日本が「神の国」だった時代―国民学校の教科書をよむ―

入江曜子著 岩波新書

           
         
         
         
         
         
         
    

復活する国家主義思想の元凶を探る

 小淵内閣の強行採決による「国旗国歌法」の制定。森前首相の「日本は天皇を中心にした神の国」発言。二〇〇一年の「新しい歴史教科書をつくる会」の高校歴史教科書の検定合格。こういった状況に国粋主義的傾向の復活を危惧する著者は、それを推し進めた人々の世代的共通点に着目する。小淵恵三元首相と森喜朗前首相は一九三七年生まれ。「新しい歴史教科書をつくる会」の執筆者である西尾幹二は一九三五年生まれ。いずれも国民学校時代に初等教育を受けた世代だ。西尾と同じ三五年生まれの著者は、昨今の国粋主義的風潮の復活現象を、人生の最初に「皇民教育」という超国家主義的イデオロギーを白紙の魂に「刷り込まれた」世代が社会の中枢を占め始めたからだと考える。そしてその時代の教科書をつぶさに分析する中から、超国家主義思想を刷り込まれた子ども時代を過ごした人たちの、判断停止と全体主義の前に立った無力感の遠因を読み解き、そこに復活する国家主義思想の元凶を探る。
 国民学校令は、太平洋戦争が始まる一九四一年三月一日に公布され、その年の四月一日から実施される。小学校が国民学校に改称され、国語の教科書も「サイタ サイタ サクラガ サイタ」から、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」に変わった。「サクラ」が「アサヒ」に変わったのは、共通教科書を使うことになった朝鮮、台湾、満州に対する配慮である。それらの地域では、春にサクラが咲かないからだ。つまり、「大東亜共栄圏」のどの地域にも通じる、普遍的なイメージとしての「アサヒ」であるとともに「日の丸の旗と関連させた国威発揚」と抽象的な「光」である「天皇賛美へと発展していく伏線として重視したため」と著者は分析する。
 音楽にも工作にも昔話にも、教科書の随所に日の丸を登場させ、各学年各学期にわたって日の丸は子どもたちの心に刷り込まれていく。そして『ヨイコドモ』『ヨミカタ』から『初等科修身』『初等科国語』に進むと、日の丸の翻る場が、中国大陸から東南アジアに移行していく。「兵隊ごっこ」から「軍人への憧れ」へ、習字の手本にも「靖国神社参拝」の六文字が登場する。『ヨイコドモ下』では、「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ 神ノ国。日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤク エライ国」となり、「神の国」が強調される。森前首相の「神の国」発言は、こういった子ども時代の執拗な刷り込みから露出したということなのだろうか。
「大君、現御神、現人神、日の御子、すめらぎ、すめろぎ、など天皇の別称を記憶させることを皇国臣民の必須とするようなこの教育は何だったのであろう。特に日本語を母語としない植民地の児童に、このような難解かつ非現代的な読み方を教えるという発送には、皇国史観を信奉する文部官僚の文化的優越者としての精神的サディズム、少なくとも自己陶酔のほかどのような意味があったのだろうか」と、著者はいぶかるのだ。
 しかしそれが、ひとり文部官僚だけの迷妄でないことは、一九三一年生まれの山中恒による『ボクラ少国民』シリーズが検証しているところでもある。山中は自らの少国民時代を省みて、あの皇国民思想に囚われた狂気とは一体何だったかという疑問から、膨大な資料を駆使して、現在もなおそれを執拗に追い続けている。この本を始め、山中著作まで含めて、国を挙げて迷走した時代の狂気の検証から、この時代こそ学ぶべきことが大きいのだ。(野上暁) 週刊読書人