ザ・ギバー


ロイス・ローリー

掛川恭子訳/講談社

           
         
         
         
         
         
         
    
 子ども向けの本のことを、いわゆる「ジュヴィナイル」というのだけれど、それを邦訳して「児童図書」というと、それがそっくりあてはまらないのである。たとえば、海外でジュヴィナイルとして出版された作品が、翻訳されて一般書コードで、装丁も大人を意識したもので出されるというケースはめずらしくない。サイエンス・フィクションには、その手の名作には事欠かない。アーサー・C・クラークの『イルカの島』(創元SF文庫) なども、ジュヴィナイルSFとして書かれたものであるけれど、日本では立派な大人物として愛読されているし、最近大人のホラー・ファン(スティービー・キングなどのマニアね)をねらって翻訳出版されている「グースバンプス・シリーズ」(鳥肌シリーズとでも訳しましょうか)なんかも、カナダではれっきとしたガ キ本で、大人が眉をしかめる「悪書」の部類らしい。
 つまり、なにが言いたいのかというと、ジュヴィナイルという言葉で呼ばれる作品は、とても幅広い読者層をつかまえることができる力をもっているということだ。
 ロイス・ローリーの『ザ・ギバー』記憶を伝える者(掛川恭子訳/講談社)も、子どもの視線をとおして「世界」を眺め体験するという前提によって書かれているジュヴィナイルである。
 一見、ユートピアともとれる近未来社会が、おそろしく管理され、活力を失っているばかりでなく、人類の記憶さえも奪われているデストピアであったという恐怖が、頁を一枚一枚めくるたびにじわじわ伝わってくるという作者の手並みは、SF 好きのすれっからしの読者でも、おもわずひきこまれていく筆力がある。未来社会が人間的活力や自由をうしなってかりそめの明るさに命をつないでいるという設定は、ウェルズの『タイムマシン』にもすでに描かれているように、特別驚くべき前提ではないけれど、小さなコミュニティ単位に別れた社会が、家族ユニット(血縁のない)から職業、出産(出産母という専門職がある-)まで管理され、適応できない者はリリースという美名のもとに安楽死、ないしは薬殺されるキミワルサは格別だ。死と人類の記憶と、色彩はすべてこの社会から隠蔽され奪われていて、薬殺する担当者さえ、その行為の意味について知らないのだ。
 彼らはすべて、かくもおそろしい管理と日常をなまぬるい善意と従順でやりすごしている。なぜなら、すべて個人の選択の自由にまかせたら、社会はとてつもない混乱に陥るから。そして長老会の決定には誤りがないから。
 ここまで読んでくると、時期が時 期だけに、特殊な世界観に呪縛された結社団体の内部とのパラレルをいやおうなく感じてきて、ひどく寒けをおぼえるが、コミュニティの碇にいやおうなく支配されているのは、〈あちら側〉も〈こちら側〉もおなじことではあるのだ。
 コミユニティのなかでただひとり、ザ・ギバーとよばれる「記憶を伝える者」が選ばれ、後継者に記憶をつたえながら、全人類の記憶を背負っている。主人公のジョーナスは十二歳になって職業任命の際に、その能力を測られて「記憶を受け継ぐ者」に選ばれた。
 高齢の「記憶を伝える者」から幻視体験として伝えられる記憶は、すでに失われた自然の壮大で荒々しいビジョンもあれば、いまわしい戦場の記憶もあり、小さなジョーナスは、その全人類の記憶の重さに押しつぶされそうになる。そして、自分たちが、なにを奪われていたかも知るようになるのだった。色彩も痛みも、死の苦しみも、人間たる者の尊厳として各個人がそれぞれに背負う「権利」があることにもめざめていく。
 記憶を人類みんなのものに返すというジョーナスの反乱がはじまる。
 年老いたザ・ギバーも、それに同意するのだった。良くも悪くも、人間はみずから選択する権利があるのだ。ジョーナスの葛藤からコミュニティ脱出へと物語は加速されていくわけであるが、後半のスピード感はよいとしても、物語の厚みとしての後半部にものたりなさをかんじさせられたのは欲張りというものだろうか。リリースされることになった幼児ゲイブリエルを連れての逃避行のスリルも、いまひとつ書き込み不足のように思える。
 ともあれ、ジョーナスは〈いずこ〉へ、外の世界へ出ていくのであるが、それは、世界の再構築のための入口に立ったにすぎない。むろんのこと、ロイス・ローリーは、再構築までの壮大なロマンを描くつもりはなかったようだ。
 いや、むしろ書かなかったことにより、その壮大な葛藤のドラマは、記憶がもどっていったそれぞれの人々の心の なかで生じているはずだということなのだろう。すべては、心のなかの出来事であるからだ。
 「記憶」というテーマで近未来社会のデストピアを描くこの作品に衝撃をうけて、たじろぐのは、少年少女読者よりも、すでにして背後に人 生の記憶を背負っている大人たちのほうではないかという気がする。記憶の意味とは、嬉しさ、悲しさ、やるせなさ、苦さ、悔恨といった諸々の人生の味を知り、ぬくめなおすことをはじめた者にして、はじめてその大切さも実感されうるのではないか。この作品をひどく気に入る子どもがいたら、前世の記憶でも持ってるんじゃないかしらと疑ってもいい。
 だからこそ、『マディソン郡の橋』を読んで涙にくれるオジサン・オバサンたちに、いいたいのである。子どもに買い与えるまえに、自分で読みましょう。書店の人も、この本は、一般書の平台に置くよーに。(作者にも訳者にも出版社にも、なんの義理も肩入れもないけれど)
 そして、言わずもがなの余計な一句。「『ザ・ギバー』のようなコミユニティは、いつのまにかあなたのまわりにできている」(天沼春樹)
季刊ぱろる1 1995/09/29