ゼバスチアンからの電話

イリーナ・コルシュノフ作
石川素子・吉原高志共訳 福武書店

           
         
         
         
         
         
         
     
 『だれが君を殺したのか』などで、すでに一九七○年代からヤング・アダルトものを書いていた、ドイツのイリーナ・コルシュノフのもう一つの傑作『ゼハスチアンからの電話』……は内容はまさに一九九○年代の日本むけ、なのですが、書かれたのは一九八一年です。
 一九八○年頃の日本がなにを考えていたかを考えると……早いよねえ。
 なにせこの本のキーワードをとるなら、やっぱり〃共依存〃-なんですから。
 七○年代にコレット・ダウリングが『シンデレラ・コンプレックス』のなかで、自分はしっかりしていると子どもの頃から人にもいわれるし自分でもそう思ってたのに、結婚したらなぜか夫にすがりたくてたまらない……独立心が強い、と思われてるアメリカ女にもこういうのがいるのよ! という主張をしてデビューしてきた時が、今考えるとターニングポイントの一つだったわけですが、その時は、これは〃女性の自立〃なのだと考えられていました。
 もちろんそれで一○○パーセントまちがいってわけではないのですが、今では〃アダルト・チルドレン〃の考え方を使って、自立したいのにさせてもらえない、ではなくて、子どもの時がんばっちゃった分、大きくなって頼れる人が出てきた時に子どもにもどってコントロールが利かないほど甘えてしまう……だったり、この物語のお母さんのように、子どもの時からダンナさん(男)の面倒はオンナがみるもんだよ……といわれつづけたために頭では違うとわかっていても、呪いにかかったように体が動かなかったり、あなたを愛してるからこそ! じゃないの……といって相手(夫や子どもね)を自分の生きがいにすりかえてしまう、共依存だづたり……だったんだな、あれは……というのがわかってきています。
 この物語のヒロイン、十七歳のザビーネは、とても頭のいいしっかリ者だったのに、初めての恋人、ゼバスチアンのことを夜も昼も考え、ひたすら電話が鳴るのを待ち……というように自分をなくしてしまいます。
 で、そんな、べターッとよリかかられたら相手だってつらい……。というわけで、オレ以外に何か興味持ちなよ、といわれ、別れちゃうんだけど、なんか自分で自分が変、ということはザビーネもわかるわけです。
 だって彼女の家は、自分で勝手になんでも決定しちゃうのに、本人はみんなに相談していると思い込んでる精神的暴君の父親と、そんな父親に決して逆らわない母親、というカップルで、常日ごろザビーネはそれを腹立たしく思い、私は決して〃お母さんみたいにならないわ〃と思ってだんだから-。
 でも、彼と別れて、離れてから、ザビーネは必死になって考え、どんどんボロボロになった皮がはげおちるように物事の真実、が見えてきます。
 自分がいかに自分をなくし、ゼバスチアンに依存するようになってたかそうしてそれは自分の両親の、いやでたまらないと思ってたパターンのくりかえしなのだと……。
 この本が書かれた時には〃共依存〃という考え方はまだ存在していなかったと思いますが、これは実にみごとにわかりやすく、よくできた〃共依存ストーリー〃です。(赤木かん子)
『かんこのミニミニ ヤング・アダルト入門 図書館員のカキノタネ パート2』
(リブリオ出版 1998/09/14)