父をたずねて三千円

岩本敏男作

くもん出版

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 児童文学に描かれた父親像を、当会員とともに探っていて行き当たったこの作品。かねてから岩本敏男を異色の作家として注目し高く評価していた私はみごとにうらぎられた。読書会の出席者ほぼ全員も。同意見であった。
もちろん『父をたずねて』もまた、詩人岩本らしく、文体は軽いタッチで美しく、カマキリで始まりカマキリで終わる構成も心憎い。たが肝心の物語はもう書きつくされたパターンの離婚話なのである。
 母と二人で住む繊細で内気なまさしは、旅費の三千円を用意して別れた父に会いにいく。この四年生のまさし、親の離婚だけが原因ではなさそうな虚無的な性格で、どこか森忠明描くところの森くんたちを思わせるが、彼らほどの奥行きもない。まさしは快速で九つめのところに住む父を訪ねる道中、みなし子になったようなさみしさをかみしめ、「高校をでたらみなし子になってもいい。働いて自由に生き、お金ができればバイクを買ってアフリカの砂漠を走ってみたい。砂漠のむこうは海かな。海をみてどうする? さみしくなって帰ってくる?」と考える。そしてやっと訪ねあてた父の住まいで、その愛人の存在を知ったまさしは、やはりさみしくなってUターン。結果、遅々の再婚は親戚ができたみたいでいい、母も再婚したほうがうるさくなくていいと、さらりと悩みを諦めに切替える、まさしはこの小さな旅で、車中の人、店のおじさん、つっぱりお兄さんらとの出会いを経験し、同じ団地に住む友だちみきちゃんへの気持をも深めるのだが、相変わらず自分の未来についての想像は虚無的なのだ。だが、登校拒否や緘黙児など心を閉ざす子どもの問題が取り沙汰されて久しい現代、この子たちの 心の内はどんなであろうかと推察に苦しむ私は、健全な大人が選んで与えようとする前向きの作品もよいが、あるいはこうしたニヒルな少年像の造形も意外に彼らの共感を呼ぶのではと思ったりもする。しかしそのためには、父と母の人間としての像、別れる理由のあり方、その葛藤などに、この作品としての個性的な追及がほしかった。
 岩本の処女作は『赤い風船』(昭和四六年・理論社)だが、ここには赤裸々に人間を描こうとした短編ばかりが収められていて、その風刺やユーモアは抜群、想像力は奔放かつ豊かで、二十年もの月日を経た今も少しも色あせていない。また『スッパの小兵太』(五三年・福音館)は信長の叡山焼きから本能寺の乱までの戦乱を山賊の子小兵太の目を通して描いたユニークな物語。その後『ゆうれいがいなかったころ』(五四年・偕成社)始め、毎年ユニークな作品を上掲している。そしてここには、病身でいつも死をみつめて生きてきたという岩本の人間観死生観がにじみでていて、独特のユーモアとペーソスが読者を魅きつける。岩本自身は、子どもは嫌い、子どものために書いていないといっているが、『赤い風船』所収の「イカとタコ」「おなら」「ゆうれいのオマル」などをみても、彼は内なる子どもをもち、子どもの目の高さまでおりていって書ける作家に違いない。だからこそ『父をたずねて』のタイトルからも、作者の個性あるユーモアと奥行を期待したのだが、このうらぎりは何ゆえであろうか。心を病む子どもの治療に、本人の創作や箱庭作りが用いられることを考えるとき、クリエイト することでこわれた心が些かでも救われるならば、岩本のように徹底したニヒリズムを潜りぬけた作家の豊かな想像力による優れた作品は、現代を病む子どもたちへのすばらしい贈り物となるのではないかと、今後への期待を私は抱きつづけたい。(持田まき子
児童文学評論26号 1991/03/01