トム・ソーヤーの冒険

マーク・トェイン
大久保康雄訳 新潮文庫

           
         
         
         
         
         
         
     
 ハックとトム、二人の子どもの違いは何かといえば、トムが学校に行く子どもなのに対して、ハックは学校に行っていない子どもであること。子どもが学校に行く理由の一つは専門家の管理の元で社会性を学ぶことになのですが、それは社会が求める子ども像を子どもに伝える作業にもなります。君が社会で子どもと認められるためには、こういう子どもであることが望ましい、と。そんな、学校に行っている者だけを子どもと認める社会ではハックは異人です。だから学校は生徒たちにハックを遊ぶことを禁じています。ハックは自分が納得するルールや子ども像しか受け入れない現実主義者になるほかはありません。
 学校の子どもであるトムにとってハックはとても自由に見えます。ただ一つ、本を読めるトムは読めないハックを、子どもにとって重要な時間でるごっこ遊びにおいてはリードできます。
 そうした「学校の子ども」はそれを納得して学んでいく子もいるし、「?」があっても慣れていく子もいるでしょう。トムは、学校が好きでないのですが、行かなければならないのも知っています。じゃ「学校の子ども」時代のトムはどうするのか? 物語本の好きな彼は、大人に対してはそこから仕込んだ想像力で、大人の先を読み、冗談から本気まで戦略を立て、意識的に嘘をつく(『トム』と『赤毛のアン』は結構似ているんですが、決定的な違いはここです)。
 聖句を二句暗証できるたび、青色いカードをもらえ、それが十枚で赤いカード。赤いカード十枚で黄色のカード。そしてそれが十枚たまったら(二千句!)ご褒美に聖書がもらえるという「いい子も証」制度に対してトムは、カードを持っている子どもたちから様々な巧い取引をして十枚の黄色いカードを集め、一句も暗証していないのに聖書をゲットする。
 ハックと遊んで学校に遅刻したとき、先生にどんな嘘をつこうかと考えることをトムはまったくためらわない。が、新入生のカワイイ女の子がいるのに気づき、彼女の隣の席が空いているのを知った彼は正直に言います。ハックと遊んでいたと。先生は罰として、トムに女の子の席に着くことを命じる。男女が別々の席に分けられている時代、女の子の席に着くことは、男の子にとっては最大の屈辱。が、そのおかげでトムはカワイイ女の子の横に座ることができる。もちろんさっそく授業無視で彼女の気を引くことに専念する、トム。
 嘘と本当を自由に操りながら、つまりは嘘を飼いならしながらトムは、「学校の子ども」という時代を生き延びようとしている子どもです。(ひこ・田中
「子どもの本だより」1999/07,08 第6巻 32号