日本宝島

上野瞭 栗津潔・絵
理論社 1976

           
         
         
         
         
         
         
     
 一見、時代小説のような形式をとりながら、全く新しい内容と手法によった新しいジャンルの作品として『日本宝島』がある。現代という巨大化した機構の中から、一点一点作者の関心のあるものを取り出して消化し、昇華して、一つのフィクションの世界を組み立てている。読者は、謎解きのおもしろさ、どんでん返しのスリルを味わうとともに、作者からの挑戦を受けて立たざるをえないはめに陥る。『日本宝島』を語ることは、自己の体制観や人間観を語ることになるからである。
 一九七四年に出版された『目こぼし歌こぼし』も同列の作品であるが、作品としてのまとまりや構成のバランスにおいてすぐれているとはいえ、多様な人間像、多様なものの見方、多様な読みを許容するのは、『日本宝島』においてである。
弘庵先生のところで医者になるための見習中の平助は、男装をしたおときという女の子から呼びとめられ瞽女のお駒から油紙に包んだものを手渡されるところから物語ははじまる。架空の時代(実は現代)と、作者の頭からつくり出された城下町が背景となっている。包みには、死んだときかされていた平助の父、横井庄兵衛(もちろん、あの横井さんのパロディー)の覚え書きが入っており、弘庵先生の追求しているその国の主なる輸出品である『都わすれ』というお白粉の鉛中毒ともつながっているらしい。友人の医者泡斎の助力による、ながら様、御支配、仙洞との会見でも状況は灰色のままで、庄兵衛を探すために船出することになる。ここまでにページ数の約三分の二近くを使い、一人一人の人にたっぷり語らせ、その立場を描くことに費やされている。一たび船出すると、物語の展開は、それまでとうってかわってスピーディーになる。意外な事実が次々に明らかにされ、何故、「宝島」ではなくて、「日本宝島」であるのか納得されるように動いていく。しかし、この作品においては、プロットそのものは、読者をひき込んでいく手段になっており、前半で語られたストーリーを、一つ一つひっく りかえすという仕掛けがおもしろさに息をつくひまも与えない。
 もっとも、特徴的なのは、一人一人の人物づくりである。平助にはじめて会った瞽女のお駒は、目の不自由なものの立場をながながと語る。聞く相手に必然性があろうとなかろうと、、語ることのリアリティーがあろうとなかろうと、一人一人がたっぷりと自分を語る。作者は、どの人物にも肩入れをしない。(最初、弘庵先生プラス泡斎先生が作者を代弁するかに思わせるが、結末では否定的になている。)言いたいことを言わない、言えない、われわれの日常を思いおこすとき、このたっぷりの語りは気持よく、一人一人の長い演説をきいたあと、ある種のカタルシスを感じることができる。ディスカッション・ノベルというレッテルを貼りたくなるような徹底さである。(後半の登場人物に、たっぷりと語らせないのは、それだけに残念で、長編の構成のむずかしさに思い至る。とともに、作者の意識が仕掛けに集中したプロットのリアリティーは逆に出てきている。宝島に住む人物に、御城下の人々と同じ比重が与えられていないということが、この作品の完成度を低くしているのは、いなめない。)
 『目こぼし歌こぼし』でおたまちゃんという日本児童文学史上、まれにみる元気あふれた女の子像を肯定的に描いた作者は、この作品でも、新しい女の人の生き方を念頭においた人物づくりをしている。「おまえもまた、女の子というものは、赤い着物を着て、はずかしそうに下を見て、おまえに声をかける時、『平助さま』と、泣きそうな声で、ものをいうものだと思っているのか。この世の中にゃ、そんなふうに考える男が、はいてすてるほどいるもんだがね……。」というのはおときの弁であるが、作者の「はいてすてるほど」あるような作品は書かないという宣言ともとれる。泡斎先生の「人というものは、ほんとうは何をしてはいけない、何をするのがいい……ときっちりきまっているものじゃないね。いろいろな生き方ができるはずなのに、そうはしないで、ただただ一つの仕事にしがみついている。これは、勇気がないからだよ。」という主張はしかし、新しい男性像をつくり出すまでにはいっていない。新しいと見える女性像も、タイプとしての新しさだけだからかもしれない。ここでの一人一人はまた、一人一人のある面をとり出してきていると解釈すると全部あわせて一人の人、人の一生 という読み方も成立する。
 宝島での宗兵衛の演説「この男(=大久保寛右衛門・筆者註)は、道具かもしれない。……人間のくせに、人間ではなく、道具であることのほうが、ずっとおそろしい。人間は痛みやよろこびを感じます。道具は、それを感じない。だからどんなおそろしいことでも、平気でやってしまう。わたしは、そういう道具が、この世の中にあることを許しておけない。」「わたしたちは、すぐに、むかしのことを許してしまう。……しかし、人物は、二度、生きることはできない。ただ一度の命なのですよ。そのわずかな命を、踏みにじり、消し去るものを、許してはいけないと思う。」には、現代の哲学や政治が辿りついているモラルが語られている。この部分だけをとり出すと、つまらなく思われるかもしれないが、コンテクストの中で、もっともふさわしい場面で登場人物によって示唆されると、歴史と哲学を背おって現在、今、ここにいる自分との関係まで含めて、生きる意味を問いかけられてくる。
 『日本宝島』の仕掛けは、細部にもわたっていて、戯歌のリズム、地図をたどる楽しみ、わかる人にはわかる数々のモデルとそのパロディー、ねぎ様を通して考えさせられる老人問題等々、きりがない。
 物語の結末で、船の水子(かこ)の一人が「おれたちにとっては、あの島をぬけだしたからって、はい、それでおしまいというわけにはいかないのよ。これからまた、仕事探しの苦労が始まるのよ。だから、芝居が終るように、これで、めでたしめでたしとはいえないのよ。」という苦言を、作者の次の作品への期待をつなぐ自虐的予告篇とよむのは、あまりにパズル的楽しみを探しすぎた深読みであろうか。この作品を読了すると、批評家上野瞭は、自分の作品の本質を足場として批評活動をしておられることがあらためて納得される。 (三宅 興子

『日本児童文学100選』日本児童文学別冊 偕成社 1979年1月15日
テキストファイル化 杉本恵三子