テオの家出

ペーター・ヘルトリング

平野卿子訳 文研出版 1990

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 西ドイツの作家ペーター・ヘルトリングによる一冊。『おばあちゃん』『ヒルベルという子がいた』『ヨーンじいちゃん』『ぼくは松葉杖のおじさんに会った』など様々な社会問題をテーマにした作品で、一作ごとに強い印象をあたえ続けているヘルトリングだが、本書では少年の家出を取り上げている。
 テオは十歳の少年。学校ではひょうきんもので通っているが、家ではもの静かでまじめだ。テオのお父さんはお酒を飲んでは、なにかにつけてテオやお母さんにあたり散らす。テオは二回家出をする。一回目はお父さんがひどく荒れた翌日だ。一回目の家出は冒険的な色彩がこい。ヒッチハイクをしたり、森の小屋で一夜をすごしたり、「流れもの」気取りで町の少年たちとつきあったりがそうだ。この家出では、テオが大好きになった人との出会いもある。パパフンフンとケマルだ。パパフンフンはメリーゴーランドの持ち主で、太った愉快なおじいさん。しょっちゅう鼻をならしているのでこの名前がついている。テオのことを心配し家に帰れるように手紙まで書いてくれる。ケマルはテオを乗せてくれたトラックの運転手。家に帰るように言い、別れ際に自分の息子のようにテオをだいてくれる。
 この家出のもうひとつの特徴は、空想の家出と現実の家出の対比だ。テオはふたつのギャップに苦しむ。空想のなかでは、家出したテオはヒーローになり友だちもいっぱいできる。最後には有名になって家にもどり、両親をおどろかす。両親はテオを粗末にあつかったことを後悔する。しかし現実は、ヒーローどころか家出してきたことがばれないようにたえずびくびくしていなければならない。しかも一番つらいのは、好きになったパパフンフンやケマルと一緒にいられないことだ。だれも家出してきた少年を手もとにはおけないのだ。
 二日後、テオは保護される。両親がけんかをしなくなってほしいと家出をしたのに、家にかえったテオを待っていたのは両親の離婚の知らせだった。二回目の家出は行くあてのなかった一回目の家出とはちがう。やめたはずのお酒をまた飲み始めたお父さんのことを、パパフンフンに相談にのってもらおうとしたのだ。しかしパパフンフンには会えず、テオは車の盗難事件にまきこまれてしまう。無事に保護されたものの、両親まで何度もよびだされ家出の後始末は大ごとだった。
 もう一度家出したらテオは施設行きになっただろうが、三回目の家出は回避される。二回目の家出以来テオの話相手になっていた福祉事務所のローターが、テオの様子から気配を感じとり、先まわりしてパパフンフンに会わせるのだ。パパフンフンはテオに、自分の家出のことももちだしてテオの家はいまいるところしかないとさとす。
 一人称で語らるわけではないが、この作品に一貫して感じられるのは生き生きとしたテオの気持ち、特にテオのさびしさだ。ひょうきんもののふりをしているテオ、心を打ち明ける相手がいないまま天井にうつる想像の小人に話しかけるテオ、ケマルやパパフンフンをしたうテオ。テオのさびしさは、家出の下敷きとなっている。またテオを見まもる作者の暖かい目も随所に感じられる。パパフンフンはヘルトリングだろう。
 ヘルトリングは、「つねに現実を描きたい。読者はなにより現実をしっかりうけとめてほしい」と言っている。読者はテオとともに、両親の離婚というきびしい現実に立ち向かい、最後のパパフンフンの言葉にこの現実を受けとめる勇気をもつだろう。テオはもう家出はしないと思う。オープンエンドの結末は読者にも考えてもらうための、ヘルトリングのねらいだという。
 小学六年の男の子に、両親がけんかばかりしていたら家出を考えるかと聞いたら、けんかをやめさせるためならするかもしれないと答えた。親の不和、離婚がふえている現在だが、できることなら子どもたちにテオのような思いはさせたくない。(森恵子)
図書新聞 1990年10月20日