ぞうの王子サマ

ルネ・ギヨ 作

那須辰造 訳 瀬川康男 絵
講談社 1950/1968


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 フランスの動物文学には、一方に自然への憧憬と綿密な観察にもとづくファーブル『昆虫記』があり、他方に子どもに倫理的徳性を教えようとするセギュール夫人『学問のあるロバの話』のようなものがあるが、ギヨのものはそのどちらとも違う。アフリカを舞台とした『ぞうの王子サマ』『ライオンのシルガ』『ひょうのクボ』『チンパンジーのウオロ』にしても、極北を舞台にした「グリュシュカと熊」のシリーズにしても、ここでギヨが書こうとしたのは、野生の動物と人間―白人と原地人―のかかわりであり、人間優位の文明社会に投げかける疑問である。
 おおよその筋を記そう。
「舞台はアフリカの象牙海岸、コモエ地方。サマの父ウエドラオゴは、象仲間の王として一族を率いて来たが、今や老いて自ら死を悟り、後継者の地位をねらっている壮年の象タルクアダと、王位継承の儀式である一騎打ちを果し、敗れて象の墓場であるコグリへひとり赴く。コグリとは水源であり、老象はその泥水に身を沈め、立ったまま近づく死を待つのである。古いものはここで生命を全うし、新しいものがここから流れ出す。サマはまだ幼いので、一族を率いるのは乱暴者だが力のあるタルクアダである。ウエドラオゴの妻マラヤは、彼には真の指導者たるにふさわしい資格に欠けるものがある事を直感している。それは天から授かる才能、運である。象たちは雨を追って旅するのだが、ウエドラオゴが指揮をとるようになってから、天候も不順で雨季が狂い、象たちは苛立って人間の部落を襲ったりする。象の群は報復をうけ、アラヤはロビ族のしかけたわなにかかって危い目にあうし、タルクアダも象牙とりの白人に撃たれ重傷をおう。サマは生捕りになる。
 サマが連れて行かれた所はラルーナという所で、ここで白い人間マーローに会う。ジャングルで生れ育ったマーローは、野生の動物が何より好きで、動物たちを檻に入れずに飼っていた。サマはそこで、ジャングルで知り合ったチンパンジーのウオロや、ひょうのクボにも会う。動物たちはここで楽園にいるように暮している。
 ある日、ジャングルに出かけたマーローが行方不明になり、動物たちは八方手をつくして探す。ウオロが、谷で骨折して動けなくなっているマーローをみつける。マーローの体は何万ともしれぬ赤アリにたかられ、唇は喰いちぎられていた。彼は動物たちに救い出され、フランスの病院へ帰る。動物たちはマーローのいなくなった楽園を次々去って行く。サマもウオロの手引きで仲間の所へ戻る。仲間は、タルクアダに率いられ、雨を追って巡礼中だった。サマはティニという婚約者にもめぐり会い二か月ほどの蜜月を過ごす。
 しかし再び生捕りになり、船でマルセイユに運ばれ、サーカスに売られる。
 サーカスでまたウオロとめぐり会うが、サマは幸せになれない。嵐の前ぶれのような、重苦しく暑いある日、サマは狂暴にあばれまわり、サーカスは大乱闘。そこへ客席からマーローが来て、サマとウオロを買い戻し、ジャングルへ返してくれる。」
 ギヨは、大学を卒業してすぐセネガルに赴任し、アフリカの地で二十余年を過した。その間奥地を旅して原住民や動物と暮し、ジャングルの動物についてのさまざまの実話や伝説を聞いた。その豊富な体験にもとづいて書かれた部分は、従って真迫的な力を持っている。象とロビ族が、川をはさんでお互いに領域を侵さないよう暮し、川の両岸にはそれぞれの土地を守る魔除けの人形を立てている話や、動物より後からやって来た人間は、その土地の動物に村や畑を作らせてほしいと願い出て、ライオン王国ディアラに来た人間はライオンの子、カバの王国マリに来た人間はマリの子と自称しており、各々の王に恵みを謝して捧げものをする挿話など、ここに見られる人間と動物の共存が、ギヨの理想なのに違いない。
 野生の動物には各々の守り神のような姿の見えない小人や、「声の花火」といわれるトウモロコシの粒くらいの大きさの鳥がついていて、本能に働きかけ、危険
をしらせる話は面白い。人間に手なづけられた動物は、その霊感を失ってしまうというのもよくわかる。
 しかし、人間は、いつまでも未開のままでいるのがいいのか、それともマーローのように文明の恩恵にも浴しつつ動物を保護するのがいいのかという段階にな
ると、ギヨの主張はもうひとつ定まっていないように見える。
 その未消化の部分が、この話をドキュメンタリーでなく、仔象の成長物語としてフィクショナルに描いた所に露呈しているように思う。フランスの批評家イザベル・ジャンは、その著『児童文学』で、ギヨの作品をキャプリングの『ジャングル・ブック』と比較して、表現が文学的にすぎ、ドラマの面白さが薄れたと批評しているが、この材料をドラマに仕立てるには、もっと強力なストーリーが必要だったと思われる。ここにもサマを中心とするお話の筋はないわけではないが、これが読者をひきつけて離さないドラマになるためには、登場人物(?)の豊かな肉付けと、続いて起こる事件を読者に納得させるリアリティがまだ欠如している。
 ケネス・グレーアムの『たのしい川べ』のねずみやもぐらやかえるは、名前を与えられていないのになんと個性的であろう。個性的であると同時になんとその動物の普遍的属性をも具現している事だろう。あの手法と較べると、ギヨの擬人化は中途半端で、動物たちは各々それらしい名前を与えられながら、その行動や思考はその動物の一般的属性や個性というよりは、人間のそれを思わせる。その点で読者に少しでも疑念が湧くと、動物の行動やそれによって進む話の運びもうさんくさくなる恐れをはらんでいる。
 イザベル・ジャンやG・パットが「フランスの児童文学」(『日本児童文学』77年10月号掲載)で、アルーン・タジェフやノルベール・カストレの科学ドキュメンタリーを高く評価し、フィクションとしては、ジョセフ・ケッセル「ライオン」や、カストール文庫の「動物のロマン」を賞讃しているのも同じ観点による。(石澤小枝子
世界児童文学 100選1979/10/15(偕成社)

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