「タクティクス オーガ」(上下巻)

Vジャンプコミックス・集英社 1995



           
         
         
         
         
         
         
         
         
     
この書物は、ソフトなしには成立しない、ソフトに対して元来従属的な姿勢を示しているものだ。ゲームソフト自身は、こうした攻略本を参照せずともクリアはできるようにはなっている。しかし、プレイヤーの進歩と共に、ゲームの難易度は年々上がってきており、それは、新しいユーザーにとってはゲームへの敷居が高くなることで、そうした事態への対処のために、攻略本の重要度は増し、ソフトとそれの蜜月が形成されているのが現在の状況だろう。攻略本さえあれば、プレイヤーの熟練度にかかわらず、とりあえず誰でもクリアできるのである。
クリアすることが目的なら、攻略本の必要性とはそんなところなのだが、例えばこの書物を眺めていると、攻略本はソフトに従属的な書物であると断じることへの自信が失われてくる。それが対応するソフトから自立してしまっているというのではない。この書物は、ソフトが誘おうとしているゲームの流れに間違いなく寄り添っている。が、従属的であるより、むしろ積極的にゲームをリードしようという態度がほの見える。
例えば攻略本の説明文は、ソフトに付属するマニュアルがページ数の制限でカットせざるを得なかったものを補足することが多いのだが、カチュア・パウエルの場合の、「デニムの姉。プリーストの修行を積んでいる頼もしい味方」(マニュアル)から、「デニムの実姉。幼い頃に母を無くしてからは、母親代わりとして一家を支えてきた。気丈夫で勝気な反面、誰かに愛されたい、必要とされたいという思いが強く、唯一の肉親であるデニムを盲目的に愛する。カチュア自身はそれほど解放運動に積極的ではなく、デニムがリーダーであるから、デニムのそばにいたいから参加している」(攻略本)への踏み込みかたは、一個の自立するゲーム(物語)に対する補足というより、攻略本がソフトと等価であろうとする欲望をちらつかせている。
今のところ映画・TVほどビジュアルで物語を描けない、小説ほど文章で物語を描けないテレビゲームというメディアにおいて、物語性を重視するRPGは、ショートデフォルメからポリゴンまでの人物描写と、わずかばかりのセリフとナレーションしか使用できず、圧倒的なバトルシーンのリアリティを高めることで、その物語性を成り立たせてきた。しかし、少年が悪とその具現化されたモンスターを倒すことで世界を救うといった、シンプルな構図を消費しつつある現在、より複雑で深度のある物語が求められている。
「タクティクス オーガ」の場合だと、正義と悪だけが存在するのではなく、ヒーローたちの戦いですら、民衆にとっては迷惑であることにも触れられ、例にあげたカチャは、正義の戦いに明け暮れる主人公の弟に絶望して、彼と袂をわかちもし、幼なじみの相棒は主人公への嫉妬と、権力への欲望に負けて敵側に回る、といった具合である。
もちろんそうした事実はゲームを進めるに従って明らかになることで、攻略本なしにでも知ることができるのだが、難しいバトルとバトルの間をつなぐためのエピソードとしての役目を担わされているために、かみ砕き、反芻し、想像することからは遠い。
攻略本は、クリアを目的とするためだけの書物から、その物語を味わい尽くしたいプレイヤーにとっての必需品へと変貌をとげつつある。ソフトなしには存在しえない書物が積極的に語ろうとすること。
それは、物語ることにおいて活字の優位性を示しているというより、そうした書物が語りたくなるような物語がそこにあるということだ。まだ十数年の歴史しかないテレビゲームは今、物語との格闘を始めつつある。(ひこ・田中

           
         
         
         
         
         
         
         
         
     

季刊・ぱろる2号 1995,12