Snow Woman

David McKee

Andersen Press,1987.

           
         
         
         
         
         
         
     
 イギリスで『スノー・ウーマン』という絵本が出た、と言えば、日本の民話でおなじみの「雪女」の英訳版かと思う人がいるかもしれないが、そうではない。これは、女の雪だるまの話である。
 英語では、ふつう雪だるまのことを「スノーマン snowman」と言う。と言っても、単なる雪のかたまりにとりたてて男女の別のあるはずもなく、この「マン」は男のマンではなくて人間のマン。だから、もしこのスノーマンを日本語に直訳するとすれば、「雪男」ではなく「雪人間」とでもするのが正しい。
 だが、そういった本来の意味はどうあれ、一旦「マン」と言ったが最後、どうしても男を連想してしまうというのが、英語という言語の悲しさである。ポリースマン(警官)、チェアマン(議長)、セールスマン(店員)──こういった「マン」付き職業名に英語圏の女たちが猛然と反発し、マンではなくパースン person を用いるべく運動を展開した背景には、それなりの切実な事情があった。そしてそれらの声への対応として、例えば合衆国労働局が、「女たちがいろいろな職業から除外されている問題を克服しようとして、ほぼ三五〇〇職種の名称を改変し、それらを男に限るという指定のない、性的に中立なものにした」(D・スペンダー『ことばは男が支配する』より)というようなことがあったにせよ、日常生活のレベルでは「マン」付き職業名は今も健在であるし、職業名でない「スノーマン」には誰も異議を申し立てない。だから、アニメにもなったレイモンド・ブリッグズの絵本『スノーマン』のスノーマンはどこから見ても男だったし、あの作品は男の雪だるまと人間の男の子による、誰もが認める美しいファンタジーになりえたのである。
 そこへ、敢えて一石を投じたのがデイヴィッド・マッキーの『スノー・ウーマン』(アンデルセン社、一九八七)である、というのが、ここに同書を紹介する理由の最大のものだが、ことのついでに、さして重要でないもう一つの理由の方も掲げておきたい。それは、この絵本が恐らくは翻訳不可能であること。従って、このような機会に紹介でもしておかない限り、まず日本の読者の目に触れることはないと思うからである。
なにしろ、『スノー・ウーマン』の最初の六ページは、次のようなテクストからなっているのである。
(部屋の中で掃除機をかけている大人の男。開け放ったドアの前を通りかかる男の子と女の子。)
「ねえ、今からぼくたち、スノーマンつくるんだ」と、ルーパートが言いました。「じゃなくって、スノーパースンだろ」と、お父さんが言いました。
(別の部屋で壁に釘を打っている大人の女。開け放ったドアの前を通りかかるルーパートと女の子。)
「ねえ、今からぼくたち、スノーマンつくるんだ」と、ルーパートは言いました。「じゃなくって、スノーパースンでしょ」と、お母さんが言いました。
(女の子だけが、その部屋に入って来る。)
「あたしはね、スノー・ウーマンをつくるの」と、ケイトが言いました。「あらそう、いい子だこと」と、お母さんは言いました。
 英語→日本語の訳しにくさはもうおわかり頂けただろうから、それはさて措くとして、その後の展開をかいつまんで説明してみよう。まず庭に出たルーパートとケイトがそれぞれにスノーマンとスノー・ウーマンをつくる。似たような形だが、スノー・ウーマンの方にはちゃんとオッパイがついている。
 ルーパートは、台所でボウルの中身を泡立てているお父さんに頼んで、帽子とマフラーをもらう。スノーマンに着せるために。(「じゃなくって、スノーパースンだろ」)。ケイトは、壁にドリルで穴をあけているお母さんに頼んで、帽子とマフラーをもらう。スノー・ウーマンに着せるためだ。(「もちろん、あげるわよ、いい子ちゃん」)。 その夜、ルーパートはお父さんにたずねる。あしたもスノーマンがそのままでいるかどうか。(「じゃなくって、スノーパースンだろ」)。ケイトもお母さんにたずねる。スノー・ウーマンがそのままでいるかどうか。(「ええ、そうだといいわねえ」)。
 ここまでのテクストから伝わって来るメッセージは、およそ次のようなものである。即ち、男の子があたりまえのように「マン」を前提とし、無自覚のうちにそれを女の子に押しつけようとするのは、よろしくない。それはたしなめてやらなければならないが、女の子が意識的に「ウーマン」を主張するのはいいことなので、励ましてやるべきだ。少なくとも、この家の両親はそう考えているのだと。
 同時に、読者はテクスト以外の部分からも、性別に関する既成の概念をできるだけ打ち破ろうというこの両親の努力の跡を、いくつも読み取ることができる。家事における男女の従来の役割分担を逆転させていることは前述のとおりだが、それだけではない。色違いのセーターに、そろいのジーパンをはいた彼らの髪形は、父親がやや長めのウエーブ・ヘアー。母親が短髪を逆立てた刈り上げスタイル。恐らくは双子と思われる子どもたちには、全く同じ服装をさせ、二人のそれぞれの寝室には、いわゆる男の子の玩具と女の子の玩具、そのどちらでもない玩具がほどよく混在させてある、といった具合である。
だが、なんと言っても圧巻なのは、家中の壁という壁にはりめぐらされた総数二四枚の絵画。これがすべて男女の対関係にまつわるものだというのだから、実に念の入った話ではないか。
例えば、母親が打っていた釘にかけられたのは、三日月の夜、男と女が坂道で綱引きをしている図。男に較べて太めの女が傾斜の下側から必死で綱を引いているのに、男は涼しい顔をしている。そして、その隣にあるのは、横臥した裸の女が垂直に立てた片足で、これも裸の男を支えている図。男はロダンの「考える人」よろしく膝に肘をつき、そのまるめた背中には小型の家が乗っている。ついでにその横に見えるのは、裸の男が斧を振り上げてまさに木を切り倒そうとしている図。彼と向かい合っては、これも裸の女がその木にみのる赤い果実を指をくわえて見上げている・・・。
 一方、それらと矛盾すると思われる言動もないではない。
例えば、終始無愛想な顔で断定的な物言いをする父親と、厚化粧でにこやかな母親という対比。女の子は母親と、男の子は父親としか口を利かないというある種の分断。そしてその最大のものは、子どもたちに帽子とマフラーをねだられた彼らが、スノーマンには男もののそれを、スノー・ウーマンには女もののそれを、思わず渡してしまうところである。とりわけルーパートの「スノーマン」は、ここで男ものの衣服を与えられることによって、それまで持っていた「マン=人間」を失い、以後は完全に「マン=男」たるべく決定づけられてしまうわけだから、父親に見られる自家撞着は実に甚だしい。
これらは単に先行する理論に日常的実践が追いついていない情況を示しているだけなのか。(実際、「スノーパースン」なるものに着せる服の形状など、誰がイメージできるだろう。)それとも、作者は、こういう形で昨今の女性運動をやんわりと##しているのか。
 ともあれ、こうしてスノーマンとスノー・ウーマンは一組の対をなすカップルとなったわけだが、子どもたちの願いもむなしく、翌朝になると彼らはその帽子とマフラーもろとも姿を消してしまっている。そして、雪の上を門の外へ点々と続く足跡。
「だけど、スノーマンが歩いて出て行ったなんて、聞いたことないよ」と、ルーパートは言いました。
「今までは、スノー・ウーマンがいっしょじゃなかったもんね。だからじゃない?」と、ケイトは言いました。
「さあ、何して遊ぶ?」
「スノー・ベア(クマ)をつくろうか」と、ルーパートは言いました。
「男のクマ? 女のクマ?」と、ケイトはたずねました。
「ただのクマさ」と、ルーパートは言いました。
 こうして、例のとおりのおそろいの服に身を包んだケイトとルーパートが元気よく雪の中へ飛び出して行くところで、この絵本はめでたく幕となる。前日は常にルーパートの後ろに従っていたケイトが、ここでは先に立って彼の手を引き、その後を、この絵本における唯一の非性の存在である白い飼い猫が、いかにも嬉しそうに追いかけて行く。彼/彼女は前日、二人が別々にスノーマンとスノー・ウーマンをつくりに出て行った時には、悲しそうに戸口で見送っていただけだったのだが・・・。けれども、果たして「スノーマン」をめぐっての両親の教育的配慮が子どもたちに、とりわけルーパートに、きちんと理解されたかどうかは、よくわからないままである。
 このように、『スノー・ウーマン』は誰もが読んで納得がいくタイプの作品ではなく、裏表紙の紹介文にもあるように、ただただ「人の思考を掻き立てる」。と同時に、これはブリッグズの『スノーマン』に対するある種のパロディでもある。スノー・ウーマンを得たスノーマンは、読者を子どもの日の夢の酔わせて美しく消え去るかわりに、この一家の体現する現状への問題提起を身にまとい、それに内在する矛盾点をも引っさげたまま、家の境を越えて、外の世界へ歩み去るのだから。
 一般に、絵本というメディアで社会的な問題を扱うのはむずかしい。ましてや、雪だるまというような、大人のノスタルジーを誘う素材を使ってそれを語ろうというのは、一つの冒険でさえある。この作家の作品にして、未だに主だった児童書の書評誌に取り上げられた形跡がないあたりに、評する側の戸惑いが読み取られ、その点が残念でもあり、興味深くもある。(横川寿美子)

飛ぶ教室No27 1988/08