発売されているレーシングカーのプラモキットだが、数年前にも一度ブームになったことがある。本体だけだと六百円で、手に入れやすいのと、接着剤を使わなくても組み立てられるから、小さな子どもでも比較的簡単に扱える。それが人気の秘密かと言えばそれだけではない。
 このミニ四駆が、ビックリマンシール以来の久々の爆発的なブームになったのは、それをコミック化して物語によるバックグラウンド作りを展開し続けてきた、雑誌『コロコロコミック』の存在を無視することはできない。同誌は、一年足らずのあいだに部数を倍増させ、今や発行部数百五十万部に迫る勢いだ。
 玩具商品をべースに、それをコミック化して商品の背後に物語世界を構築し、玩具そのものの幻想性を拡大して見せたのは、十数年前のゲームウォッチブームの前後に、やはり『コロコロコミック』に連載された、すがやみつるの『ゲームセンターあらし』が最初であろう。その後、「機動戦士ガンダム」のプラモが人気になったときに登場した『プラモ狂四郎』、第一次ミニ四駆ブームのときの『ダッシュ四駆郎』など、玩具を素材にしたホビー漫画と呼ばれるものが確実に一つのジャンルを作り上げてきたようだ。
 コミック化による、商品の背後に構築した物語世界の拡大とともに見逃せないのは、「改造」という名の、マスプロ商品の個性化、オリジナリティー化である。ガンプラのときも、ミニ四駆でも同じだが、プラスチックモデルは、同じ型で大量の商品が生産される。そこに様々なパーツを取り付け、シールでデザインしたりカラーリングしたりして、それぞれが自分だけのパーソナルメカに仕立て上げる。同型の百万のミニ四駆が市場に出回っていても、その仕上げ方いかんによって、百万種類のミニ四駆が出来上がるのだ。そしてそこには、百万種類の固有の物語が立ち上がってくる。つまり、大量生産大量消費社会のパラドックスが、ミニ四駆のブームを支えているといえるのだ。それはまた、何百万本も売れるテレビゲームのRPGが、プレイヤーごとの固有の物語を展開して楽しめるのに似ている。
 今回のミニ四駆ブームは、ビックリマンブーム以来すっかり冷え込んでいた子ども市場に、久々の活況をよびもどしたようである。ミニ四駆関連商品の売れ行きはもちろん、関連テレビ番組やアニメ、劇場用映画やテレビゲームも数種類登場し、改造本やレーシングテクニックを紹介した単行本も、まさに飛ぶように売れている。これは、第一次ミニ四駆ブーム以上の、メディアミックスの相乗効果による過熱ぶりだ。
 考えてみると、子どもの世界でレーシングカーなどの自動車がブームになったのは、珍しいことではない。ミニカーブーム、レーシングカーブーム、スーパーカーフーム、それに続くスーパーカー消しゴムブーム、ラジコンフーム、チョロQブーム、そしてミニ四駆ブームと、数え上げると相当の数になる。そこに、テレビゲームや漫画アニメのレーシングものやF1ものの人気を加えると、車に寄せる子どもたちの人気は、時代を超えてかなりのものであることに、今更ながら気づかされるのだ。
 ところが、そういった車に対する子どもたちの、普遍的ともいえる興味や関心をとらえた子どもの本は、極めて少ないのが現状だ。幼児向けの乗り物絵本や図鑑が、相変わらずの隠れたべストセラーになっているものの、読み物では完無にひとしいのではないか。これは、どういうことなんだろう。
 子どもは車を運転することができないから、日常的な興味や関心から遠いと思われているわけではあるまい。幼児のうちから、異常ともいえる関心を持っていることを、だれもが体験的に知っているはずだ。にもかかわらず、それが素材やテーマとなった子どもの読み物が少ないのは、どういうわけなのだろうか。
 幼児が自動車に興味を抱くのは、乗用車よりもむしろ、パトカーや消防自動車や働く車といった特殊車である。その形態やカラーリングや機能が、すでに日常性を超えた物の方に人気が高い。その共通項をあげると、異様な音を出す、信号を無視して突っ走る、犯罪や火災といった明確な「敵」を相手にスピードや特殊なパワーを発揮する、などを上げられようか。ブルドーザーやパワーショべルやダンプカーなどの働く自動車は、その巨大さや形態の異様さ、特殊なパワーが魅力なのだろう。
  こうして共通項を見ていくと、それは怪獣や巨大化ヒーローの特性と限り無く重なっていることに思い当たる。言い方を変えれば、一種の暴力性なのだ。スーパーカーやレーシングカー、F1などの場合も、爆走するスリルとスピード、カラフルで奇妙なカーデザインが魅力なのだから、同じであろう。ミニ四駆の場合、そのデザインたるや、じつに現実離れした異様さをあらわにしている。玩具それ自体は三十二分の一にスケールダウンされているからまだしも、それが実寸化されたらものすごい怪物マシンになるはずだ。
 幼児向けの乗り物絵本ゃ図鑑では覆い隠されていた、潜在的に車の持つ、怪獣や巨大ヒーロー類似の暴力性や暴走は、それが物語化されたときに、否応なく露出してくる。子どもの読み物に、そういった車の危うい魅力が狙上してきにくいのは、あまりにも教育的な呪縛の強い子どもの読み物が、潜在的に暴力や暴走を避けてきたからなのだろうか。子どもたちが夢中になり熱中するものから目をそらせていては、その心をとらえることが出来ないのは当然である。
 ついでに言えば、車だけではなく、もう何回となく復活して、ブームを繰り返してきた怪獣についても同様だ。あれだけ、普遍的に、子どもの心をつかみ続けてきている怪獣を、真っ正面からとらえた読み物は、意外なくらいに少ない。センダックの絵本『かいじゅうたちの いるところ』が、相変わらずのロングセラーを続けているのに、恐竜の登場する読み物に比べても、怪獣が現代社会に登場してくる作品は極端に少ない。恐竜は科学的だけれども、怪獣は非科学的だからというわけではないだろうが、これもどうしてなのだろう。
 伝統的な妖怪や鬼や、ヨーロッパのドラゴンやモンスターはやたらに描かれるのだが、今日的な怪獣となると、どういうわけか意図的に避けられてでもいるかのように目につかない。読書運動家や子どもの本の関係者たちによる、かつての怪獣番組批判などが、いまだに尾を引いているわけでもあるまいに。あるいはまた、子どもたちが熱中するものイコール俗悪だという方程式が、相変わらず作用しているからなのだろうか。それとも、魅力的な怪獣のキャラクターを生み出すような創造的な想像力が、この分野に欠如しているからなのだろうか。
 ミニ四駆とともに、人気が急上昇なのが、「ゲームボーイ」のソフト、「ポケモン」つまり「ポケットモンスター」である。その名の通り、「ゲームボーイ」の小さな画面上を、それぞれに個性的な可愛い怪獣たちが活躍するのだが、これもコミック化され、関連したキャラクターグッズが大量に発売されており、すでにテレビ化も決定している。凶暴な怪獣たちとはひと味違った、ギャグモンスターのパワーが全開しそうだ。
 活字の分野で言えば、講談社X文庫の岡野麻里安「鬼の風水シリーズ」や、小学館キャンバス文庫の霜島ケイ「封殺鬼シリーズ」などの「鬼もの」が人気で、すでに十万部を超える作品がたくさんある。子どもの本が読まれない売れないなどということを聞くと、このように子どもたちが熱中し夢中になっているものを、送り手がしっかり見据えているのかどうかを疑いたくなってくる。子ども市場に浮上してくるブームだけではない。いま子どもたちは、何を考え、何に心を悩ませているのか。表面的な現象だけではなく、その深層を穿ち見据えていく覚めた目と、子どもたちの現在に寄せる熱い思いこそが、子どもの心をとらえるはずである。
 子どもの読み物は、果敢にべストセラーに挑戦すべきではないか。そうして読者の普遍的な興味や関心を的確にとらえた作品は、一時的なべストセラー現象に終わることなく、ロングセラーとしても時代を超えて残り続けることになるのだ。最初に放映されてから既に三十年になる、テレビの「ウルトラマンシリーズ」がそうであり、いくつかのコミック作品がそうであるように。ただし、時代の子どもたちの心をしっかりとつかんだ作品は、その時々の親や教師をはじめ、子どもの本の関係者からも激しい批判にさらされかねないから困ったものなのだが、この構造にも、そろそろ綻びが見えてきているようだ。
 子どもの本の周辺の干涸らびた「大人」の感性や既成の道徳律などに囚われず、猫撫で声で子どもたちにスリ寄るいかがわしい子どもの本の普及屋に色目を使うこともなく、虚心坦懐に子どもの世界を見回せば、まだまだ可能性はいっぱいある。子どもたち固有の暴力性や破壊願望ごえも引き寄せた、新しい読み物の登場に期待したい。(野上暁